本田 美奈子 記念 館。 『埼玉朝霞台・「アメイジング・グレイス」の“本田美奈子.ミュージアム”を訪れて』新座・朝霞・和光・志木(埼玉県)の旅行記・ブログ by sakatomoさん【フォートラベル】

本田美奈子の自宅(実家)はどこ?母親の美枝子さんはどんな人?

本田 美奈子 記念 館

(終了した番組・中継を含みます)は、での販売や公式な、またはが紹介するまで、 出典として用いないで下さい。 に基づき除去される場合があります。 本田 美奈子. 出生名 工藤 美奈子 生誕 1967-07-31 出身地 東京都 死没 2005-11-06 (38歳没) 東京都 学歴 卒業 ジャンル アイドル歌謡曲、、、、 職業 、 活動期間 - レーベル 事務所 (1983年 - 1992年) トリプルA(旧社名:スリーA、1992年 - 1996年) BMI(1996年 - 2005年) 共同作業者 、、 公式サイト 、 本田 美奈子. (ほんだ みなこ、(42年) - (17年))は、の、、。 80年代アイドル。 本名、 工藤 美奈子(くどう みなこ)。 身長:162 cm、体重:43 kg、B:74 cm、W:56 cm、H:76 cm。 、シングル「」で歌手としてデビュー。 はアイドル歌手として、以降は主にで活動した。 に入ってからはとのに挑戦する。 なお、姓名判断により名前の後に「. 」をつけ改名したのは11月からである。 生涯 アイドル歌手としてデビュー (昭和42年)午前11時17分、上赤塚町(現:)の成増産院にて、体重2860gで生まれ、ラジオの全国放送のその日生まれた新生児を紹介するコーナーで取り上げられる。 家族は柴又に在住していたが、幼いうちにに移住し、朝霞白百合幼稚園に入園した。 以来、生涯の大半を朝霞市で過ごした。 歌手になる事を夢見ていた母親の影響で、美奈子も幼い頃からいつも歌を歌っていた。 朝霞市立朝霞第六小学校の卒業文集にも「女優か歌手になれたらイイ」と書いていた。 朝霞市立朝霞第一中学校3年生の時に『』のオーディションを受けた。 14歳で出場したテレビ予選ではの「」を歌い、見事合格して決戦大会へ進出した。 この時の出場者の5人の中にはとがおり、3人とも決戦大会へ進んでいる。 15歳を迎えて出場した決戦大会ではの「」を歌った。 しかし、プロダクションは1社も獲得意思を示さず落選となった。 (昭和58年)、東京都のに入学。 同年7月に初めて原宿を訪れた際に、のメンバーを探していたのスタッフにスカウトされ、芸能界に入った。 前述の『スター誕生! 』の決戦大会にはボンド企画のスタッフも参加していたが、その時は指名をしていなかった。 社長のとはボンド企画倒産後も二人三脚で歩み続けることとなった。 のヒット曲『』をデモ音源で聞き、才能がある歌いっぷりから、この子はソロで売り出そうと決めたそうである。 高校2年生の(昭和59年)に第8回に本名で出場し、「夢少女」(作詞:深田尚美、作曲:安格斯)という楽曲を歌ってグランプリを受賞。 このことがレコードデビューのきっかけとなった。 (昭和60年)にから「」でとしてデビューした。 同期デビューに、・・・・・・・・・、・・など、のちにトップアイドルになる華々しい顔ぶれと並んでのデビューだった。 」の2パターン。 その後、4枚目のシングル「」をヒットさせたほか、12月7日には新人歌手としては・に続いてコンサートを成功させた。 また、同年の数多くの新人賞を受賞した。 (昭和61年)に「」をリリース。 へそを露出させた衣装や激しく腰を振る振り付けなど当時のアイドル歌手としては異例の演出と相俟って大ヒットとなった。 同年9月11日が企画した女性ロッカーのみによるジョイントライブ『』に出演。 翌(元年)秋に解散した。 ミュージカルでの活躍 (平成2年)、『』のオーディションを受け、約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれた。 (平成4年)『ミス・サイゴン』日本初演。 以来一年半のロングランをこなし、その歌唱力、演技力を高く評価された。 1992年度第30回演劇新人賞を受賞。 (平成6年)、『』にホーデル役で出演。 にアルバム『』を、翌(平成7年)にはアルバム『』をリリースし、レコーディング・アーティストとしても復活を果たした。 (平成8年)、『』にタプチム役で出演。 (平成9年)、『』にエポニーヌ役で出演。 以後も繰り返しこの役で出演した。 (平成10年)にはチャリティーコンサートで「ある晴れた日に」(のオペラ『』より)を歌い、(平成12年)サリン事件チャリティーコンサートではの「」を歌った。 同年を記念して開かれたのでの日豪親善コンサートにの推薦により出演した際には「」や「ある晴れた日に」を歌うなど、この頃から次第にクラシックへの志向を強めていた。 同じく2000年(平成12年)にはデビュー15周年記念コンサート『歌革命』を開催、自身のシングル・メドレーのほか「」や「ある晴れた日に」などを歌った。 (平成14年)、『ひめゆり』にキミ役で出演。 日本で制作されたミュージカルへの初の出演となった。 クラシカル・クロスオーバーへの進出 (平成15年)、初のクラシックアルバム『』をリリース。 的な唱法でクラシックの曲に日本語詞をつけて歌うというユニークなスタイルで新境地を切り開いた。 同年東宝によりの戯曲にもとづくミュージカル『十二夜』が制作され、本田はネコ役を初演した。 原作にないこの役はセリフに苦手意識のある本田のために特に作られたものだった。 (平成16年)、制作のミュージカル『クラウディア』でヒロインのクラウディア役を初演。 同年『N響ほっとコンサート』でと共演し「新世界」と「シシリエンヌ」を歌った。 アルバム『』をリリース。 武道館での『』に出演、38度を超える発熱をおして「ジュピター」と「1986年のマリリン」を歌った。 この頃からすでに病気の兆候が表れていた。 死去 2004年(平成16年)末頃からに似た症状や微熱が続いた。 そんな中11月には地元・朝霞市でのコンサートや、12月23日には新宿文化センター大ホールでのクリスマスコンサート、暮れには結果的に生前最後のTV出演歌唱となった翌2005年1月30日テレビ朝日系放送の「題名のない音楽会21」の収録に臨んだ。 翌(平成17年)、と診断を受けて緊急入院し、翌日にはその事実が公表された。 その後、2度に渡るを受けるも、寛解は得られなかった。 の中でも極めてまれなの治療抵抗性のであったという。 治療としてが考慮されたものの、でが見つかるまでの猶予すらない病状であったことから、同年、を受けた。 同末には一時退院したが病気の再発が認められ、同年9月8日に再入院し、輸入新薬による治療を受けた。 翌月には再度一時退院、その間には白血病患者支援のための『Live for Life』が設立されたが、同月末には再入院となった。 その後への合併症から容態が急変し、同年午前4時38分、ので家族に看取られながら息を引き取った。 38歳没。 は、長らく『釋 優聲(しゃく ゆうしょう)』であったが、納骨されている寺の住職の厚意によって2011年より位が上がり、現在は『澄光院(ちょうこういん) 釋 優聲』となっている。 音楽 多彩なジャンルでの活躍 演歌への志向 当初は志望 で、事務所のオーディションのために準備してきた楽曲は演歌ばかりだった。 所属するは演歌歌手を育てた経験がなかったため、アイドルとしてデビューすることになったものの、アイドルとしては珍しい曲調である「殺意のバカンス」がデビュー曲になったのは、こうした本人の意向を考慮し、個性を活かす方針が取られたからだという。 またロックバンドを解散し再びソロに戻った頃には、新たな方向性として演歌歌手への転向が真剣に模索されていたと言われている。 実際この時期に出演したテレビ番組では着物を着て演歌を歌った ほか、演歌歌手として活動する方針であることがマスコミでも報じられており 、この計画はある程度具体化していたらしい。 この後にもアルバム『』にオリジナル演歌とも見做し得る楽曲(「風流風鈴初恋譚」)を収録したほか、コンサートでは度々演歌をカバーしていた。 アイドル歌手として (昭和60年)のデビュー以降、による作曲作品が多く組まれた。 同年に発売された4枚目のシングル「」がヒットし、この年の賞レースの各種新人賞を数多くもたらした。 本田は元々アイドルと呼ばれることに抵抗があったようで、アーティストと呼ばれたいと発言したこともあった。 また、「Temptation(誘惑)」が各種ランキングの10位以内に届かなかったのが悔しくてさらに強く個性を出そうとした結果、より過激な演出になったのだという。 後年の本人談では、10代の当時は大人っぽく見えるよう背伸びをしていた面もあると語っている。 同年発売の「」は公共広告機構(現:)のいじめ防止キャンペーン「しらんぷりもいじめ」のテレビコマーシャルで使用された。 (昭和62年)放送のドラマ『』には本人役で出演し、主題歌に採用された「」(同年発売)はドラマ自体の好評にも支えられ人気を博した。 同じ年の映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』も歌手の役ということで引き受け、劇中事故で亡くなったレーサーの兄に捧げて「」(発売)を歌った。 この3曲で本田にとってランキング最高位である2位を獲得した。 洋楽からの影響 元々は洋楽にはあまり詳しくなかったのだろうと見られている。 しかしデビュー後は事務所社長の高杉に薦められてやなど外国のスターの映像をくり返し見て演出の参考にしていた。 デビュー翌年の「1986年のマリリン」における衣装や振り付けはその影響でもある。 この(昭和61年)にはから楽曲提供を受け、彼のギター・ワークをフィーチャーした「」をガイ・フレッチャー(の元メンバー)のプロデュースにより制作した。 ムーアとフレッチャーはこの年にロンドンで録音されたアルバム『』にも参加している。 この時にでののコンサートに招かれ、メンバーとの交流を深めた。 この年には再びロンドンを訪れて、クイーンのギタリストのプロデュースによりシングル「」を制作した。 本田は武道館でのコンサートでの「」をカバーしており、またレーベルが同じEMIだったこともあり、クイーンの担当だった宇都宮カズを介してこのコンサートのライブ盤とデビューアルバムをロンドンEMIを通じてメイに送ったところ、彼の方から申し出がありコラボレーションが実現した。 シングル「」は翌(昭和62年)に発売され、英語版もをはじめヨーロッパ20箇国でリリースされた。 の来日公演のプロモートをが手がけた縁で1987年(昭和62年)に彼女とのジョイントコンサートを行い、とも親しくなった。 のの自宅にも招待され、彼らのスタッフのプロデュースにより全曲英語詞のアルバム『』を制作した。 このアルバムはでも発売された。 またこの年のにはを訪れのライブにゲスト参加し、「」と「EYE言葉はLONELY」(アルバム『』収録)を歌った。 このようにデビューから数年後には海外ミュージシャンとのコラボレートは本田の歌手活動の際立った特徴ともなっていた。 彼女がこうした試みを行った背景には自身の脱アイドルへの志向のほかに、海外のロックスターと共演した経験や、当時の国内でのバンドブームの影響があったものと考えられる。 ツインドラムという特異な編成や、バンドとしてのデビュー曲「あなたと、熱帯」の作曲をが手がけたことなどは話題となった。 の提唱で開催されなどとともに出演したはこの時代の女性ロッカーたちの活躍の記念碑でもある。 初めて自ら作詞を手がけたのもこの時期だったことは特筆される。 ミュージカル女優として ロックバンドとしての活動は少なくとも商業的には成功したとは言えず、(平成元年)秋に解散してソロに戻った後も人気は回復しなかった。 本田にとってこの頃は最も苦しい時期で、自身「歩いてきた道が突然、ガケっぷちになって行き止まりになっていた」と回顧している。 それでも歌へのこだわりの強い本田はバラエティ番組への出演を断り続け、ドラマや映画の仕事も最小限に絞っていた。 のプロデューサー、酒井喜一郎から『』のオーディションの話を聞かされた 時も初めは関心を示さなかったが、全編歌で構成されたミュージカルであることを知ると目の色を変えて意欲を示すようになった。 (平成2年)秋に始まったオーディション(応募者は女性1万1503人、男性3584人、合格したのは女性20人、男性38人)の選考は6ヵ月間7次に渡り 、翌(平成3年)にキム役に決定すると3月以降の全ての予定をキャンセルして公演に備えた。 開幕にあたっては「私は舞台では、演じないからね。 生きるからね。 強く生きてみせるからね」と抱負を語っていた。 アイドル出身の彼女の力量を危ぶむ声もあったが、本田は後述の事故も乗り越えて一年半に及ぶロングランを務め、ヒロイン、キムの内面に肉迫した歌唱と演技を高く評価された。 以後も『』、『』、『』と人気ミュージカルに相次いで出演し、実力派女優としての地位を揺るぎないものにした。 におけるの悲劇を描いたミュージカル座制作の『ひめゆり』ではヒロインのキミを演じた。 東宝以外の制作によるミュージカルは初の出演だったが、作曲、編曲、音楽監督を担当したのは『ミス・サイゴン』で本田のボイス・トレーナーを務めて以来縁のある山口琇也だった。 プログラムに掲載されたメッセージ では「会場に足を運んでくださった方々に、戦争の恐ろしさ、平和でいられる事のありがたさを、少しでも感じて頂けたら嬉しく思います」と述べていた。 の『』を原作とするミュージカル『十二夜』ではプロデューサーの酒井がセリフに苦手意識のある彼女のために原作にないネコの役を用意した。 本田は自分に割り当てられた役が人ではなかったことにとまどいつつも、言葉を喋らない代わりに人間の会話は理解できるという設定を自分の中で用意して真剣に役作りをした。 この作品が制作されたのはすでに本田がクラシックの楽曲を歌い始めていた時期で、彼女のパートはソプラノ的な唱法を想定して作られている。 没後の再演では彼女が歌ったナンバーはアンサンブルによる歌唱や器楽演奏に置き換えられていた。 の楽曲をベースにによる書き下ろしを加えて作られた『クラウディア』はとの主催する演劇ユニット、による初めてのミュージカルで、彼女がそれまで出演してきた作品とはスタッフの顔ぶれも制作手法も異なるものだった。 しかし本田は稽古の際のマット運動でむち打ちになるなどのトラブルに遭遇しながらも、仲間意識を最も大切にする岸谷の方針を共有しつつ役柄を作り上げていった。 「可憐であり、けなげであり、強さも持っている」と岸谷が評した ヒロイン、クラウディアの演技が彼女にとって最後のミュージカル出演となった。 ミュージカル期のスタジオ録音 本田は主な活躍の場をミュージカルの舞台に移してからも、数は多くないもののスタジオ録音のCDをいくつか制作し発表している。 その中でも特にマーキュリーレコード在籍時に制作された2枚のアルバムが重要である。 ロックバンド時代の前作『豹的 TARGET 』以来5年ぶりとなるアルバム『』(発売)は、映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』で音楽監督を務めた渋谷森久(の担当ディレクターとしても知られる)と『ミス・サイゴン』の訳詞を担当したをプロデューサーに迎え制作が進められた。 タイトルの通り様々な音楽ジャンルの合流点となることを意図して制作されたこのアルバムはを翻案した楽曲で幕を開け、前述の演歌をはじめ、、チャールストンに分類され得る楽曲などが収録されている。 先行シングルとして発売された「」(同年発売)は彼女の代表曲ともいうべき存在として親しまれている。 翌(平成7年)に制作された『』(発売)ではプロデューサーにを迎え、、、といったミュージシャンから楽曲提供を受けた。 楠瀬とは「Fall in love with you -恋に落ちて-」でデュエットしている。 この曲がシングルカットされた(発売)際のカップリング曲「あなたとI love you」(当時はアルバムに収録されず、後に『』で初めてアルバム収録となった)では作詞とともに彼女にとって初となる作曲を手がけた。 牧田とは堅い信頼関係を築き、互いに兄妹のような存在としてその後も交流が続いた。 声楽への進出 本田は(平成8年)にオペラの『蝶々夫人』を歌った。 彼女が初めて声楽曲を歌ったのがいつだったのかははっきりしないが、ここで言及されたコンサートがそうである可能性も考えられる。 前述の通り(平成12年)前後にはクラシックへの志向を強めていた本田だが、本格的にクラシックの楽曲を歌うようになったきっかけは(平成14年)にコンサートホールで開催された『グラツィエ・コンサート』だった。 声楽曲を現代人に受け容れやすいスタイルで歌える歌手を探していたのプロデューサー、はこのコンサートに足を運び、終演後に楽屋を訪れてアルバムを制作することを申し入れた。 元よりそうしたアルバムの制作を望んでいた本田は即座に快諾し、企画が進行することとなった。 コロムビア内には本田がアイドルの出身であることで抵抗もあったが、岡野の懸命の説得で実現の運びとなった。 『ミス・サイゴン』以来の本田の恩師であるが日本語詞を書き下ろし毎回歌入れに立ち会って、場合によっては言葉が旋律に乗りやすいようにその場で変えるなど全面的にサポートした、編曲はが担当した。 井上を起用した理由について岡野は、のめり込み過ぎない一歩引いたクールさがあり、ホットでのめり込みやすい本田とのバランスが絶妙だろうと考えたと述べている。 一方本田が岡野に大事にしたいと申し出たのは「手作りでやりたい。 自分で料理を作るように、丁寧に打ちあわせをして作っていきたい」ということだった。 収録曲は100曲以上の候補の中から実際に歌いながら彼女自身の心に響く曲が選ばれた。 本田は歌入れ以外の録音にも全て立ち会い、必ず一緒に歌って演奏者が歌の呼吸を掴んで弾きやすいようにしていた。 そのまま歌を録り直さずOKになった曲もあった。 クロスオーバー歌手としてのデビュー作『』はこうして完成し、(平成15年)にリリースされた。 翌(平成16年)には2枚目のアルバム『』が発表され、没後に公表されたものも含めるとアルバム2枚強の音源が制作された。 そこに共通する考え方は、クラシックの名旋律を歴史的背景にとらわれず現代の感覚で歌うこと、しかし決して奇を衒うのではなく素直に楽曲の素晴らしさを大切にするということで、特にこだわったのは日本語で歌うことだった。 こうしたクラシカル・クロスオーバーでの活動により、本田は従来のファン層とは異なる新たな聴衆からの支持を獲得した。 ジャズへの見果てぬ夢 本田は(平成13年)にで放送されたテレビドラマ『』にアメリカ帰りのジャズ・シンガーという設定の役で出演した。 劇中のライブ・シーンで本田はジャズ・ピアニストの西直樹の率いるバンドと共演し、「 You Make Me Feel Like A Natural Woman」(とジェリー・ゴフィンの共作での歌唱によって知られる)と「I Feel the Earth Move」(キャロル・キングの作でキャロル自ら歌った)の二曲をジャズ風のアレンジで歌った。 おそらくこの時の縁がきっかけで西のアルバム『JAZZ BREEZE-スイート・メモリーズ』の収録曲「」(の曲)にで参加した。 また、40代になったらを歌いたいと語っていたという。 影響関係 『』への出演をきっかけに訳詞を担当していたと懇意になった。 岩谷は本田の歌手としての力量を高く評価し、かつてマネージャーを務めていた越路吹雪と重ね合わせて見ていたようである。 この後本田は前述の「風流風鈴初恋譚」のほか、「つばさ」など、岩谷からの詞の提供を数多く受けるようになる。 後にクラシックアルバムを制作するにあたっても日本語詞の多くを岩谷が提供している。 また岩谷からくり返し思い出話を聞かされていたことからへの強いあこがれを抱くようになった。 越路のような表現力を持つ歌手になりたいと語っていた。 アルバム『』では越路の代表曲である「愛の讃歌」と「アマリア」をカバーしている。 もう一人本田の歌手活動に大きな影響を及ぼした人物としての名が挙げられる。 インタビューなどでは度々サラへのあこがれを口にしていた。 ミュージカルで大成した後クラシックの楽曲に取り組み、というジャンルの隆盛をもたらしたサラの存在は、クラシックへの志向を強めていた本田の進路決定に際し道しるべのような役割りを果たしたものとされる。 歌唱技術 あどけない顔立ちと華奢な体からは想像できないような実力の持ち主であった。 デビュー当初から歌のうまいアイドルとして評価されており、や同様、アイドル界1の歌唱力があったと言われる。 本田は新たな活躍の場に挑むごとに音域や唱法のバラエティーを広げてきた。 声楽曲を歌うことになった経緯については自身「ミュージカルでいろんな役をこなしているうちにそれまで出せなかったような声を出せるようになった」と説明していた。 『』でキム役をダブルキャストで務めたは当時本田が「裏声は得意じゃない」と話していたと証言している。 しかし『屋根の上のヴァイオリン弾き』のホーデル役はクラシックの声楽のような発声による裏声を求められる難しい役で、『王様と私』のタプチム役ではさらに高い音域を歌うことを要求されたが、トレーニングを積んで見事にこれをこなした。 同時期に制作されたアルバム『晴れ ときどき くもり』にはを多用した楽曲も目立ち、「Lullaby〜優しく抱かせて」の間奏ではオペラ的発声による高音域のを披露している。 本田は音楽学校などで声楽を学んだ経験はないが、ミュージカルに出演するようになってからは山口琇也や岡崎亮子のレッスンを受けた。 特にへの出演経験もある岡崎の指導はクラシカル・クロスオーバーへの進出に大きな影響のあったものと思われる。 岡崎は最初に会った時本田のあまりに華奢な体つきに不安になったが、背中をさわってみるとしっかりとした筋肉がついていたので大丈夫だと確信したという。 1994年発表の「」には後半に10小節にわたって声を伸ばすロングトーンがあるが、この伸びやかな声を支えていたのはその強靭な背筋だった。 音域は最終的には3オクターブに達していた。 これは例えばパートも含めて一人で歌った「」(アルバム『』所収)に遺憾なく発揮されている。 しかも本田はその広い音域を均質な響きで発することができた。 演奏家には何度演奏しても同じように演奏するタイプと、その場の感興に応じて表情を変化させていくタイプがあるが、本田は典型的な後者のタイプだった。 一連のクラシックアルバムで編曲を務めたは「彼女の場合はまわりが変わると、その変化を反映していくような感性を持っている」と評し、プロデューサーのは「毎回歌うたびに、表情もすごく変わる」、「その歌の世界を生き、自分に起きてくる感情をすごく大切にして歌っていた」と語った。 本田自身はミュージカルのロングランでもテンションが落ちない理由について「何百回やっても毎回違うからちっとも飽きない」と語っていた。 作詞・作曲 「愛が聞こえる」(シングル「勝手にさせて」(発売)のカップリング)で初の作詞を手がけたのを皮切りに多くの詞を残している。 「あなたとI love you」(シングル「Fall in love with you -恋に落ちて-」(発売)のカップリング)では作詞とともに初の作曲を手がけた。 これを含めて生涯に3曲を作曲している。 人物 人柄 彼女は幼い頃から暮らした朝霞の街を愛し、デビュー後の数年間事務所社長の高杉の自宅に下宿していたほかは朝霞市の実家から仕事に通っていた。 帰りが遅くなっても母親の手料理を食べるのが習慣だった。 自宅でお気に入りの座椅子に座って窓からけやきの木を眺めるのを好み、近くの緑の多い風景の中を散策するのを楽しみとしていた。 気さくな人柄から近隣の住民にも慕われており、後述の通り地元商工会の発案で朝霞駅前に記念碑が建設されたのはその表れでもある。 のを務めたこともある。 デビュー初期はアイドル歌手として活動したが、本人はと呼ばれるのを嫌っていた。 デビュー曲も本人の強い希望でアイドル色の強い「好きと言いなさい」から大人びた歌謡曲の「」に変更された。 日頃から「アーティストでありたい」と口にするなど、しばしば事務所やレコード会社の描くイメージ戦略通りの姿を演じることを要求されるアイドル歌手の枠には収まり切らない言動が当初から目立っていた。 若い時から自己の信念を確立していた人であったことが窺われる [ ]。 その一方で「やっほー」があいさつ代わりの天衣無縫な振る舞いでも知られていた。 しかし出演した映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』の音楽監督、渋谷森久との出会いをきっかけに落ち着いて人と接するようになっていった。 以前の自分自身については「わがままだった」と述懐している。 また『』への出演も歌手としてのキャリアだけでなく、人格の上において大きな転機となった。 大勢の人が力を会わせて一つの作品を完成させるという過程を通じて人との共同作業に喜びを見出すようになっていったようである。 生前親交のあった関係者は「決して人の悪口を言わない人だった」と口を揃える。 人との絆を大切にする人であったことは毎年正月にわざわざそのための休みをとって2000枚の年賀状を自ら書いていたことにも表れている。 メッセージなどの末尾には必ず「心を込めて... 」の言葉を添えていた。 この言葉は没後に発売されたアルバム『』のタイトルに採用された。 ファンを大切にし、いつも「一緒に青春しようね」と呼びかけていた。 「青春」は彼女が大切にしていた言葉であり、公式ファンクラブの名称「Blue Spring Club」は「青春クラブ」を訳したものである。 生涯子供を持つことはなかったが、とても子供好きであったことが知られている。 『ミス・サイゴン』の楽屋では子役で出演する子供たちを我が子のように可愛がり、ファンクラブの会合にファンが子供を連れて行くと大喜びしていた。 姪や甥には「ママ」と呼ばせて愛情をそそいだという。 歌への情熱 『ミス・サイゴン』での事故 『』の公演開始()から2か月ほど経った(平成4年)、本番中に舞台装置の滑車に右足を轢かれるという事故が起きた。 そのまま一幕最後の「命をあげよう」までを歌い切ったが、楽屋へ運び込まれてから靴を脱がせてみると中が血の海の状態だった。 ら共演者にすぐに病院へ行くよう指示されたが本人は最後まで演じ切ると主張して譲らず、「(ダブルキャストの)と連絡がついて今こちらへ向かっている」と言い聞かされて初めて声を上げて泣き出した。 病院で診察を受けると足の指4本を骨折しており、19針を縫う重傷だった。 全治3か月と診断されたがリハビリに励み、誕生日のにケガから1か月足らずで復帰を果たしたが、完治はしておらず特製ギプスを装着しての復帰だった。 歌に捧げた人生 デビュー当初は「二十歳までに結婚したい」と語っていたこともあるが、実際には生涯独身を通した。 いつの頃からか結婚への願望をふっ切るようになったようである。 「私は歌と結婚したから今生では結婚できないの」と度々話していたという。 アルバム『』の収録を終えた後、ジャケット制作のためスタッフとの顔合せが行われた。 その席で本田は「私はこのアルバムに命を賭けていますので、絶対に失敗できないのでよろしくお願いします」とあいさつした。 舞台には歌の神様がいると話し 、いつも出番の前には舞台の天井を見上げて祈りを捧げていた。 (平成16年)のクリスマス・コンサートではめずらしく舞台裏の様子を撮影することを許可していた。 このため写真家の原田京子は誰もいない開演前の舞台で天井に両手を差し伸べて祈る本田の姿をとらえることに成功している。 本田の療養中に発売されたミニアルバム『』のライナーノートには手書きのメッセージを寄せ、次のように述べていた。 私は今まで、歌と一緒に歩んできました。 …私の歌が皆さんに、歌の素晴らしさを伝えることができるよう... 1人でも多くの方の心が豊かになれるよう... という願いを込めて これからも、歌い続けたいと思います。 —本田美奈子. ,ミニアルバム『』 復帰を目指して 白血病による入院中もストレッチや発声練習を行うなど、復帰への意欲を強く持ち続けていた。 臍帯血移植手術を前に公式サイトに寄せたメッセージでは「泣きたい時は我慢しないで泣いています」としつつ「元気な姿で皆さんのもとへ返ります」と述べていた。 その後に同じく公式サイトに寄せた肉声メッセージでは、心からの歌を歌える歌手に成長して復帰したいと語っていた。 ファンクラブ会員に向けた手記では特に「時-forever for ever-」を歌いたいという意欲を示していた。 本田の入院中に恩師のが路上で転倒し大腿骨を骨折する事故があり、岩谷は本田と同じ病院に運び込まれた。 無菌室から出ることができなかった本田は岩谷を励ますため、病室でで歌を歌い、ボイスレコーダーに録音して岩谷の病室に届けていた。 この録音は全部で三十数曲にも上った。 そのいきさつは(平成20年)のNHKの特集番組、及び同年出版の書籍で紹介され、一部の音源はCDとして発売された(後述)。 38歳の誕生日の前日に一時退院を許された際、世話になった医師や看護師のためにナースステーションで「アメイジング・グレイス」を歌った。 この歌唱に涙ぐんで聴き入る看護師の姿をとらえた写真は『天使になった歌姫・本田美奈子. 』や『本田美奈子. 最期のボイスレター』で紹介された。 再入院後のある日、見舞いに来た知人がたまたま誕生日だったので居合わせた一同で「」を歌った。 これが本田の歌った最後の歌となった。 手記・歌詞に綴られた言葉 本田は数多く詞を手がけているほか折りにふれ感じたことを手記に残しており 、それによりその思想の一端を窺い知ることができる。 自然・平和への愛 自然が人の手により破壊されつつある現状には深い関心を寄せていた。 「地球へ」と題する手記では子供の頃に朝霞に残る豊かな自然の中で遊んだ思い出を振り返りながら、人と自然との共生への祈りのような思いを書き綴っている。 実生活でも自宅近くに市民農園を借りて野菜を作り、そこで近隣の人たちとの交流を楽しんだり、とれた野菜を仕事仲間と一緒に食べたりと自然とふれ合う暮らしを実践していた。 自ら作詞した「タイスの瞑想曲」(アルバム『』所収)は平和への祈りの歌である。 (平成16年)にミュージカル『ひめゆり』に出演した際にプログラムに寄せたメッセージ ではこの歌に言及しつつ、過去に悲惨な戦争を経験しながら今なお戦いを続ける人々がいることを憂え、平和の尊さを訴えている。 そして身近にある小さな幸せを感じながらときを過ごすことの大切さを語りかけている。 小さな幸せ・時 この「小さな幸せ」は晩年の本田が好んで用いていた言葉であり、この言葉をタイトルにした手記も残している。 日々の生活の中で当り前のようにそこにある小さな幸せに気づくことが大切だとくり返し述べていた。 発病後一時退院を許されていた時に高杉と家の近くを散歩していて、蒸し暑さに不平を言う高杉に風を感じる幸せを教えさとしたというエピソードも伝えられている。 2004年5月14日放送の『 本田美奈子そのソプラノボイスの魅力に迫る! 』で紹介された恩師岩谷時子の手紙からは、この「小さな幸せ」は岩谷の教えであることが窺われる。 そしてこの言葉は「時」という主題への関心と結びついていたようである。 最後のオリジナル曲となった「時-forever for ever-」は本田が岩谷に名前の一字をとって「時」というタイトルの詞を書いて欲しい、と発注して生まれたものであり、この歌はアルバムのタイトルトラックになった。 このアルバムに収められたドヴォルザークの交響曲に自ら詞をつけた「」や、本田の書き残した言葉を元に作られた追悼曲の「」も時を主題とした歌と見做すことができる。 評価 生前の受賞・ランキングなど デビューした(昭和60年)には各種歌唱賞の新人賞を数多く獲得したが、賞レースの総本山ともいえる大晦日の()では新人賞は受賞したものの最優秀新人賞は受賞出来なかった。 で1位を獲得したこともなく、最高位は「」「」「」の2位、「」は3位が最高だった。 ただし累計売り上げ枚数ではこの曲が彼女にとって最大の24万枚超を記録している。 『』でも1位を獲得したことがなかった。 日本のポップス歌手にとってステイタス的な存在である『』への出場もなかった。 本田にとっては『』での演技を評価されて受賞した1992年度のの演劇新人賞が生前に受けた最も大きな表彰といえるかも知れない。 なおこのほかの生前の受賞として1987年第4回一般選出部門、2003年第2回日本ゆかた大賞というファッション関係の賞がある。 没後の表彰など 38歳での夭逝は本田の評価やCDの売上げにも大きな変動をもたらした。 死亡する半月ほど前に発売されたミニアルバム『』は売上が急上昇、オリコンの推定累計売上枚数は17万枚を突破し、日本人が歌うクラシックアルバムとしては初のオリコンTOP10入り(7位)を記録した。 『』は22位、『』も39位まで上昇している。 また同じ歌手のアルバムでポップスとクラシックの両方ともTOP10入りしたのも初のケースである。 本田の死を受けて日本レコード大賞()は特別功労賞を、は芸能功労賞を贈呈した。 ゴールデン・アロー賞芸能功労賞受賞時の年齢38は、芸能功労賞の前身にあたる特別賞を受賞の(1989年度)の40(戸籍上は39)を下回る、物故者最年少受賞となった。 なおゴールデン・アロー賞はこのほか前述の演劇新人賞を含め音楽新人賞(1985年度)、グラフ賞(1986年度)と計4度受賞している。 記念碑が建設された朝霞駅前。 時計塔の右下の部分にあるのが記念碑 幼少時代から死亡するまで住んでいた埼玉県朝霞市は、本田の功績を称えての南口駅前広場に記念碑を建設した。 これは駅前整備事業の一環として朝霞市のの発案で企画されたもの。 生誕40周年にあたる(平成19年)に本田の母、所属事務所社長の、親友のらの臨席のもと除幕式が行われた。 闘病中に書いた「笑顔」と題する詩と本田の写真のパネルがはめこまれ、「ありがとう。 心を込めて... 本田美奈子」という言葉が刻まれており、ボタンを押すと「」の歌声が流れる仕組みになっている。 関係者・評論家等の声 アイドル時代に本田の楽曲の歌詞を数多く手がけたは、プロとアマチュアの境界が曖昧になっていた当時のアイドル・シーンの状況を踏まえ、本田のプロ意識の高さを評価していた。 テレビのインタビューに答え、「本田美奈子さんというのは徹底したプロで、全てに関して真剣になるし、それだけプロ根性がすわっている女の子じゃないかな、と思います」と語っていた。 『』でエンジニア役として共演したは、本田の没後に寄せた言葉の中で彼女のミュージカルでの活動を「なくてはならない存在」と称えた。 彼女のこうした活躍の要因として、本田の恩師の一人である作曲家のは彼女の歌声にはミュージカルに必要な悲壮感があったことを指摘し、それは亡くなった後だからそう思うのではなく、彼女が生来持っていたものだと述べた。 『ミス・サイゴン』でボイストレーナーを務めた山口琇也は彼女の第一印象を「ひたむきで献身的、愛情にあふれたキムそのもの」と語った。 『ミス・サイゴン』や『』の作曲者、は『ミス・サイゴン』の2008年日本公演に際し、「日本で役を育ててくれた本田美奈子を思い出してもらいたい。 彼女は素晴らしい女性であり、キム役の仕事ぶりに感銘を受けた」と述べた。 『クラウディア』での共演を通して親しくなったは、(平成16年)の『』における本田の「ジュピター」と「」の歌唱を舞台の下手で聴き、「素晴らしいというのも通り越して、なんか魂が飛んでくるような感じ」を受けたと話した。 音楽評論家の伊熊よし子はクラシカル・クロスオーバーの領域で本田が新たに開拓した音楽の世界を「時代の風を感じさせる」、「背中を押してくれる追い風のような存在」と評した。 編曲を務めたは彼女の音楽のあり方を、「一夜限りで消えてしまうような祭礼ではなく一輪の花の美しさが突然人の心をとらえて何時までも面影を残すような、そんな奇跡が当たり前のように毎日起きていた」と形容した。 交友関係 デビューまで 在学中にスカウトされ、芸能界デビューのために転校した。 堀越の同級生には、、、、らがいた。 南野とは編入試験で席が隣同士になったのを機に親しくなった。 デビュー当初からドラマに重点を置いて活動してきた南野とは一緒に仕事をする機会は多くなかったが、互いの仕事の内容から私生活のことまで何でも話せる、本田にとって無二の親友だった。 当初は社長のの自宅に下宿し、高杉の家族の一員のように過ごした。 当時ボンド企画には多くの著名なタレントが所属しており、先輩の、やなどと親しく交流するようになった。 は本田より先にデビューしてすでに名前を浸透させていた と名前が被らないようにとの配慮と、世界的に活躍してほしいという意味を込め、世界にその名を知られる自動車メーカーである にちなんで付けたと言われている。 歌手活動が結んだ縁 とはの広報担当者が同じだった縁で親しくなった。 系列で放送された旅番組『鎌倉の旅』の撮影で二人で鎌倉めぐりをしたほか、『』に二人で出演しゲームに興じたこともある。 本田の一周忌に朝霞市で開催された追悼イベントでは坂本が本田の遺した「ありがとう」と題する詩を朗読した。 数々のミュージカルへの出演は共演者たちとの友情を育んだ。 『』でクリス役を演じたとは兄妹のように親しくなった。 『』への出演はそれまで接点のなかった先輩歌手たちとの公私にわたる交遊をもたらした。 は舞台への不安から睡眠薬なしには眠れなくなってしまった自分を本田が絶えず気にかけてくれたことへの感謝の思いを繰り返し口にしている。 食べることの好きなは本田と食事した思い出を楽しそうに語る。 森の証言では本田は細身の体に似合わず森と同じ量を食べたという。 アイドル歌手としての先輩であるはミュージカルの世界では本田の方が先輩にあたり、うまく歌えなくて落ち込んでいるときに励ましてくれたと話す。 楽屋でホットケーキを作ってくれた際には、できあがったケーキのあまりにも完璧な丸さに「何事にも一所懸命な人」であることを思い知らされたという。 『クラウディア』への出演は共演のとの友情を育んだ。 本田がYU-KIに「」の歌い方を尋ねてきたことがきっかけで打ち解けるようになったという。 公演の合間には二人でワインを開けたりショッピングを楽しんだりした。 療養生活を支えた絆 本田の入院が伝えられると各方面から励ましのメッセージが寄せられた。 ファンティーヌ役で出演予定だった『』公演の出演者、スタッフからは大きな紙一面に書き込まれた寄せ書きが贈られた。 市のイメージソングを歌った縁での小学生たちからは名前に因んで37,500羽の折り鶴がプレゼントされた。 同時期に白血病と診断され入院したお笑いコンビ「」の とは互いに文通で励まし合っていた。 中島への手紙の中で、本田は病気になったことで自分がいかに人から愛されていたかを思い知ったと述べていた。 クラシックアルバムで編曲を担当していたは本田の入院中に復帰第一作となる楽曲をプレゼントした。 当時のコンサートツアーに同行していた井上はバンドのメンバーの協力を得てデモDVDを作成し病床の本田の許に届けた。 福山のデビュー当初からのファンだった 本田は泣いて喜んだという。 没後の動向 病死への反響 38歳の若さでの本田の死は社会に衝撃をもって受け止められた。 本田の遺志により朝霞で行われた通夜にはファン・関係者合わせて2700人、告別式には3700人が参列した。 彼女の公式ファンクラブは多数の要望により没後も存続することになった。 葬儀で弔辞を述べたやテレビ番組をかけ持ちして思い出を語った、通夜に参列した後会見を行ったなどが追悼のコメントを寄せた。 海外ではが彼女との思い出の写真とともに追悼のメッセージを自身のオフィシャルサイトに2日に渡り掲載した。 もう一人本田の訃報に反応を示した外国の音楽家がだった。 本田は彼女のコンサートを聴きに行き、終演後に楽屋を訪ねて話をしたことがあった。 彼女は(平成17年)の日本でのクリスマスコンサートで、そうした経緯について説明した上で「ミナコ・ホンダに捧げる」としての「」を歌った。 2005年(平成17年)にはで追悼特別番組『天使になった歌姫・本田美奈子. 』が放送された。 これは本来は白血病からの復帰を前提として難病を克服した本田の姿を放送するために準備されていたもの。 生前公私ともに親しくしていたがナレーションを務めた。 ほかにこの年のうちに『』、『』、『』、『』などでも追悼特集が組まれた。 翌(平成18年)には『』でも追悼特集が放送された。 『たけしの誰でもピカソ』ではさらに一周忌に合わせて二週にわたる詳細な特集が放送された。 テレビの訃報では「」を歌うライブ映像が繰り返し流された。 また2006年(平成18年)から1年間公共広告機構(現:)の支援キャンペーンに起用され、テレビ、ラジオのコマーシャルでは入院中に病室でで歌った「アメイジング・グレイス」が流された。 このため日本ではこの歌と本田の存在とが強く結びついて人々に印象づけられることとなった。 この歌の作詞者ジョン・ニュートンの自伝「『アメージング・グレース』物語」(2006年12月7日、彩流社)を翻訳した中澤幸夫は「本田美奈子. さんがこの歌を広めたと言っても過言ではない」としている。 未発表音源など 本田はデビュー20周年に当たる(平成17年)に記念アルバムを制作することを予定し、一部は前年のうちに録音が進められていた。 しかしその後の病気の発覚と間もなくの急逝により実現することはなかった。 それでも関係者の熱意により未発表の音源や放送局に残されていたものを集め、(平成18年)に一年遅れの記念アルバム『』が発売された。 また同年には、在籍時の未発表音源をボーカル・トラック以外は新たに録音し直してリミックスしたアルバム『』が発売された。 (平成19年)にはアイドル時代の人気曲を中心に選曲されたベスト・アルバム『』が発売された。 これには Wild Cats を解散してソロに復帰した時期に制作されたものの未発表となっていたアルバムの音源が収録された。 入院中にのためにボイスレコーダーに吹き込んでいた歌唱の音源は、一部がフジテレビの追悼特別番組『天使になった歌姫・本田美奈子. 』で紹介されたほか、(平成20年)にはこの二人の対話に焦点を当てたNHKのハイビジョン特集『本田美奈子. このうち「」の録音は2006年(平成18年)から1年間公共広告機構(現:)の支援キャンペーンのテレビ、ラジオのコマーシャルに使用され、2008年(平成20年)には配信限定で一般にリリースされた。 2008年(平成20年)にはこのハイビジョン特集を元にした書籍『本田美奈子. 甦れアメイジング・グレイス』が出版され、付属のCDに「アメイジング・グレイス」を含む4曲が収録された。 さらに同年にはこれらの音源のうち19曲を収録したアルバム『』が発売された。 今も愛される歌声 本田は入院中、他の入院患者とのふれ合いやファンや仕事仲間からの応援メッセージによって励まされていた。 彼女の遺志は遺族や友人、関係者によって受け継がれ、現在はとして運営されている。 子供好きな本田は自身の晩年期、子供が虐待などの被害者となる事件が増加していることに心を痛め、恵まれない境遇にいる子供たちのために何かできることはないかと考えていた。 この思いを叶えるため、2006年(平成18年)本田の遺族は彼女が生前使用していた車をで売却し、その代金で埼玉県の20ヶ所に寝具100組を寄贈した。 亡くなった翌年にがカバーアルバムのシリーズ第3弾『』(2006年9月27日発売)に収録する曲目のリクエストを募集したところ本田の「」が圧倒的1位になり、このアルバムの終曲として収められた。 岩崎はと共演したアルバム『』(2007年9月26日発売)にも本田への献辞とともに「つばさ」を収録している。 岩崎は「彼女のために生まれた歌を、私も大事に、大切に歌い継いでいきたい」と述べている。 のはファンからプレゼントされた本田のアルバム『アメイジング・グレイス』を愛聴している。 このことを知った本田の所属事務所は2006年(平成18年)の夏場所中にを訪れて、この年のに朝霞市で行われた追悼展のグッズをプレゼントして激励した。 が入院中の本田に復帰第一作としてプレゼントした楽曲は彼女自身が作詞して歌う予定でいたが実現することはなかった。 は2008年(平成20年)に本田の残された音源との仮想的なデュエットによる「」を収録したシングル「アメイジング・グレイス2008」をリリースした。 本田の(平成16年)のライブ映像と並んでヘイリーが歌うプロモーション・ビデオも併せて制作されている。 同年にはが「」のを発表した。 このCDには同時に太田が本田のボーカル・トラックとデュエットしたバージョンと、の記念コンサートで本田と共演して以来交流の続いていた愛・地球博記念市民合唱団によるバージョンが併せて収録されている。 また翌6日にはクラシック・アルバムの楽曲をボーカル・トラック以外を編曲し直してリミックスしたアルバム『ETERNAL HARMONY』が発売された。 このうち「アメイジング・グレイス」はが編曲・録音を担当した。 メイは「すべてのブレスや発音が聴き手に漏らさず届くように完成させました」と述べている。 本田を扱った作品 舞台• minako-太陽になった歌姫-(2017年5月、)• 総合監修は高杉敬二、作・演出は野沢トオルが担当。 主演は(元)。 本田美奈子. ミュージアム 2018年7月31日、埼玉県朝霞市にて、「本田美奈子. ミュージアム」がオープンした。 ディスコグラフィ 「」を参照 トリビュート• (2006年11月1日) 出演 舞台(ミュージカル)• (・、1992年 - 1993年) - キム 役• (1994年、1998年) - ホーデル 役• (・帝国劇場)(1996年、1999年、2000年、2002年) - タプチム 役• (東宝・帝国劇場、、、1997年 - 2001年) - エポニーヌ 役• ひめゆり (ミュージカル座、2002年、2004年) - キミ 役• 十二夜 (帝国劇場、2003年) - ねこ 役• クラウディア (・大阪他、2004年) - クラウディア 役 映画• (1987年) - 立木美奈 役 Vシネマ• ダンディーとわたし(1991年)• 実録日本ヤクザ抗争史 鯨道4 残侠譜 完結編(2001年) テレビドラマ 連続ドラマ• (1987年1月9日 - 3月27日、TBS) 主題歌として『Oneway Generation』を歌うシーンが毎回流れると共に、第1話では本人役でゲスト出演した。 (1994年1月13日 - 3月24日、フジテレビ) - 小林昌美 役• (1994年7月9日 - 9月24日、日本テレビ) - 栗原千秋 役• (1)(1994年10月10日 - 11月14日、フジテレビ)• (2001年9月3日 - 11月5日、) - 結城苑子 役 単発ドラマ• 微熱MY LOVE(1985年11月18日、フジテレビ・) 主題歌:『Temptation 誘惑 』• フローズン・ホラーショー(1987年5月18日、フジテレビ・月曜ドラマランド)• 7 愛の幻影(1990年10月9日、日本テレビ・) - 江本美奈子 役• (1991年12月27日、フジテレビ)• 夢の帰る場所 (1994年2月21日、フジテレビ) - 歌手のミナ子 役• TEARS 第20話「恋のゆくえ」(1999年2月18日、テレビ朝日) - 静子 役 テレビ司会• スーパーシティウォーカー 〜大都会の遊び方〜(2001年10月5日 - 2002年3月29日、全26回、) - とMCを務めた30分番組 特別番組• 追悼特別企画 天使になった歌姫 本田美奈子. 〜夢と闘いの38年〜 (2005年12月16日、フジテレビ・) ラジオ• KIDS IN TOSHIBA かぼちゃークラブ(1985年5月1日 - 、ニッポン放送)• ラジオ DE ME HER アイドルナイトパーティー(1985年10月11日 - 、文化放送)• ジェミニ・ミュージックパートナー ときめいて美奈子(1985年10月12日 - 1986年4月5日、TBSラジオ)• とびだし美奈子とそれゆけおぼっちゃま(ニッポン放送)• Spirit of the radio with Minako(1989年4月1日 - 1990年4月1日)• 本田美奈子 Blue Spring Club(1996年、をキーステーションに・・・・・・・・をネット) CM• 東芝EMI• 2ndシングル 「好きと言いなさい」• 4thシングル 「Temptation(誘惑)」• 5thシングル 「1986年のマリリン」• 7thシングル 「HELP」• 8thシングル 「the Cross -愛の十字架-」• 3rdアルバム 「CANCEL」• 4thアルバム 「OVERSEA」• 「ポテトチップス」• 牛乳石鹸• お歳暮• イメージキャラクター• キャデリーヌ(との共演篇もある)• ジャイアントコーン(と共演)• ポッキー(南野陽子との共演篇もある)• Hi-Brend(と共演)• イメージキャラクター• ホットカーペット ペルシャム• 家具調こたつ• 扇風機 イマージュ• リモコンWalky• ジュースメーカー• インバーターファンヒーター• ゆうゆう夏まつり• CDコンポV34X• Aurex L200• AUREX CDラジカセ・RT-CDW7X• SUGAR CDラジカセ• CDラジオカセット・SUGAR CD(RT-CD1)• 企業CM(東芝ストアー(各県東芝会加盟店)のキャンペーンCM)• ストナエース• ストナエース・ソフトカプセル• ストナリニ• (ろうきん)• (企業CMで、本人がCMソング「」を熱唱しながら出演)• 公共広告機構(現:)• しらんぷりもいじめ(1986年7月 - 1987年6月)• 支援キャンペーン(2006年7月 - 2007年6月)• 「魅力いっぱい! サッポロエージェンシー 「かんぞう奉行」 書籍 エッセイ• 果汁120パーセント(1985年12月10日、)• その気になって-カッ飛んじゃおうゼ(1986年7月10日、)• 天国からのアンコール vol. 1 1986年のマリリン(2006年4月20日)• 天国からのアンコール vol. 2 2006年のマリリン(2006年4月20日) 写真集• 好きといって…(1985年8月20日、)• あぶない危ない少女(1985年11月5日、ワニブックス)• SPARKLING美奈子(1986年3月20日、)• 私・激(シゲキ)して-夏(1986年5月31日、)• BATHROOM ANGEL(1986年10月5日、集英社)• CANCEL(1986年12月15日、)• WHAT'S(1987年10月26日、)• APPETIZER〔アピタイザー〕(1990年7月10日、ワニブックス)• SAIGON(1992年6月1日、)• 時間のない島(1995年10月20日、)• 本田美奈子. メモリアル(2005年12月10日) 楽譜• ボーカルスコア「AVE MARIA」(2003年6月12日)• ボーカルスコア「時」(2004年12月18日)• ボーカルスコア「心を込めて…」(2006年11月9日) 伝記• 天に響く歌 〜 歌姫本田美奈子. の人生(2007年5月20日)• 本田美奈子. 甦れアメイジング・グレイス(2008年10月25日) 注釈• 「字画を1つ増やせば、輝ける未来に」と言われてに 本田 美奈子から画数が31画となるよう名前の後に「. 」をつけ改名。 読みは変わらない。 ちなみにこの回のグランプリは松本が獲得した• この時点ですでにブライアン・メイのプロデュースによる楽曲制作は決まっていたらしい。 この英語版では「GOLDEN DAYS」の方がA面扱いになっている。 酒井は『ミス・サイゴン』の担当ではなかったが、ロンドンでこの作品を見て一月も経たない頃に高杉、本田と会食する機会があり、彼女の印象がヒロインのキムと重なったことからオーディションへの参加を勧誘した。 本田は情報誌プチぶんか村の2002年8月号に寄稿したエッセイ「小さな幸せを大切に…」 の中で「私はいつも、『人の心を動かせられる様な歌をうたえる歌手になりたい』と思っています。 …でも悲しい事に、最近、愛と心と情熱で、音楽を手作りでつくる人がとても少なくなってきてしまいました」と述べていた。 この翌日に同じ会場で行われたコンサートが一般の観客を前にしたものとしては最後のコンサートとなった。 この年の最優秀新人賞はTBS系列のテレビドラマ『』に出演していたが受賞した。 『』の追悼特集ではスタジオに『ザ・ベストテン』放送当時のセッティングが用意され、最後に「アメイジング・グレイス」が9999点で1位として紹介された。 デビュー当初、工藤夕貴と関係にあるという噂があったが、工藤は本田の没後の取材に対し「噂である」と否定している、ただしデビュー当時はよく似ているとは互いに言われたとの事。 当時人気絶頂だったがにちなんで芸名をつけたと噂されていた [ ]。 中島も本田の急逝から約1年後のに亡くなった。 本名では迷惑がかかるからと友人の名前を借りてファンクラブに入会していたほどだった。 で2008年2月25日に放送。 3月3日に同チャンネルで再放送されたほか、3月24日には再編集されたものがで放送されるなど、その後も何度も再放送されている。 またNHKがBS放送20周年を記念して行った視聴者のアンケートでも17位となり、BS二十歳の名作集として放送された。 アルバム『』の発売の際の手書きの手記にはテレビの報道を見て知ったの活動に感銘を受けたことを綴っている。 2004年7月の及びでの「レ・ミゼラブル in コンサート」にもエポニーヌ役で出演した。 2005年公演ではファンティーヌ役で出演を予定していたが病気のため休演を余儀なくされた。 新たな代役は立てられず、同時にキャスティングされていた・が本田の出演予定日を務めた。 2005年公演では『レ・ミゼラブル』でエポニーヌ役を本田とダブルキャストで演じたが代役を務めた。 2005年公演ではプライベートでも親交のあったが代役を務めた。 現代ビジネス 2011年8月17日. 2019年12月19日閲覧。 (日刊スポーツ、2016年11月7日)• の人生』 ワニブックス、2007年• 1990年4月22日放送の『』• 『スポーツニッポン』1990年11月1日• 写真集『キャンセル』• 2019年1月16日. 2019年3月21日閲覧。 2012年10月19日. 2020年4月19日閲覧。 Re:minder 2017年8月10日. 2020年4月19日閲覧。 入絵加奈子 に寄せられた入絵本人からのメッセージ• ヘルスプレス 2017年12月10日. 2020年4月19日閲覧。 2020年4月18日. 2020年4月19日閲覧。 音楽コラボアプリ nana 2016年10月4日. 2020年4月19日閲覧。 2019年8月22日. 2020年4月19日閲覧。 CHRISTIAN PRESS 2019年11月6日. 2020年4月19日閲覧。 2006年1月22日山形交響楽団の有志によって行われた『本田美奈子. 追悼 白血病撲滅チャリティーコンサート』で本田直筆の手記を印刷したパネルが展示されていた。 ニュース-ORICON STYLE-• 本田の一周忌に開催された追悼コンサートでのコメント• 『』2005年11月14日、東京夕刊、10ページ• アルバム『』のライナーノート• 2017年2月16日. 2020年4月19日閲覧。 現在でも公式サイトの で閲覧可能。 この時の模様は現在 - で確認することができる。 『スポーツニッポン』2006年9月16日• アルバム『PRAHA』のライナーノート• 『スポーツニッポン』2006年1月14日• 『サンケイスポーツ』2006年5月22日• ステージナタリー. 2016年12月5日. 2016年12月5日閲覧。 外部リンク• MinakoMuseum -• - (2013年4月11日アーカイブ分)• - ビーエムアイによるページ.

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本田美奈子.ミュージアムの場所は朝霞市!~館内を詳しく説明します~

本田 美奈子 記念 館

埼玉県朝霞市は、 本田美奈子さんが生まれ育った場所。 朝霞市には、本田美奈子さんの眠るお墓、東武東上線朝霞駅前には本田美奈子さんの書いた「笑顔」というポエムの書かれた記念碑があります。 本田美奈子さんの誕生日である7月31日に合わせて、2018年にプレオープンされた本田美奈子. ミュージアムには、本田美奈子さんのステージ上の写真のみならず、舞台裏、プライベートな写真まで数多くのパネルが展示され、数々の舞台衣装、台本、楽屋の再現等、ここには本田美奈子さんの全てが詰まっています。 この本田美奈子. ミュージアムのオープンを機に、県外から足を運ばれるファンの方も年々増えてきていると思いますので、 本田美奈子. ミュージアム、朝霞駅の記念碑、本田美奈子さんの眠るお墓の場所と行き方を書いてみました。 本田美奈子 お墓・記念碑・ミュージアムの場所と行き方 本田美奈子さんのお墓 広称寺の場所と行き方 本田美奈子さんのお墓は、埼玉県朝霞市の 広称寺(こうしょうじ)というお寺にあります。 東武東上線の朝霞台駅で下車し、改札を出たら右(北口)へ向かいます。 北口の階段を降りたらバスロータリーを右に沿って(マクドナルドのある方向)歩いていきます。 ミスタードーナッツのところを右に曲がると、長い下り坂があるので、そこをまっすぐに進みます。 黒目川に架かる橋を渡って、土手の一つ向こうの道を右に曲がると朝霞市斎場があり、そのすぐ隣が広称寺です。 広称寺沿いには、比較的浅く透明度の高い黒目川が流れていて、週末にもなると家族連れの子どもたちが水浴びをしています。 黒目川の土手には桜の木が植えてあり、春になると見事な桜並木になります。 本田美奈子さんは、こういったにぎやかで美しい自然に囲まれた場所に眠っています。 お墓参りは誰でもすることができ、事務所右脇の通路から入って行くことが出来ます。 通路をしばらく進むと、右手に沢山のお花に囲まれた薄ピンク色の墓石が見えると思います。 それが本田美奈子さんのお墓です。 分からなければお寺の方に声をかけて場所を確認してみてください。 本田美奈子さんの好物(ふぐ・あんきも・搾菜など)を持っていかれる方もいらっしゃるかもしれませんが、カラス等に荒らされないようお参りした後は持ち帰えるよう注意してください。 その他のモノに関しては、お墓に置いていっても構わないかお寺の方に伺ってみてください。 C」 より和光志木線 国道254号線(川越街道) 「第4小学校交差点」より旧川越街道を利用(約7分) 朝霞駅 本田美奈子さんの記念碑の場所と行き方 朝霞駅は、本田美奈子さんのお墓がある朝霞台駅の隣の駅です。 朝霞駅の改札を出たら左(南口)へ向かいます。 階段を降りると、バスのロータリーに出ます。 上の画像の時計がある草木が生い茂っているところに、本田美奈子さんの記念碑があります。 下の画像でいうと、赤丸の付いている場所です。 本田美奈子さんの記念碑付近は、キレイに整備されています。 記念碑に向かって左側にある鉄柱の細いボタンを押すと、本田美奈子さんの「新世界」が流れて来ます。 本田美奈子. ミュージアムの場所と行き方 本田美奈子. ミュージアムは、朝霞台駅・朝霞駅のどちらからも行くことが出来ますが、どちらから行ったとしても、徒歩で30分ぐらいはかかります。 本田美奈子. ミュージアム以外に立ち寄る時間がなければ、公共交通機関(バス・タクシー)を利用するのが良いかもしれません。 バスを利用したい場合は、朝霞台駅からとなます。 バスを利用する場合 本田美奈子. ミュージアムへ向かうバスの乗り場は、東武東上線の 朝霞台駅南口ロータリーにあります。 見づらい手書きの地図で申し訳ありませんが、朝霞台駅・朝霞駅それぞれから本田美奈子. ミュージアムへの地図を書いてみました(スマホの方は拡大して見てください)。 まず、朝霞台駅からですが、上記のお墓へ行くルートで駅から長い下り坂を下り切ったところの信号(浜崎分署前)を右に曲がって真っすぐ行く方法と、黒目川の土手に沿って行く方法があります。 下の地図の 緑のルートを辿って歩いていってみてください。 車の通らない土手ルートがおすすめです。 朝霞駅から行く場合は、以下の ピンク色のルートを辿ってみてください。 ちなみに、上記の地図で本田美奈子. ミュージアム近くに書いた 緑の丸は、本田美奈子. ミュージアムの電柱表記のある場所です。 本田美奈子. ミュージアムへの電柱表記が設置されました。 — 本田美奈子. ミュージアム MinakoMuseum <本田美奈子. 宿泊先をお探しの方は、問い合わせしてみてください。 トラベル)は まとめ 8月第一週目の金土日(金曜日は前夜祭)には、彩夏祭という朝霞市の大規模な夏祭りがあります。 LIVE FOR LIFE(本田美奈子基金)のテントもほぼ毎年設置されていますので、機会があったら是非足を運んでみてください。 最後に、本田美奈子. ミュージアムの連絡先とホームページの案内を記しておきます。

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本田美奈子が亡くなる前の最後の彼氏はフライデーで?父親母親姉妹は?

本田 美奈子 記念 館

出典:Jonny こんにちは! 星読みタロットチャネラーのMagicalです! 愛称は「 マッジ」ですよろしくお願いします! 話題のニュースや 人の 本質に 星座占いと タロットを活用したチャネリングメッセージをお伝えしていく他ではないサイトです! 本日のチャネ人は本田美奈子さん 1980年代を代表するアイドル歌手として活躍されておりました。 ルックスはとても可愛いのですが本格的な歌唱力もあり、彼女が病床からアカペラで吹き込んだ「アメイジング・グレイス」は今でも語り継がれております。 (ほんだ・みなこ) 2004年に本田美奈子にドットを付けて本田美奈子.(31画)に改名されております。 1986年(21歳)シングル「1986年のマリリン」がヒット。 1992年(25歳)舞台「ミス・サイゴン」に出演。 本田美奈子とマリリン若い頃から歌がうまかった! 中学時代では、バスケットボール部に所属して、ポジションはフォワードだったそうです! 3年の時に県南大会に出場し、体育祭の800mで学校の新記録を出したくらい運動神経が良い子供時代でした! しかしスポーツよりものめり込むものがありました! 本田美奈子さんは幼い頃からアイドル歌手にあこがれていたそうで、父親は芸能界入りを反対していたそうですが、母親は大賛成だったそうです! (本田さんが17歳のときに両親は離婚されております) 本田美奈子さんが15歳のとき、1982年のTV番組 「スター誕生」のオーディションを受けており準決勝まで残りましたが、残念ながら指名はされなかったそうです。 1983年に本田美奈子が高校生になったときに、遊びに来ていた原宿でスカウトを受けることになります。 高杉啓治のボンド企画でした。 後に本田美奈子さんの所属事務所の社長の高杉敬二氏が出演し、本田さんをスカウトした時の印象を下記のようにコメントを残しております。 スポンサーリンク 本田美奈子さんはアイドル時代から歌唱力はあったようです。 1984年の第八回長崎歌謡祭でグランプリを受賞してレコードデビューにこぎつけていますので波のアイドルではないようです。 透き通るロングトーンの歌唱力は1980年代のアイドルの中でもトップクラスだと感じます。 本田美奈子さんが有名になったキッカケは 「1986年のマリリン」でした。 セクシーな衣装と腰を振る激しい振り付けが話題になり、 「山本リンダ以来のセクシーアイドル」と呼ばれたのです。 このことで、歌のうまさで売れたと言うよりも・・セクシーなルックス先行で売れてしまった為にイメージが付いてしまったそうです。 (同世代のキョンキョンは歌でオリコン1位になったこともありましたが、本田美奈子さんは1位になったことがないそうです。 ) それ以降の歌う楽曲が歌のうまさで売る曲がなくなってしまう残念な結果になりました。 しかし、本田美奈子さんはミュージカル女優でトップレベルを築いて行ったのです。 本田美奈子の本物の歌唱力はミュージカルから きっかけになったのは、ミュージカル「ミス・サイゴン」でした 一般の人に混じってオーディションを受けて本田美奈子さんは合格されているのです。 これまでのアイドル時代の過去の栄光は捨て、再挑戦したのがミュージカルでした。 コネを使って国内のミュージカルに出演したということではありません。 「ミス・サイゴン」のオーディションは単身ロンドンに渡り受けに行ったそうです。 消して日本人のアーティスト枠ではなく、世界の実力者と競い合い、15000人もの中から選ばれ、ヒロインのキム役を掴み取っております。 そして「ミス・サイゴン」出演に際して1年間本格的なボイストレーニングを受けており、出演を重ねることに音域が広がっていき、もともと歌の才能はありましたが、彼女本来の開花することになりました。 本田さんの並々ならぬ、ミュージカルにかける意欲は半端なかったと言われています。 ミュージカル「ミス・サイゴン」出演中に舞台装置に轢かれて足の指を4本骨折されているのに、本番中は痛みを感じずに正座もして演技をされております。 さらに出演中の日常は、喉を休める為に声を出さず、筆談やゼスチャーで意思疎通をされ徹底したプロ意識があったことで有名です スポンサーリンク 本田美奈子の闘病生活 ミュージカル女優として実力を発揮し人気を獲得した本田さんだったが、2005年に急性骨髄性白血病が発覚し闘病生活に入られております。 彼女の身体に異変が現れたのは2004年末のことだったようです。 全国6か所で行うコンサートを前に、3日間の人間ドックを受けることにし、その1か月ぐらい前から、めまいや微熱が続くなど、異変は感じていたそうです。 本田さんは風邪にも似たような病状を訴えていたそうですが、これこそが白血病の初期病状だったそうです。 2005年(平成17年)1月12日に病院に向かうも、そこで下された診断は 「急性骨髄性白血病」でした。 しかも本田さんが侵されていた白血病は、なかでももっとも治る可能性が低い、発症率200万人に1人といわれる難治性のものでした。 本田さんは出演が決まっていたミュージカル「レ・ミゼラブル」「クラウディア」は、降板することになり、順天堂病院に緊急入院し翌日には事実を公表したそうです。 デビュー20周年で、彼女が活躍の絶頂にあった時です。 その時のことを事務所社長の高杉氏は述べております。 スポンサーリンク 本田さんは3回の入退院を繰り返しておりました。 1回目は2005年1月12日に急性骨髄性白血病で入院し、辛い抗癌剤治療を2回ほど受けましたが白血病は悪化の一途でした。 8月に急場のしのぎで本田さんに適合する「臍帯血」という血を移植する手術を受けております。 骨髄移植をすべく本田さんに合うドナー(骨髄提供者)も探しましたが適合者が見つかるまでに数ヶ月かかると言われて断念したそうです。 7月30日に退院して、また再発し9月8日に2回目の入院をしております。 10月に一時退院しましたが、このときには最後の帰宅になるかもしれないと死を覚悟したかもしれません。 10月末には3度目の入院をしており、これが最後になりました。 肺への合併症が発生し、容態が悪化しております。 本田さんは2005年11月6日午前4時38分にこの世を去っております。 享年38歳でした。 下記の文章でどれだけ辛い治療だったのか、本田美奈子さんの壮絶な闘病生活を知ることが出来る資料ですので添付致しました。 美奈子の病気は、急性骨髄性白血病のなかでももっとも治る可能性が低い、発症率200万人に1人といわれる難治性のものでした。 通常、7割近い人が10日間1クールの抗がん剤治療で骨髄中の白血病細胞が5%以下になり、一時的によくなった状態である「寛解(かんかい)」に入ります。 しかし彼女の場合、1クールの治療で50%も残ってしまった。 母親と僕が呼ばれて、非常に厳しい結果であると告げられました。 その後、2クール目の抗がん剤治療を行うことになったのですが、10日間続く治療は心身に相当の苦痛を与えるうえ、1クール目の副作用で口のなかは口内炎だらけ。 話すのはおろか、痛くて水も飲めないような状態のなかで、本人も「どうして2回もやらなきゃいけないの?」と嫌がりました。 それでも、よくなる可能性があるからと先生方に説得され、2月初旬に2クール目の抗がん剤治療を行いました。 しかし、その結果は18%で寛解に至りませんでした。 この数字は先生方の予想をも裏切るほど悪いもので、家族が呼ばれて「これが最後かもしれない」とまで言われました。 そんなこと本人には言えないし、僕らはどうしていいかわからず、辛い日々でした。 骨髄移植*1をすべく美奈子に合うドナー(骨髄提供者)探しもはじまりましたが、適合者が見つかるまでには数ヵ月もかかるとわかり、断念。 病状が予断を許さなかったため、臍帯血移植*2に踏み切ることになりました。 すると、ほどなくして適合する臍帯血が見つかり、美奈子もこれに希望を見出しました。 そして、3月に入ると移植に備えた3クール目の抗がん剤治療が行われることに。 3クール目はさらにきつい治療で、高熱が続き、非常にひどいだるさにも悩まされました。 また並行して実施した放射線治療での照射は彼女にとって辛い痛みを伴いました。 しかし、美奈子は耐えに耐え、ついに4. 5月12日には臍帯血移植も行われました。 臍帯血移植後、状態は一進一退しながらも経過は順調で、7月30日には一時退院できることも決まったのです。 それから1ヵ月ほど、自宅で穏やかな日々を過ごしました。 その間の美奈子は、食欲もあり顔色もよく元気でしたし、週に一度、都内の病院で受ける検査の結果も良好で、僕はこんな状態がいつまでも続けばいいと祈らずにはいられませんでした。 ところが、8月24日に受けたマルク(骨髄穿刺/こつずいせんし)という検査の結果が悪かったため、病院に呼ばれました。 そして、染色体の異常が見つかったこと、つまり再発したことが告げられたのです。 9月7日、美奈子は再び緊急入院することになりました。 その後、先生方と治療方針を話し合い、アメリカで開発された新しい抗がん剤を使ってみることになりました。 この新薬で効果が出ている人も多いと聞いた美奈子は、再び病気と闘う覚悟をしたようでした。 高熱が続き、口内炎が口中に広がるため、食べるどころか水さえも飲めず、話すこともままならないような状態になりました。 かわいそうで見ているのも辛いほどなのに、それでも美奈子は「ごめんね、ごめんね」と僕らを気遣っていました。 10月になると状態がいい日もあり、そんなときは自宅に戻って数日を過ごしました。 しかし、元気に見えてもがんは進行し続けていたのです。 医師は、できるだけ自宅で過ごせるようにと外泊を許可。 とても喜んだ美奈子さんは、お見舞いに来た高杉さんに、その週の土曜日に自宅に帰れることを満面の笑みで報告しました。 その笑顔に安堵した高杉さんは、翌日の訪問を約束して病室をあとにしました。 ところが容体が急変。 そして、11月6日早朝、美奈子さんは両親と妹、そして高杉さんの家族に見守られるなか、静かに息を引きとりました。 その顔には、安らかな微笑みが浮かんでいたそうです。 正常な白血球が減少すると免疫力が低下し、正常な血小板が減ることで止血作用が弱まり、治療をしなければ、最終的に死に至るのです。 原因は、現在の医学でもはっきりとわかっていないので、いつ誰でも襲われる可能性のある病でもあるのです。 急性骨髄性白血病には型には8種類あり、骨髄穿刺の検査で骨髄細胞を採取し、どのタイプの細胞が白血病化したかを顕微鏡で観察し、細かく分類した細胞系統・形態により分類されます。 骨髄(こつずい)の中の芽球の比率が30%以上で急性白血病と定義され、M0からM7の8つの病型に分類されます。 本田さんの白血病がどの型なのかは公表されていませんが、「予後不良」という表現から察するに、中でも最も白血病の進行度が高いM7であると思われます。 M7とは血小板をつくる造血幹細胞が、がん化したものです M7 急性巨核芽球性白血病 白血病細胞は小型で偽足様突起を持つ。 MPO陰性であるが、 PPO、CD41、CD61陽性。 予後は極めて不良。 本田美奈子の葬儀と家族について 本田さんは東京都葛飾区で生まれておりますが、幼少期に埼玉県朝霞市で過ごされていたそうです。 本田さんの遺志によって朝霞市で葬儀と通夜は行われたそうです。 ファンや関係者で通夜には2700人 告別式には3700人が参加しました。 彼女の公式ファンクラブは多数の要望により、没後も存続し続けており お墓をお参りしたい方は、朝霞市の広称寺墓苑(朝霞市溝沼1257)で眠っているそうです。 今でもファンからの花が絶えないそうです。 貴重なお写真を一枚ご紹介いたします。 上記のお写真の左側は本田美奈子さんのお母様で、工藤美枝子(くどう・みえこ)さんです。 左側は本田美奈子さんの3歳年下の妹さんで、岡村律子さんです。 美枝子さんは美奈子さんの入院直後から日記をつけ始めました。 美奈子さんの様子をつづり、日々の支えにしていたそうです。 NPO法人「リブ・フォー・ライフ美奈子基金」の発起人の一人です。 美奈子さんは入院中他の患者さんのふれあいやファンや仕事仲間からの応援メッセージによって励まされて居たといいます。 あるときに本田さんは、辛い治療に泣き叫ぶ子どもたちの声を聞いて 「ボス(事務所社長高杉氏)聞いて。 小さな子どもたちが私と同じ闘いをしているのよ・・」 そして自らが、病気を克服して再び元気な姿でステージに立てるように、難病の人たちの希望になりたいと考え、本田さんが亡くなる半年前の10月19日に難病者を支援するための活動として「リブ・フォー・ライフ美奈子基金」を立ち上げたのです。 本田さんを追悼する公演「リブ・フォー・ライフ音楽彩」が、2015年11月3日に開催されました。 メンバーは 松本伊代(50) 早見優(49) 坂本冬美(48) 森口博子(47) 知念里奈(34) 安倍なつみ(34) と、本田美奈子さんと時代を共にしたそうそうたるメンバーでした。 特に40代以上のメンバーは、同じ時期に活躍した戦友ともいえるでしょう。 スポンサーリンク 1980年代後半、デビュー曲「STAR LIGHT」の名の通り、星のように輝き世間を熱狂させたアイドルグループ「光GENJI」はご存知ですか? そのセンターを務めていた諸星和己さんはグループでも一番の人気を誇っており、その人気はまさに社会現象にまでなったのです。 以前、中居正広さんが「ジャニーズで一番人気だったグループは何か?」と質問されたとき、迷うことなく「光GENJI」だと答えたことがあります。 あの中居正広さんはSAMPとしてデビューする前は、光GENJIのバックダンサーを務めていたことでも有名です。 ところで諸星和己さんの元カノですが、とんでもない人数にのぼるそうです。 「その時に輝いている人が好みである」 破局理由も、自ら「浮気しまくってた。 6股とか」と語っていたのでかなりのプレイボーイでした! 諸星和己さんが真剣に付き合っていた相手というのが、当時人気を博したアイドル歌手の本田美奈子さんのようです。 18歳の頃に結婚を考えていたようです。 「その女性は恋人であり姉であり同士であり、最も信頼できた」とも申しているようです。 本田さんとの恋愛報道をされたのは、FRIDAYの1990年10月26日号になります。 諸星和己さんが当時住んでいたアパートから本田美奈子さんが出てきて、同じ車に乗り込むところをスクープされております。 二人の馴れ初めはやはり歌番組での共演でした。 当時本田美奈子さんはミュージカル「ミス・サイゴン」のヒロイン役に選ばれたころで、諸星和己さんはデビュー前から本田美奈子さんのファンクラブに入会していたほどのファンでした 本田美奈子さんとは、別れたり復縁したりを繰り返しながら15年も交際を続けたそうです。 年齢から考えると、本田美奈子さんが亡くなられる数年前までということになるようですから 白血病が明らかになってから、諸星さんがお見舞いに行って彼女を支えていたかどうかは分かりません。 お二人の破局理由はいくつかの噂があります。 FRIDAYで報道された内容としては 「事務所の許可が得られずに引き裂かれた」というものでした。 当時のジャニーズ事務所はとても力があるので、ある意味納得できます。 しかし諸星和己さんの人気ぶりから、女遊びの激しかった諸星和己さんに本田美奈子さんが耐えられなくなった、という噂もあるようです。 本田美奈子さんは 「私は歌と結婚したから、今生では結婚しない」と意味深発言をされております。 もともと結婚願望もあった本田さんは、本当に愛する人を諦めた経験があったのかもしれないとマッジは感じるのです。 諸星和己さんもアイドル時代からの転落から 「目の前の大切な人がいなくなることに恐怖を感じる」とも申しており、諸星和己さんの自著での発言と本田美奈子さんの後年の発言により 今でも独身でいる毒舌っぷりを発揮している諸星さんですが、本田美奈子さんのことになるとそういう発言はしないそうです。 結果的に永遠に愛する人を失い今でも本田美奈子さんのことが大切で、忘れていないのが現在でも結婚をしていない理由かもしれません。 本田美奈子と小林麻央の死相の共通点 近年はこれだけ医療が発達していていも、白血病患者が増えているのも事実です。 2015年の人口動態統計によると、日本では年間8631人が白血病で亡くなっていおり、発症率は10万人に約7人といった確率で、白血病でこの世を去った芸能界、スポーツ界の有名人は意外に多いのです。 白血病でなくなった女優さんやアナウンサー小林麻央さんが記憶に新しいですね 本田美奈子さんも小林麻央さんも闘病生活の自分の姿のお写真を載せておりますが お二人が闘病生活をしていた写真が、酷似していると噂になったのです。 下記の画像は闘病中の美奈子さんです バンダナもパジャマや部屋着に色や柄を合わせておしゃれを楽しんでおりました。 htm そして下記が小林麻央さんで亡くなる9ヶ月前のお写真です(2016年9月頃) お二人とも大変な闘病生活を送られているのに、病床でのとても元気な笑顔のお写真を残しております。 死相が似ていると後から言われることになるなんて・・思いもしませんですよね このお二人が共通しているのは死相ではなくて、生き方への姿勢ではないでしょうか? 最後まで自分の人生に諦めない、決して腐ることなく希望を失うことなく、ファンの皆さんのことを考え感謝した上で公表したお写真であると、マッジは考えます。 詳しい小林麻央さんの意外な経歴についてはこちらの記事でお読みください。 他にも白血病で亡くなった、女優さんがいらっしゃいます。 夏目雅子さんはご存知でしょうか?今でも語り継がれている伝説の方です。 夏目雅子さん死因説もいろいろと言われており、エイズとも噂されたこともあります。 当時はエイズの偏見が凄かったので、根も葉もない噂が流れたのかもしれません。 夏目雅子さんも入院後7ヶ月で亡くなっており、本田美奈子さんも診断されてから10ヶ月も経たないうちにこの世を去っております。 本田美奈子さんへのタロットチャネリングメッセージ 正位置:希望、憧れ、ひらめき、インスピレーション… 死後10年以上経た今でも輝き続けている本田美奈子さん。 白血病を患い、絶望的な気持ちになりましたが、彼女の歌が心の支えになりました。 最後まで彼女は生きることに真面目に向き合っていた方です。 とても純粋でがんばりやさんだった本田美奈子さん 父親とのご縁が薄く、男性の運も薄かったのですが、深い愛をこの世に残しております。 短い人生を誰よりも濃く生き、永遠のハイトーンの美しい声とお姿は可愛いままで、私達の記憶の中にいらっしゃいます。 タロットチャネラーMagicalの勝手にチャネリングニュースラボでした! ここまでお読み頂きありがとうございます!.

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