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ハートをズドンと撃ち抜かれました」 4年前、建築家の細矢仁さんは南城市のコンクリート製造会社、技建の工場にいて、畳4畳ほどの大きさのコンクリートの板を見つめていた。 「コンクリートがここまで薄くなるなんて」。 画期的なコンクリートが生まれたことを確信し、胸が高鳴った。 板は、厚さが3. 6センチ。 たとえるなら、長編小説の単行本ほどの厚みしかない。 通常の鉄筋コンクリートと比べたら数分の1だ。 細矢さんは、「ただただ驚くしか」なかった。 驚異的に薄いコンクリートは、HPC(ハイブリッド・プレストレスト・コンクリート)と命名され、2015年に国内特許を取得した。 現在、アメリカなどで国際特許を申請中だ。 HPCの生みの親、HPC沖縄代表の阿波根昌樹さん(53)は言う。 「世界最先端のことが沖縄で行われているとは誰も思っていない。 最先端は東京やアメリカで生まれると皆が思っている。 ところが、すぐ足元の沖縄でも最先端がつくられているのです」 HPC(手前)と通常の鉄筋コンクリート。 厚みの違いは一目瞭然だ(写真提供・HPC沖縄) 薄さと強さの秘密 開発されてわずか4年にもかかわらず、HPCは既に県内の銀行や病院、そして那覇の新バスターミナルの建設などに使われている。 県外でも、海外の有名ブランドの東京店の内装に使われているほか、台北に建設中の超高級マンションの床材の一部にも採用が検討されている。 県内外から熱い視線を集めるHPCだが、一番の売りは、やはりその薄さ。 4センチを切る薄さがなぜ実現できたか。 答えは鉄が入っていないことにある。 現在広く使われている鉄筋コンクリートは、コンクリートの中に補強材の鉄筋が埋め込まれている。 鉄筋がいわば骨となってコンクリートという肉を支えている。 結果、鉄筋コンクリートは分厚くなる。 飛行機の機体や電線にも使われる炭素繊維をねじり合わせたものだ。 こちらは鉄と違ってさびることがない。 しかしいくら薄くても、容易に割れる弱いコンクリートでは使い道がない。 そこで阿波根さんや技建の技術者たちは、HPCの強度を上げる工夫を行った。 その一つが、中に仕込むワイヤーを、ゴムを引っ張るようにあらかじめ引っ張っておいて、そこにコンクリートを流し込むというもの。 コンクリートが固まるのを待って引っ張りをやめると、伸びたワイヤーが元に戻ろうとする。 それにつられてコンクリートも縮む。 こうしてコンクリートの強度が増す。 強度面での工夫はまだある。 コンクリートをひび割れしにくくするために、細かな繊維を中に混ぜ込んだり(土壁にわらを混ぜるのと同じ発想だ)、化学混和剤を入れたりしている。 「実は、炭素繊維も引っ張ることも混和剤も、コンクリート製造の世界では目新しいものではありません。 それらを組み合わせたことが世界初。 電気自動車とガソリン車を組み合わせてプリウスができたのと同じです」 HPC製のプレハブ小屋。 「机上の耐用年数は100年、200年というプレハブです」と阿波根さん(写真提供・HPC沖縄) 那覇市のまんまる子どもクリニックにもHPC製の壁が使われた。 壁が薄い分、空間を広く有効に使うことができる。 設計した細矢さんは、「『あれ、僕、こんな寸法で設計したかな』と驚いたほど広く感じられます」と話す(写真提供・細矢仁建築設計事務所) 広がる可能性と夢 阿波根さんがプリウスにたとえる革新的素材のHPCは、建物の主要部である柱や梁には今のところ使えない。 必要な認定を取得していないからだ。 しかし一般住宅の壁や天井などには使えるし、薄い素材だからテーブルなどのインテリアも作れる。 「さびないので海中でも使えます。 海中遊園地みたいなものをこれでつくったら楽しそう」 1975年の沖縄海洋博の時、海底都市のパビリオンに10回も通った阿波根さんは、海中建築に人一倍強いあこがれがある。 「少年の頃に夢見た海底都市の実現に、HPCを使って近づけたらいいですね」 台湾が脱原発を目指して整備を進めている洋上風力発電施設にも、海水に触れてもさびないHPCを役立てられないか、阿波根さんは考えているという。 メイドインオキナワの技術が、世界をチムドンドンさせる日はそう遠くないかもしれない。 右からHPC発案者の阿波根さん、技建本社ビルを設計した建築家の細矢さん、技建の宮野伸介設計室長 くるくる回る目隠しコンクリート 閉じればコンクリートの堅牢な壁となって外部の視線や台風から住人を守り、開ければ風や人の出入り口になって涼しい風や来客を室内に招き入れる。 うるま市のHさん邸の目隠しスクリーンは、頑強ながら薄くて軽いHPCの特性をうまく生かしている。 「H邸は、HPCを住宅に使う第一号のプロジェクトでしたので、全く新しい素材であるHPCにふさわしい、斬新な使い方の可能性を探りました」。 そう話す設計者の美濃祐央さん=下写真=は、探る過程で4センチ弱というHPCの薄さが、ちょうどあるものと同じであることに着目した。 扉や障子と、厚みが一緒だと気づいたんです。 そうだ、HPCで扉をつくってみよう、と思いつきました」 扉は15枚つくり、それぞれの真ん中に縦軸を通して回転扉のように360度くるくる回るようにした。 その時々の天気や時間帯や住人の気分に応じて、全開、全閉、こちらの扉は閉めてあちらは開ける、といったさまざまな開け方ができるように。 「開けた状態ですと出入り口としても使えますので、来客時には家族用の玄関を通らずに家にあがってもらえます」 住人の生活のニーズに柔軟に応えるHPC製スクリーンだが、風雨にさらされても劣化しにくい耐久性の高さも長所だ。 コンクリートと炭素繊維とポリプロピレンが主な材料なので、木のように腐る心配もなければ、鉄のようにさびることもない。 従ってメンテナンスにかかる費用が少なくて済む。 「薄くて軽量で、しかも多様な形を表現できるHPCは、大きな発展性を秘めた素材です。 HPCで家具をつくるなど、おもしろい使われ方が今後どんどん編み出されていくでしょう。 僕としても、HPCの美点を生かしたデザインを追求していきたい」 美濃さんによれば、住人のHさんは、HPCスクリーンを「楽しみながら使っている」と話しているという。 住む人には楽しさを、つくる人には夢を、HPCは与えている。 HPCが初めて住宅に使われたH邸(下の写真はミノアーキラボ提供) 設計者の美濃祐央さん ライター/馬渕和香 毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞 第1677号・2018年2月23日紙面から掲載• 関連のオススメ記事 RECOMMENDED ARTICLES• 都会の狭小地で余白をゆとりに(那覇市)... BACK TO THE タイムス住宅新聞... BACK TO THE タイムス住宅新聞... 海や歴史感じる丘陵のまち[北中城村喜舎場... 記事ランキング ARTICLE RANKINGS• 県内企業を応援しよう 私たち、こんなこと... 梅雨こそ掃除! 湿気が掃除の味方|気にな... 仏と琉球の融合空間 洗練とカジュアル同居... 猫と暮らすための部屋|ねこと暮らそう[2... 洪水と共存|自然と人間が「持ちつ持たれつ...

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驚きの極薄コンクリート|愛しのわが家・まち|タイムス住宅新聞社ウェブマガジン

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公募価格 IPOが上場する前に、株式の購入希望者に販売する価格。 IPOの抽選に当選すると、 公募価格で購入できます。 初値 IPOが上場した際に、株式市場ではじめてついた価格。 初値売りとは、 当選したIPOを初値で売ることです。 当選IPOの王道的な売り方で、 IPO初心者にもおすすめです。 初値売りのメリットとデメリットを確認していきましょう。 初値売りのメリット IPOは上場後に売買が解禁され注文が殺到するので、 株価は上場後に乱高下しやすいです。 上場後にはじめについた株価(初値)よりも、買い注文が集まり株価が高くなってくれれば万々歳ですが、逆に売り注文が集まり、株価が初値よりも下がる場合があります。 どちらに株価が値動きするのかは、決定した初値の株価や、相場の状況次第なので誰にも予想できません。 そこで・・・ 上場後の株価の乱高下を気にしない「初値売り」がおすすめです。 参考までに 人間には「損失回避バイアス(認知のゆがみ)」というものがあります。 (心理学) 利益を得た喜びと、損失の悲しみを比べると 損失のほうが大きく印象に残るというものです。 仮に当選IPOが下記のような株価の流れになった場合、ガッカリ感が強くなります。 公募価格 1,000円で100株 購入。 初値は1,500円に。 初値で売却しない。 株価は800円~1,700円を乱高下。 次第に900円~1,400円の値動きに。 たまらず、1,400円で売却。 結果だけみれば4万円の利益を得ているのでOKなんですが、初値で1,500円がついたのをみています。 初値で売っていれば5万円の利益があったわけなので、損したという気持ちが残ります。 (実際は損していない) 当選IPOは初値売りをする!と選択すれば、株価の激しい値動きを見る必要も、売りタイミングをはかる必要もありません。 精神的にも作業的にもラクなので、庶民のIPOでは 当選IPOの初値売りをおすすめしています。 株価の動向を気にしないで良い 当選IPOの株価が上下に乱高下する様子を見てるのは、 精神的によくありません(笑) もちろん、株価が上がってくれれば嬉しくて安心できますが、逆に株価が下がっていると落ち着いて見ていられず変な汗がでてきます。 (経験談) また、上記で説明しましたが人間には「損失回避バイアス(認知のゆがみ)」があります。 人は欲張りなもので、一度見てしまった株価が下がると損をした気持ちが強くなってしまいます。 カブスルも、基本的に当選IPOは初値売りをしています。 ただし、当選IPOに魅力があり長期保有したい場合や、株式市場が活況な場合などは様子を見て売却するときもあります。 () 初値売りのデメリット 初値が決まった後、 株価が上昇する場面も多いです。 その際に、「もっと利益になった!」と思うことがあると思います。 ただし、メリットで書いたように初値形成後はどちらに株価が転ぶかは分かりませんし、株価は常に動いているので、あまり気にし過ぎても仕方ありません。 初値売りと決めて売却するか、相場の流れを見て売却するかは、ご自身で判断してください。 初値売りのやり方は?売り注文は何時から? 上場日の 初値がつく前に「成行」で「売り注文」を出します。 初値がついたと同時に売り注文が成立し、当選IPOが売却されます。 売り注文を出せるタイミングは、証券会社により異なります。

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春水堂(チュンスイタン)|タピオカミルクティー発祥の店 台湾カフェ

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概要 [ ] 正式名称は 試製秋水。 海軍のは J8M、陸軍のは キ200である。 「十九試局地戦闘機」と称されることもあるが、(昭和18年)の兵器名称付与標準の改訂に伴い、(昭和19年)には年式を冠称した機体開発は行われなくなっていた。 計画初期には「Me163」の名で呼ばれていた。 秋水の名称は、海軍少尉の『秋水(利剣)三尺露を払う』という短歌に由来する。 1944年12月、飛行試験成功後の搭乗員・開発者交えた宴会で百里派遣隊から短歌が提出され、満場一致で「Me163」から変更された。 この名称は陸軍、海軍の戦闘機の命名規則には沿っていない(を参照)。 歴史 [ ] 開発まで [ ] 中、との技術交流は、によってルートが閉ざされ、英米との開戦により水上船舶ルートも困難になってしまった。 両国の人的交流、物的交流は、を経由した潜水艦輸送に限定されるようになった()。 日本から技術供与できるものは少なく、アジア各地の天然資源である生ゴム、、などの戦略物資を輸送する見返りとして、ドイツは、、などの新兵器の技術情報を日本に供与した。 4月、日本海軍のは ロケット戦闘機 と ジェット戦闘機の資料を積んでドイツ占領下フランスのを出発し、7月14日にに到着したものの、出港後バシー海峡での「」に撃沈されてしまった。 しかし、伊29潜に便乗した海軍がシンガポールからに乗り換え、空路で日本へ向かっていたために「噴射機関」資料の完全な損失は避けられた。 だが、もたらされた資料は本機のコピー元であるMe163Bの機体外形3面図と、ロケット燃料の成分表と取扱説明書、燃料噴射弁の試験速報、中佐直筆の実況見分調書のみであった。 そのため、設計そのものを完全にコピーすることはできなかった。 大戦末期、高度1万メートル以上を飛来するののに、高々度用のを装備していない従来の日本軍戦闘機では高度を維持することすら困難で、邀撃しても1撃から2撃を行うのが限度であった。 レシプロ戦闘機と異なり、戦闘機は酸化剤と燃料を全て内部に搭載し、酸素を外気に求めなかった。 したがって高高度の希薄な大気に影響されない特性を持つ。 そこで、邀撃機としてB-29の飛行高度まで加速度的に達し、1撃から2撃をかけるだけならば、数分の飛行時間しかないロケット戦闘機でも「局地的な防衛には十分に有効」との判断が下され、陸軍、海軍、民間の三者の共同によって開発が急がれた。 手に入ったMe163Bの設計資料が不十分であるため、日本の技術で補完する必要があった。 同機の機首部に見られる発電用プロペラは搭載せず、無線装置とその蓄電池搭載のために機首部は延長されており、内部の桁構造やなども日本独自の設計となる。 主翼も木製になり左右が10 cm程度ずつ延長されている。 機体の特徴である無尾翼はすでにで研究員が同様の機体の設計を手がけており、またロケットエンジンの研究は1940年(昭和15年)よりで開始されていた。 この陸軍のロケット研究は後に三菱重工によって、乙の液体ロケットエンジン「特呂一号」に発展している。 さらに巌谷資料が届く以前より三菱重工長崎兵器製作所においてはに次ぐ魚雷の駆動力として向けに高濃度との化学反応による駆動の研究が完成段階にあり、同じ化学反応を利用したロケットエンジンの研究も進められていた。 開発 [ ] 秋水に搭載された特呂二号。 外見は等に搭載されるに酷似している。 後ろには切り離し式の車輪も見える。 秋水が開発されるにあたり、セクショナリズムの弊害が目立っていた日本軍で陸海軍共同の製作体制を構えたことは、遅きに失したとはいえ画期的な事であった。 官民合同研究会席上、機体の製作を海軍主導で、国産の開発を陸軍が主導で行うこととなった。 これは陸軍で「」、海軍で「KR-10」と呼称された。 しかしここに来て三菱はの開発経験がなく、前記の通り外見図も簡単な3面図のみだったため翼形を決定できなかった。 そのため三菱は依頼当初「開発は不可能である」と返答した。 しかしが翼形の割り出しや基本的な空力データの算出を急きょ行った。 苦肉の策ではあったが量産工場と研究機関が連携を取れた数少ない例である。 機体の設計は基本となるデータが入手できたため経験で開発を進められた。 しかしという未知のエンジンの開発にで培った技術はほとんど役に立たなかった。 当初の予定では、エンジンは機体の完成と同時期に 2基が完成しているはずであったが、12月初めの機体完成の時点で試作機の製図作業が済んでいたにもかかわらず、飛行の可能な完成機については具体的な目処すら立ってはいなかった。 さらに同年12月には東海地区をが襲い、アメリカ軍のB-29による爆撃も開始された。 地震によりエンジン開発を行っていたが壊滅し、研究員は資料をもって追浜の空技廠に移動して作業を続けることとなった。 秋水に搭載されるエンジン「特呂二号」は、Me163Bに搭載されていた「A型」のコピーとなるはずであったが、機体と同じようにエンジンの資料も簡単なものだった。 そのため手持ちの資料を参考に自主開発するほかなかった。 日本軍では前者を「甲液」、後者を「乙液」と呼んだ(ドイツではT液とC液)。 また安定剤兼反応促進剤として甲液にはとを、乙液にが加えられた。 これらの燃料は取扱の難しい危険な劇薬で、特に甲液の高濃度過酸化水素は無色透明の上、異物混入時の爆発の危険性と有機物に対する強い腐食性があり、秋水の整備は長袖、長ズボンで行わなければならなかった。 かなり簡単に言えば、甲液の供給する酸素により燃料である乙液を燃焼させるシステムであるが、このロケットの構造はとても複雑で、甲乙の液を単に反応させれば良いというものではなく、酸化剤(甲)と燃料(乙)の配合をはじめ、デリケートなセッティングが必要だった。 基本的な構造を理解していても燃料噴出弁の調整をミリ単位でも間違えば出力が上がらなかった。 なお、乙液の配合については、の女性化学者・博士の「水が足りない」というアドバイスを参考にしており、大戦中の日本の航空機開発に女性が参加した希有な事例となっている。 試験飛行 [ ] 終戦後米軍により撮影された秋水 全木製の軽滑空機MXY8「」が12月26日に、海軍三一二航空隊の犬塚豊彦大尉(七十期)によって滑空飛行テストを行った。 当初は着陸に成功するだけで「万歳」の声があがる有様だったが 、としてのテストは順調に回を重ね、操舵感覚は良好で機体設計そのものに問題なしとの評価を受けた。 実験後の宴会では、国民の士気を高めるために重滑空機の塗装をオレンジではなく真紅にすることが提案され、実現した。 1月8日にはエンジンと武装が外された状態の実機と同じ状態の「秋水重滑空機」が、やはり犬塚大尉の手によって試飛行を行った。 312空司令大佐が「お光教」というに傾倒していたことが開発に悪影響を与えたと言われる。 の空技廠会議で柴田は「神のお告げにより秋水の初飛行を4月22日に横須賀地区で行う」と発言し、三菱の技術者らを茫然とさせる。 その後も神のお告げと称し、秋水試験飛行を厚木基地から追浜基地に変更させた際は、技術者達から狭いので危険と指摘があったが、「狭いのなら機体を軽くせよ」と命じ、1. 5トンの機体が500キロにまで減らされた。 また、突然燃料を少量にしエンジンの持続時間を2分でいいと一方的に決め、エンジン完成を待ち7分持続できるまで待つべきとする技術者達の意見は黙殺された。 設計資料を入手してから約1年の(昭和20年)、追浜飛行場で試製秋水(三菱第201号機)は試飛行を迎えた。 陸海軍共同開発機とはいえ「メーカーとのロケットエンジン共同平行開発」「実験・実施部隊創設」を進めていた海軍が陸軍に先んじ試飛行をおこなうこととなった。 当初は4月12日に強度試験機「零号機」による試飛行も検討されたがロケットエンジンが間に合わず、幾多の試行錯誤を経て3分間の全力運転が達成された後の試飛行となった。 は犬塚大尉が務めた。 神奈川県足柄山中の「空技廠山北実験場」から横須賀市追浜の夏島に掘られた横穴式格納庫内に運ばれたKR-10()は、実施部隊である三一二空整備分隊長廣瀬行二大尉(五十二期)と、特呂二号に関しての特別講義を受けた上等下士官たちによって秋水に組み込み整備された。 試飛行当日、全面オレンジ色の試作機カラーで垂直尾翼に白い縁取りの日の丸を描いた秋水は飛行場に引き出された。 ここで、整備分隊士によって車輪投下実験が入念に行われ確実に作動することが確認された。 午後1時には上級将校も列席。 だが午後2時に予定された発進は エンジンがかからず再整備のために遅れた。 翌日延期も検討されたが、犬塚大尉の決心は固く、試運転は続行された。 午後4時55分、滑走を開始。 翼を持ったまま10メートルほど秋水と一緒に走って廣瀬大尉は手を離した。 滑走距離220メートルで離陸、成功を確認した三一二空山下政雄飛行長が合図の白旗をあげた。 高度10メートルで車輪投下、しかし連動しているはずの尾輪が上がらず(収納されたという証言もある )、機体は角度45度で急上昇に移った。 試飛行成功かと思われた瞬間、高度350mほどのところで突然尾部から噴出する炎が黒煙となった。 異音とともにエンジンが停止。 エンジン停止後余力で150mほど上昇した。 廣瀬大尉の指示により東京湾にはあたりまで救助艇が用意されていたものの、不時着水せずに右旋回、滑走路への帰投コースをとり始めた。 エンジンの再起動が二度試みられるも果たせず、甲液の非常投棄が始まった。 しかし投棄はなかなか進まず、第三旋回時点の高度は充分に高かったが、その後の沈下速度がはやく高度を失った。 残留甲液による爆発を懸念したのか、犬塚大尉は沢山の見学者が見守る滑走路を避け脇の埋め立て地への不時着を目指した。 それが第四旋回の遅れとなり失速気味となりながら滑走路手前の施設部の建物を越そうと機首上げ、右翼端が監視塔に接触。 そのまま追浜飛行場に隣接していた鷹取川で反跳し、飛行場西端に不時着大破した。 残留甲液によるもうもうたる白煙が発生したが、消防車による放水と同時に整備分隊士たちが犬塚大尉を操縦席から救出した。 意識のあった大尉はすぐさま鉈切山のへ運ばれたが、頭蓋底骨折のため翌日未明に殉職した。 事故の原因は燃料タンクの構造上の問題であった。 秋水は発進後仰角を大きく取って急上昇するが、燃料の取り出し口はタンクの前方に取り付けてあった。 またエンジン不調のため長時間試運転が続けられ、燃料が不足していた可能性も搭乗員達の間で指摘されていた。 ただちに試作二号機の製作が始められたが、肝心のエンジンが試験中に爆発して失われてしまったために頓挫した。 その後生産2号機(三菱第302号機)がキ200としての飛行第70戦隊へ運搬され、少佐はロケットエンジンを使う前にまず重滑空機で飛行特性をつかむ試験を行っていた。 ロケットエンジンを搭載すれば飛行可能となる状態が維持されたまま開発は続けられたが、エンジンは完成せず、最後まで動力飛行を行うことは無かった。 運用計画 [ ] 飛行試験中の秋水 秋水は試作機製造と平行して量産型の図面化も進行していた。 しかし、量産計画では安来工場などもあわせ日立製作所中心の5工場で製造、東京周辺の飛行場に1945年3月に155機、1945年9月に1,300機、3月までに3,600機を実戦配備するという、当時の日本の工業力と戦況では到底不可能な話だった。 仮に量産化が行われ実戦配備されても、モデルとなったMe163Bがそうであったように、航続距離が短いロケット機では自機が発進した飛行場上空しか防衛できないため、事前に敵に配備基地を迂回されてしまう他、噴射終了後は滑空機でしかないため、護衛戦闘機によって容易に撃墜されることが予想された。 このように、航続距離の短さから、迎撃は敵機が行動範囲内に進入した後の待ち伏せ的な戦術が主流となるが、この方法はなどの索敵施設との連携が不可欠であり、当時の日本の技術力ではとても望めるものではなかった。 また、離陸のための滑走路は全舗装で長いものでなければならず、着陸には橇を使うので、広く、平坦な草地も必要だった。 さらに燃料である甲液と乙液は一回の飛行で2トン近く消費する上、生産設備は徹底的な爆撃により破壊され、精製に必要とする膨大な電力、白金も不足していたため、必要量を満たすだけの生産量を確保できなくなっていた(Me163Bを運用したドイツ空軍の部隊が出動不能になったのもこれが要因の一つであった)。 仮に新規に工場を作ったとしても空襲により早晩破壊されるのは明白だった。 開発陣の中には「秋水は昭和21年になっても実験段階どまりだったろう」と評するものもいたという。 秋水は最初から特攻兵器()として開発されたものではない。 しかし、312空では秋水の速度が速すぎるため、機銃の照準が困難と分かり、柴田武雄司令のもと飛行長の提案でB-29編隊中で爆弾自爆する特攻戦法が採用された。 多数の士官らの会議において秋水の機首に3号爆弾2発を搭載することでまとまっていたが、数日後の会議で山下飛行長から「秋水の機首に600キロ爆弾を搭載して敵編隊の中でボタンを押して自爆する戦法をとる」と特攻の決定が申し渡された。 1945年6月に土浦航空隊で14期甲飛を中心に800名の秋水要員(秋田分遣隊)編成。 15日少佐が秋水による特攻要員訓練であることを明かす。 312空、362空、322空が秋水の特攻部隊として予定されていた。 林安仁陸軍中尉は「上昇時と下降時に一撃づつかけるだけですが、空戦をやってみたかった」と述べている。 陸軍少佐は「こんな(空戦時間が)4分じゃつまらない」、「秋水だけは怖かった」、「飛行を開始したら特兵隊のパイロットが次々死んでいく予感があった」と述べている。 有滝孝之助陸軍大尉は「伝習教育が終わったらでやりましょう」と話していたという。 関連部隊 [ ] 装備予定の部隊• 飛行第七〇戦隊 - 秋水の実験部隊も兼ねた陸軍の部隊。 - 秋水の実験部隊も兼ねた海軍の部隊。 秋水の実戦配備に向けて編成されたのが第三一二海軍航空隊である。 正式な開隊は昭和20年2月5日付。 柴田武雄大佐を初代司令とし、本隊を横須賀空、訓練基地を霞ヶ浦空に置いた。 だが要員の育成は正式開隊半年前の昭和19年8月10日より始まっていた。 から16人を選抜し「Me163」に習熟するよう命令する。 9月、元山からと横須賀に移動し、空技廠と協力して各種実験に参加する。 10月1日、搭乗員16名、整備員25名、九三式中練で「横須賀海軍航空隊百里原派遣隊」を編成し、を原隊として横須賀で訓練を開始した。 11月には滑空機(ソアラー。 光62型)、零戦、天山艦上攻撃機が増配備されるが 、秋水の製作は遅れた。 11月中旬、特攻機「」の実験飛行と訓練により、秋水の訓練は一時中断された。 柴田武雄司令が新興宗教にはまっており秋水の実験においても御神託で内容を決定するなど技術者の意見より優先された。 犬塚の事故も御神託による狭い飛行場の選定、少ない燃料量、飛行時間などの決定が主な原因とされる。 初飛行の失敗に加え、2号機の製造にも失敗したため、三一二空は一度も秋水を運用することなく終戦を迎えた。 補充要員が数名訓練中に事故死したが、結成当初の16名は全員生存していた。 12月下旬、秋水の軽滑空機が搬入されてテストが行われ、1月には重滑空機による訓練も行われたが、実際の機体搬入は1945年3月、エンジン搬入は6月にずれ込んだ。 茨城県の百里基地の周辺には秋水用の燃料タンクの跡など秋水に関する色々な施設の後が今も残っている。 第三二二海軍航空部隊 - 大村空、諫早空• 第三六二海軍航空部隊 - 三岡崎空、名古屋空 搭乗員の訓練部隊• 土浦海軍航空隊 秋田分遣隊 - 14期甲飛を中心とする800名の秋水隊員が特攻の訓練を行った。 三重海軍航空隊 野辺山派遣隊 - 秋水、桜花による特攻の訓練を行っていた。 滋賀海軍航空隊 生産機と現存機 [ ] 同展示のロケットエンジン・ 生産された7機のうち、4機をが、3機をが製造した。 試験飛行に供された三菱第201号機は上記の通り大破、三菱第302号機は終戦直後に焼却処分された。 日本軍機の技術調査をすべく生産機のうち3機がアメリカ軍によって接収された。 日飛第81号機は「A24」の番号をつけられ、「」によって本国に輸送、の ()に送られたが、調査の後スクラップにされている。 三菱第403号機は「A25」の番号をつけられ、調査を受けた。 その後廃棄処分にされる直前のところをの創設者、エドワード・T・マロニーによって買い取られ、秋草等の部品を流用して修復を受け、現在はの同館にて展示されている。 ほぼ完全な状態で現存しているのはこの1機のみである。 三菱第504号機は「A26」の番号をつけられ、上記2機と共に送られたと思われるが、アメリカ本国に到着した形跡はなく、行方不明である。 一説には輸送途中で「バーンズ」が嵐に遭ったため、他の鹵獲機と共に海中投棄したとも言われる。 (昭和36年)6月、の日本飛行機杉田工場の拡張工事の際、地中より胴体の一部が発掘された。 (昭和38年)2月よりにて保管されていたが、(平成9年)11月に三菱重工業へと譲渡され、残された1,611枚の設計図に基づき、(平成13年)12月に機体が復元された。 のに展示されたのち 、同館の閉鎖に伴い、2020年2月よりの三菱重工大江工場内にある「大江時計台航空史料室」に展示されている。 各型 [ ] J8M2 海軍の計画。 発進用車輪を廃してカタパルト発進式とし、搭載武装を30ミリ機銃1挺に減じ、燃料搭載量を増加させた型。 計画のみ。 キ202 秋水改 陸軍の計画。 機体を空力的に洗練し、エンジンを強化型の「特呂三号」(推力:2,000 kg)に変更、さらに巡航用ロケットを追加して航続時間の増加を試みた。 計画のみ。 MXY8 (陸軍名称:ク13) 部隊訓練用の全木製羽布張り軽滑空機(グライダー)。 秋水と同一の外見をしていたが重量は1トン強にとどまった。 秋水の完成に先立って少数が製作され、訓練に用いられた。 秋水重滑空機 秋水からエンジンと武装を取り外した訓練用グライダー。 MXY9 秋草にモータージェットを搭載した練習機。 計画のみ。 秋水の設計をもとにした無線操縦型。 炸薬は積まず体当たり攻撃を行ったのちは着陸・再使用される。 が製造する予定だった。 計画のみ。 以下は連合国などで後世に伝えられる本機の関連計画機だが、日本軍側の記録にはそのような機体の開発計画は存在しない。 神龍、神龍二型 連合国軍によって本機の改良発展タイプと伝えられる。 機体外観はデルタ翼を有し、空対空ミサイルと機銃で武装する計画だとされるが、実際に日本軍が計画していた二型に機関砲搭載予定は無かった、同じ時期ののジェット機化計画で考案されていた私案の図案を勘違いしたとの解釈がある。 この他に、正確にはこの神龍二型の話は出所不明であるが、「1943年時点で最も新型機で先進的な機体形状とされたにジェット機化が検討されており、それがどういうふうに解釈されたのか、本機と神龍の計画と混同・誤解されて一人歩きした」との説を掲示した書籍もある。 諸元 [ ] 制式名称 秋水 機体略号 海軍:J8M 陸軍:キ200 全幅 9. 5m 全長 5. 95m 全高 2. 17-p. 19 著者の少年時代の体験談として、で海軍の「マル呂」 秋水 の研究室に配属されたが、主任の青年将校は「俺は人間の焼肉をつくるのはご免だ」と言って燃料の開発を故意にサボタージュしていた、などの裏話を明かしている。 小説 [ ] 『日本本土決戦』() 秋水が数十機量産されて実戦配備され、B29を多数撃墜する活躍を見せている。 『』 第一話 ロケット戦闘機「秋水」() 『横須賀海軍航空隊始末記』() 漫画・アニメ [ ] 『飛べよ! 秋水』() 1972年12月10日号収録。 『戦空の魂』() 増槽ロケットを付けて2度目の試験飛行を行い宇宙へ到達するが、重力に引かれて自然落下により燃え尽きる。 ゲーム [ ] 『』 日本ツリーランク5のプレイアブル機体として登場。 名称は「Ki-200」。 『』 日本ツリー課金機体としてJ8Mが登場。 『』 の援護機として登場。 ただし実際のものと形状が違う。 名前だけを拝借したものと言っても良い。 実機として使用可能。 『』 基地航空隊の局地戦闘機として「試製秋水」、「秋水」が登場。 脚注 [ ] []• Francillon, 1979, p. 407• 角田『サムライ戦記』262-263頁• 角田『サムライ戦記』261頁• 角田『サムライ戦記』263頁• 角田『サムライ戦記』264頁• 丸『海軍戦闘機列伝』光人社302頁• 角田『サムライ戦記』290頁• 角田『サムライ戦記』291頁• 角田『サムライ戦記』292頁• 渡辺洋二『未知の剣』文春文庫433-436頁• 高田幸雄『神風になりそこなった男達 ロケットファイター秋水隊』国書刊行会p190• 渡辺洋二『未知の剣』文春文庫439頁• 角田『サムライ戦記』270頁• 角田『サムライ戦記』238-239頁• 角田『サムライ戦記』240-249頁「海軍初のモルモット」• 角田『サムライ戦記』253頁• 角田『サムライ戦記』255頁• 角田『サムライ戦記』259頁• 角田『サムライ戦記』300頁• 中村勝実『野辺山海軍航空隊 予科練の特攻隊基地』162-163頁• 、『日本陸海軍の特殊攻撃機と飛行爆弾』、2011年、230頁。 藤平右近 海軍技術少佐『機密兵器の全貌 わが軍事科学技術の真相と反省(II ロケットエンジンと局地戦闘機「秋水」の試作より進発』(興発社、1952年)• 松本豊次『最後の局戦「秋水」は大空に在りや 日本初のロケット戦闘機に青春を賭した熱き日々』• 渡辺洋二『異端の空 太平洋戦争日本軍用機秘録』(、2000年)• 碇義朗『鷹が征く 大空の死闘 源田実VS柴田武雄』(、2000年)258-264頁• 野原茂『海軍局地戦闘機 本土上空を死守せよ!』第六章 三菱 試作局地戦闘機『秋水』より。 (光人社、2004年) C0095• 松岡久光『日本初のロケット戦闘機 液体ロケットエンジン機の誕生』(三樹書房、2004年)• 牧野育雄『最終決戦兵器「秋水」設計者の回想 未発表資料により解明する究極のメカニズム』(光人社、2006年)• 柴田一哉『有人ロケット戦闘機 秋水 海軍第312航空隊秋水隊写真史』(大日本絵画、2005年) 海軍第312航空隊隊員たちの証言と写真を合わせたフォトストーリー。 伊沢保穂、柴田一哉『鍾馗戦闘機隊 帝都防衛の切り札・陸軍飛行第70戦隊写真史』(大日本絵画、2008) 二式単座戦闘機を装備した陸軍飛行第70戦隊の記録、及びロケット戦闘機実験部隊・特兵隊の記録。 日本初ロケット戦闘機 大人から子供までわかる戦争秘話 金沢美千代 監修・岡田道一 発行・金沢美千代 発売・東京文献センター• 日本陸海軍戦闘機1930-1945 九一式戦、九〇式艦戦から火龍、秋水まで 野原 茂 関連項目 [ ]• の編名(秋水篇)• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 秋水配備予定部隊関係者による回顧録.

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