浄土 真宗 大谷 派 お経。 西本願寺と東本願寺の違い

浄土真宗・天台宗・浄土宗のお経の特徴

浄土 真宗 大谷 派 お経

こんなにあるのですか~ そうなんです。 これから、 浄土真宗の「真宗大谷派」についお話しします。 参考: 真宗大谷派の葬儀のお布施 そもそも、 お布施を気にする、考える時というのは、葬儀や法要ごとがあるときです。 ご自身でお布施を払ったことのある方は、余りお見えにならないでしょう。 葬儀社の葬儀プランに、お布施も含まれているものだと思い込んでいる方が、実は少なくないのですが、 お通夜から葬儀、初七日までのお経料としてお包みする「お布施」はお寺さんに渡す費用であって、葬儀式の費用とは別のものなのです。 こちらは、真宗大谷派の住職から頂いた、お布施金額の一覧表です。 「お布施はおなたのお気持ちで結構です」という伝え方をされるのが一般的でしたが、 最近では、このようなお布施一覧表を持ち歩く住職が増えています。 私が触れてきた中で、最もお値打ちなお布施表と言っても過言ではありません。 一般的な真宗大谷派のお布施相場と聞かれると、先ほどのお布施表に5万円を足して頂く金額が妥当でしょう。 そして、初七日の欄には、葬儀式中と書いてありますが、葬儀の後、火葬を終え、亡くなられてから七日目に読む 初七日法要を繰り上げて、葬儀式の中で、お経をもらうという意味です。 これを「式中初七日」と呼びます。 こちらは、ここ数年で広まった形でもありますが、 導師が葬儀後に火葬を待つことなく、その日のお勤めが葬儀の時間のみで終わることや、 ご遺族様方の葬儀にかかる時間も軽減されるやり方なのです。 一部に受け入れて頂けない寺院もありますが、 これは、現実的な高齢化に配慮した形でもある。 そもそもお布施とは、目の前の導師に渡しますが、元来より本尊に捧げるものとしての意味合いから、正式に値段のつけようがないものなのです。 あなたの価値観、思いの丈で決まるもの。 真宗大谷派で読まれるお経「正信偈」 真宗大谷派でも読まれる 「正信偈(しょうしんげ)」 私の生まれ育った田舎では、夏休みになると、小学生がを集めては、 子供たちにお経を教えてくれる住職がいました。 もちろん、難しい意味など分かるはずがありませんが、平仮名と音階がふってあるので、子供にもなんとか読めるというわけです。 真宗門徒にとっては、宗祖である親鸞聖人。 「 ともに生き 皆ともに往き ともに会う」という教えが釈尊の時代から伝えられてきたことに、深い感銘をもったとのこと。 こちらは正信偈に書いてある回向文なのですが、 願以此功徳(がんにしくどく) 平等施一切(びょうどうせいっさい) 同発菩提心(どうほつぼだいしん) 往生安楽国(おうじょうあんらくこく) お経の最後で合掌をするところですね。 分かりやすくすると、「 阿弥陀さまからいただいた信心をもって、自分だけではなく、周りのすべての人と一緒に浄土へ往生させていただくことを願う心」でしょうか。 これは、長かったお経がやっと終わるぞ~の合図になってしまうこともあるのか? まとめ 浄土真宗とは在家仏教と呼ばれるように、日常生活を営み、悩みや苦しみの中で思い通りの人生を歩めない中で、 阿弥陀仏の念仏によって、力強く生きていく教えとなります。 真宗大谷派の葬儀のお布施の相場は20万円~であること。 真宗大谷派の法名は0円~2万円程度であること。 どちらも地域や寺院によって変わってくること。 葬儀社に支払う葬儀費用とお布施は含まれていないこと。 お布施や法名料については葬儀社に聞いてみると、地域のごとの概ねの金額がわかること。 葬儀と同様に、僧侶についてもにも相談ができますので、メールで問い合わせてみてください。 ブログランキングに参加しています!記事の内容を気に入っていただけましたら、バナーのクリックで応援をお願いいたします!.

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真宗大谷派のお墓の特徴、お墓参りの作法について徹底解説!

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目次はこちら• 浄土真宗とは 浄土真宗とは日本発の大乗仏教です。 親鸞聖人から始まった仏教で、簡単に分かりやすく言うと、本尊である阿弥陀如来を信じる限り、念仏さえ唱えていれば皆が仏となる(救われる)という教えが特徴です。 他力本願という言葉は浄土真宗から生まれ一般社会に浸透しているように、 日本で最も影響力を持っている(馴染みのある)仏教と言っても過言ではありません。 文化庁の最新の統計(宗教年鑑)」によると、浄土真宗は大きく真宗十派に分かれていますが、約1,600万人もの信者が全国にいると公称しています。 浄土真宗大谷派とは 浄土真宗大谷派とは浄土真宗で2番目に大きな宗派です。 浄土真宗大谷派はお東、お東さんと呼ばれているようにざっくり分けて考えると、西は浄土真宗最大の本願寺派、東は大谷派に分かれていると考えて良いでしょう。 実際に、西の本願寺派は中国地方を中心に信者や末寺が多く、 浄土真宗大谷派は北陸・東海地方を中心に教団勢力を拡大しています。 浄土真宗大谷派の信者数は約778万人に比べ、本願寺派(約791万人)とそう変わりません。 その他の違いは総本山をそれぞれ東西の本願寺に構えているという違いで、浄土真宗大谷派の本山は東本願寺(真宗本廟)にあります。 なぜ浄土真宗を二分されたのか、それは本願寺が西と東に分立された事がきっかけです。 戦国時代には大名に匹敵する勢力を誇った本願寺を分裂させようという企み(豊臣秀吉による西本願寺と徳川家康による東本願寺)、後継者争いによる内部分裂(本願寺派を後に名乗る准如派と大谷派を後に名乗る教如派)などいくつか有力な説が残っています。 ちなみに、浄土真宗大谷派の公式見解は後者の立場を取っています。 浄土真宗大谷派のお経 浄土真宗大谷派のお経は浄土三部経が有名です。 無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経からなる浄土三部経の中でも親鸞聖人は自著(教行信証)の中で無量寿経を大無量寿経や大経と呼び、浄土真宗大谷派ではお経の中で無量寿経が最も大切だと説いています。 無量寿経は浄土真宗大谷派だけでなく世界中の大乗仏教が使っている経典の1つで、浄土真宗のシンプルな教えの根本が書かれています。 簡単に言えば「 一度でも心を込めてお経を唱えれば、最も下ではあるが仏となれるため極楽浄土に行ける」そのような教えが綴られたお経です。 浄土真宗大谷派の法事 浄土真宗大谷派の法事は大きく9つあります。 元旦会• 報恩講• 涅槃会• 花まつり• 彼岸会• 宗祖降誕会• 盂蘭盆会• 永代経法要• 除夜会 法事の中でも 浄土真宗大谷派で最も大切にされている法事は報恩講(ほうおんこう)です。 毎年11月末頃に行われ、親鸞聖人の祥月命日までの一週間に勤められる法事です。 報恩講とは、親鸞聖人の教えに遇い、自らの依りどころを教えていただいた御恩に報謝し、教えを聞信して、ともに念仏申す身となっていくことを誓うための法事となります。 毎年全国から約37,00人の信者や僧たちが集います。 年忌法要も一回忌や三回忌は行う場合がありますが、昨今ではそれ以降の法事は行わない家庭も増えているようです。 また、浄土真宗の法事では蝋燭を白でなく赤のものを使う事が多いため仏壇など準備する場合には地域や寺によって違うため確認を取るようにしましょう。 お供えも仏飯だけは忘れないようにするのも浄土真宗大谷派の習わしです。 浄土真宗大谷派の葬儀 浄土真宗大谷派の葬儀には特徴があります。 浄土真宗大谷派の葬儀に参列する前に確認しておきたいのは、死生観です。 浄土真宗は大谷派に限らず、誰もが仏となり極楽浄土へ行けると信じているため供養という考え方はしません。 浄土真宗大谷派の葬儀とは、故人の変わりに 僧侶が最後の念仏を唱え、遺族は阿弥陀如来との繋がり(信仰)を確認するための法事という意味があります。 故人に対する想いは人それぞれですが、宗教的な意味合いが葬儀にあるという特徴は知っておいて損はありません。 浄土真宗大谷派の納骨 浄土真宗大谷派の納骨は有名です。 喉仏の骨を分骨して、本山(東本願寺)にある大谷祖廟(親鸞聖人の墓)に納骨する事ができます。 納骨費用は予算に合わせて、5パターン(2万円〜15万円)あります。 納骨費用で何が違うのか簡単に解説すると、親族だけで読経するか他に納骨する親族一座で読経するか、永代読経の年間回数(0〜12回)を選ぶ事ができます。 浄土真宗大谷派の初盆 浄土真宗大谷派では初盆でも特別な事はしません。 仏教の他宗派と違って位牌や写真も飾りませんし、水や酒などもお供えしません。 多くの宗派では、故人の霊があの世からこの世へ戻って来るのがお盆と言う考え方ですが、浄土真宗大谷派ではあの世から霊を迎えたり、この世から見送ったりする習慣はありません。 浄土真宗大谷派の初盆には、故人の供養の場ではなく 故人をきっかけにして、親鸞聖人の信仰に触れる機会を作ったり、先祖たちに感謝するのが通例です。 盆提灯も精霊棚も使わず、迎え火や送り火も行いません。 初盆には僧侶にお願いして読経を依頼するのが通例です。 初盆は一般的なお盆と違い、お布施の相場も初盆でなければ5000円前後ですが、初盆だと3万円前後が相場のようです。 浄土真宗大谷派は東京で話題? 浄土真宗大谷派は東京で様々なイベントを行っています。 勧誘を目的としない学びのが開催され、特に若い人たちの間で人気が集まっているようです。 東京都内各所で開かれる講座は、 安価でお坊さんの話が気軽に聞けてタメになると評判も高く、取り扱うテーマも仏教だけでなく現代社会で生きる人たちの共通したテーマを取り扱うも話題になっています。 浄土真宗大谷派の数珠 浄土真宗大谷派の数珠に決まりはありません。 そのため略式数珠を使う人も多いのですが、本式数珠を準備するのも手。 浄土真宗大谷派の数珠は数取りができないように、房が蓮如結びになっていて 煩脳具足そのままで救われるという意味を持った結び方が有名です。 本来ならば、長い一連の数珠を二重に、房は切房にして用います。 浄土真宗大谷派ならではの数珠の持ち方があり、二重にした数珠の親指と人差し指の間ではさみ、房は左手側に垂らします。 浄土真宗大谷派の仏具10点.

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故人を極楽浄土へ送る。真宗大谷派の葬儀の流れとマナー|葬儀・葬式なら【よりそうのお葬式】

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織田信長に10年間引けを取らない信の力 本願寺が東西に分裂した原因は、1570年から1580年までの10年間、織田信長と石山本願寺が間戦った石山戦争までさかのぼります。 本願寺は、8代目の上人の後、11代目の顕如上人のときには、最高の寺格をもつ門跡となりました。 イエズス会のフロイスが、 「財産、権力、身分において、つねに他の僧侶たちに比べ最高位にあった」 と言うほどの勢力を有していました。 ところが1568年、織田信長は、諸国の関所を廃止し、矢銭という軍事課税を課しました。 本願寺にも五千貫の矢銭を課してきます。 このときは顕如上人は、争いを避けるために要求に応じます。 ところが、1570年、本願寺と連携した三好三人衆を壊滅寸前まで追い込み、軍を進めます。 こうして本願寺対織田信長の石山戦争が始まったのです。 桶狭間の奇襲によって、戦えば勝ち、攻めれば落ち、朝に一城、夕に一国と領土を拡げ、群雄草の如くなびかせ、五畿内の猛将を馬前の塵に蹴った織田信長も、 「 進めば極楽、退けば」 と書いたムシロ旗をかかげて一死報恩の覚悟で戦った「 南無六字の城」の為に、実に前後十数年の持久戦を続けざるを得ませんでした。 このことを江戸時代の歴史家、頼山陽はこう驚いています。 「 豈はからんや、右府千軍の力、抜き難し、南無六字の城」 信長が天下統一のチャンスを失ったのは、実にこの無用な戦の為だったといわれます。 和戦派と抗戦派の分裂 1580年、織田信長は正親町天皇を仲裁にたてて和議を求めて来たのですが、この時開城するか抗戦するかで本願寺内の議論は真っ二つに分かれたのです。 それが、東西本願寺分裂の遠因となりました。 顕如上人と末子の准如とは和解の勧めに従おうとしたのに対し、長男の教如は籠城して徹底的抗戦を主張してゆずらず、きびしく両派は対立することになりました。 一朝の思いつきで叡岳三千坊を焼き払い、高僧から美女小童に至るまで数千人を火中に投げ込んだ織田信長。 またすでに和解したにもかかわらず、残虐非道な大量殺りくが行われた長島一揆などを知っていた教如は、信長のやり方がどんなものであるか骨身に沁みていたに違いありません。 そこで顕如上人は己に順わない教如を義絶し、弟の准如をたてて御真影と共に和歌山の鷺の森別院へ移ったのです。 ところが果して、姦雄信長の軍勢は、その後間もなく雑賀騒動を機として、浄土真宗殲滅を期して追撃して参りました。 その時の総軍師が明智光秀だったのです。 明智光秀の三日天下 1582年6月、暁の風を切って粛々と進む光秀の大群が大江山にさしかかるや、右すれば備中に走る道を 「 敵は鷺の森の本願寺に非ず、本能寺にあり」 と馬首一転、鬢髪をふり乱した美少年の森蘭丸に護られた織田信長が49才の生涯を火中に葬るという一大悲劇があったため、危く本願寺は救われたのです。 だから三日天下の明智光秀は浄土真宗にとっては大恩人ということになります。 後日このような事変を知った顕如上人は教如の義絶は解きましたが、親子の溝は深まるばかりで、やがて教如をおいて弟の准如へ本願寺12代目の宗主の職をゆずることを認めました。 豊臣秀吉によって西本願寺ができる その後、戦乱はおさまって、利口な秀吉は、さわらぬ本願寺にたたりなしの態度で、本願寺とは常に協調を心がけていました。 1587年、九州の嶋津攻略に准如を同行させ、薩摩門徒に道案内させています。 1591年、顕如上人は、現在の京都の西本願寺がある土地を秀吉から寄進されます。 1592年に顕如上人が亡くなると、教如が本願寺を継いで、石山戦争での抗戦派を重く用いました。 ところが、顕如の妻の如春尼が、准如に法主を継がせるように秀吉に訴えます。 やがて秀吉の裁定が下り、教如は隠居して准如が本願寺の十二代目となったのです。 これが今日の本願寺派であり、西本願寺です。 徳川家康によって東本願寺ができる 1600年、関ヶ原の戦いで徳川家康が豊臣家を打ち破ると、教如は家康に接近します。 徳川家康は天海僧正の謀略によって、この不遇をかこっていた教如に目をつけ、本願寺勢力の分割を謀って、1602年に寺地を寄進します。 1603年に、教如は東本願寺を別立し、第十二代目となります。 これが現在の大谷派であり、東本願寺です。 その後、幕府は浄土真宗を支配体制に組み込むために、本寺、末寺の関係を報告させます。 そのため1650年頃まで、各地の末寺は西本願寺に着くか、東本願寺につくかという問題が起きました。 東西本願寺でも、勢力争いが起きますが、だんだん固まっていきます。 教如が家康に近づいたため、江戸時代はどちらかというと東本願寺が主流となりました。 明治時代に入ると天皇家と仲良くした西本願寺が勢力を伸ばし、東本願寺は分裂して勢力を弱めます。 東西本願寺の冷戦の現状 こうして浄土真宗の勢力は真っ二つに分断され、東西両本願寺は冷戦を続けるようになりました。 西が御影堂を南に置けば、東は北に建てる。 片方が『 』と言えば一方は『 お文さま』 一方が『 』といえば片方は『 改悔文』 西が報恩講を正月に勤めると、東は十一月に変える。 その他、僧侶の位階、学階、仏前の、『 』の読みぐせまで一々変えて、互いにいがみ合うようになったのです。 まことに愚にもつかない意地を張っているとすれば、情けないかぎりです。 現在の浄土真宗は、葬式仏教となり、東西本願寺はじめ真宗十派は日に日に衰退しています。 そんないがみ合っている場合ではありません。 聖人のみ教えのもとに団結して、一人でも多くの方と浄土真宗の教えを学ばせていただきましょう。

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