さらば愛しき人よ。 JIN-仁-2 第3話 さらば愛しき人

さらば愛しき女よ

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サクラ大戦は僕の大好きなシリーズですがレビューではなるべく冷静になって評価しないといけませんねぇ^O^。 このシリーズは主人公は平和を守るため戦いにはげみつつ、かと思いきや好みの女の子と恋愛もできちゃうとても贅沢なゲームです。 1作目が発売された当初はジャンルの位置づけにゲーム雑誌が困ってましたよねぇ、アドベンチャー+シュミレーションみたいな・・。 それくらい新しいゲームで大ヒットしたので、似たようなゲームはたくさんリリースされましたが、正直まだどれも足元にも及んでないじゃないですかねぇ。 相変わらず前置きが長いですけど、この「サクラ大戦5」文字通りシリーズ5作目です。 素晴らしい所はいろいろあるのですが、やっぱり1番はキャラクターだと思います。 このサクラ5でもキャラクターが総入れ替えとなっております。 キャラが肝であるゲームで全て一新するというのは大英断だと思いますが、今回もみんなしっかり輝いてます^^。 ただかわいいキャラだけでなくサクラにはこんなのアリですか〜?といいたくなるような風貌や、 性格はみんなクセのある者ばかりです。 でもプレイしていくと不思議と愛情が沸いてきちゃうんよねぇ〜。 なんか街の住人とかも含めてみんな好きになっちゃうよぉ、って感じです。 システム的にはこれと言って目新しいものは無いのですが、一段と美しくなったグラフィックや相変わらず聴かせてくれる音楽、キャラの表情や感心する選択肢の豊富さなど全てが進化して超一流のエンターテイメントがそこにはありました。 まぁ、しかしあえてマイナス面をいうと(レビューなんで)今回はちょいとストーリーの盛り上がりに欠ける、というか敵の存在感が薄いですねぇ。 あと戦闘が簡単すぎません?これ。 僕がそう思うんだからよっぽど簡単なんだと思います^^。 とはいえ素晴らしい作品には違いないので、今さら単なるギャルゲーと思ってる人はいないと思いますが、女性にもおすすめできるゲームなのでプレイしてほしいと思います。 でもあんま売れなかったねぇ〜。 6はあるのか〜?ドリームキャストで出して下さいよ〜^0^。

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サクラ大戦V 〜さらば愛しき人よ〜 レビュー・評価・感想 (PS2)

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映画のストーリー 結末の記載を含むものもあります。 北イタリア、マントバ地方。 ジョバンニ(オリヴァー・トビアス)はボローニャでの勉学を終え、十年振りに故郷に帰ってきた。 父(リック・バッタリア)を始めとする家族たちとの再会、そして妹アナベラ(シャーロット・ランプリング)を見たとき、衝撃がジョバンニを襲った。 アナベラの美しさは完璧だった。 十年の歳月が、小さかった妹を理想の女性に変えてしまった。 実の妹を愛することは破戒であり、アナベラにとっても破滅だ。 兄と妹という因襲的な形式が、彼女の肉体の美しさからしりぞけられる理由になるか、ジョバンニは自らの肉体に苦行を科し、傷つけ、痛めつけて心の苦しみから逃れようとした。 アナベラには次々と縁談が舞い込んだが、ジョバンニに比べたら見劣がしてその気にならなかった。 二人の燃えたぎる恋情が爆発したが、またたくうちに罪の意識と愛の歓喜との相克の月日が飛び去った。 やがて幸福の破れる日がきた。 彼女が懐妊したのだ。 しかも親の選んだ理想の求婚者、貴族のソランゾ(ファビオ・テスティ)を拒みきれなくなっていた。 彼女は身ごもったままソランゾの許に嫁ぐことになったが、寝室を共にすることを頑強に拒む。 それも束の間でたちまち妊娠を知られてしまった。 実兄ジョバンニが不義密通男であることを知ったソランゾはアナベラの一族を招待して復讐の宴を計画した。 そのことを直感的に悟ったジョバンニは愛を誓った剣でアナベラの心臓を突き通した。 お互いの一族の一方が死に絶えるまで徹底的に戦うことを作法通り宣告し、宴席は修羅場と化した。 それは人間の業が残忍きわまりない儀式を厳粛に行っている異様な光景とも映った。

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今から10年ほど前に『サクラ大戦V』を初めて遊んだとき、ざわざわする感覚が残ったことを覚えている。 キャラクターたちを素直に解釈しきれない何かがあったからだ。 あの時点ではその感覚がどういうことなのかを言葉にはできなかった。 まさに『サクラ大戦』は解釈しやすいキャラクターを周到に作ることで人気を博していたシリーズだった。 ところが『サクラ大戦V』は違った。 当時ファンがシリーズに期待していたキャラクターの類型からことごとく外れていたからだ。 ざわざわとさせられたのはそれだ。 でもリリースから10年以上たった今なら、それを言葉にできるだろう。 シリーズのコンセプトと異端の最終作『サクラ大戦V』 『サクラ大戦』の何がわかりやすかったのか? それは日本の男性や女性キャラクターがそのまま性別ごとの役割を基本にしていることに尽きる。 古典的な日本の男性と女性の立場や役割を見せるゲームプレイ 『サクラ大戦』のメインキャラクター、真宮寺さくらと大神一郎は大和撫子や日本男児という男女ごとの役割を強く押し出している。 ゲームプレイの中で古典的な男性の役割をまっとうしつつ、大和撫子から財閥のお嬢様といったイメージを軸とした、女性キャラクターたちと関係を結ぶ。 フランスを舞台にした『サクラ大戦3 ~巴里は燃えているか~』でもそうだ。 シスターや金髪の貴族といったイメージそのままの立場の女性キャラクターたちだ。 古典的な日本の男性と女性の立場や役割を見せるゲームプレイだからこそ、『サクラ大戦』のキャラクターの解釈のしやすさがあった。 大神一郎が帝都を守る活動と並行してヒロインの両親にあいさつに行ったり、結婚を前提とするシナリオの流れは、ギャルゲーの中でも男性と女性の社会的な立場や役割をまっとうさせるプロセスを暗に踏ませていた。 ところが『サクラ大戦V』では大和撫子やフランス貴族のような役割や立場のわかりやすい女性ステレオタイプのキャラクターがいない。 性別ごとのイメージや役割の曖昧なキャラクターを目にするとどうなるのか? どう解釈すればいいかわからなくなるのだ。 当時を思い出すと、筆者のざわざわとした感触はほかのファンも感じていたようで、賛否が分かれていた。 アメリカ女性の典型的な役割を担うのは健康的な金髪白人女性・プラム。 ところが『サクラ大戦V』ではサブキャラという立場だ。 典型的なアメリカの女性イメージを反映するキャラクターがメインにはいないこと 『サクラ大戦V』は異端な立場にある。 キャラクターの解釈がこれまでのシリーズの慣習と違ったものでありながら、シリーズで唯一、英語にローカライズされた作品でもある。 北米では『Sakura Wars: So Long, My Love』のタイトルにて2010年にPS2とWiiにてリリース。 している。 「何年も、何度も繰り返し簡単に遊ぶことができるものだ。 おそらくはほかのゲームから得られない経験」と判定している。 そんな経緯を持つ『サクラ大戦V』だが、これまでのシリーズから考えて異色なのは典型的なアメリカの女性イメージを反映するキャラクターがメインにはいないことだった。 シリーズを考えれば、メインキャラクターに健康的な白人のブロンドや金髪の女性を登場させてもおかしくないはずだった。 ところが実際には金髪の白人女性は車椅子の病弱な女性ダイアナであったり、もしくはサブキャラクターの位置に収まっている。 あからさまにマリリン・モンローを模したプラムはメイドやウェイトレスの役割でメインの花組をサポートする立場だ。 それは黒人女性のサジータがメインキャラクターであり、弁護士という役割を与えられているのと比較すると意味深く感じるだろう。 大河新次郎を一瞬ショートカットのヒロインのひとりだと勘違いしていた さらに新主人公の大河新次郎もそうだ。 男性的な役割や立場が固まっていない。 シリーズの主人公である大神一郎が軍人ゆえの日本男児的な役割が固まっているゲームプレイと対照的である。 若い主人公にしたというだけではなく、日本の伝統的な男性像や軍人という背景があまり意味を持たなくなっている。 キャラクターデザインにしても男性像がはっきりとしていない。 筆者にしても発表当時、藤島康介氏によるメインキャラクターが集合したイラストレーションので描かれた大河新次郎を一瞬ショートカットのヒロインのひとりだと勘違いしていた。 本編では本当に女装までしているのである。 そうした男性と女性の役割や立場があいまいさをもっとも表したキャラクターが九条昴である。 男性か女性かわからないキャラクターとして描かれており、さらに昴を中心にしたゲームプレイの中でも最後まで性別はわからない。 本人はそのことを自分で認めている。 周りの仲間たちも男性か女性かが気になってはいるけれど、でも本人はそれをかわしていく掴みどころのない性格をしている。 昴が中心となる第5話「憂鬱なる天才」。 昴とともに主人公の大河(左)も女装して劇の舞台に立ったりするなど、「サクラ大戦」シリーズのなかでおそらく唯一性別ごとの立場、役割がないエピソード。 性別による立場や役割が決まっていない価値を体験する 昴をメインにしたエピソードは「サクラ大戦」史上、おそらく性別的な役割が取り払われた唯一のエピソードだ。 昴は普段は男性の服装をしているけれど、演劇を行うとき、パーティーに出かけるときは女性の服装にもなる。 しかもそれを主人公の大河新次郎も行うのだ。 そこには従来のシリーズにあったような、男女の性別ごとの役割や立場をまっとうするのとは異なっている。 これまでのシリーズではメインの女性キャラクターたちは日本の清楚な大和撫子やフランスの高貴な貴族の娘やシスターといったステレオタイプを演じていた。 しかし、本作はそういった意味でのアメリカ人女性を演じない。 さらにはプレイヤーはまだ自分を確立しきれていない男性キャラクターという構図によって、性別による立場や役割が決まっていない価値を体験する。 筆者は初めて遊んだ当時、ざわざわとしていたのはそこだった。 振り返れば日本国内で生み出された黒人女性キャラの中でも、かなり考えて描かれたキャラのサジータ。 実際、本編の開始からざわざわとする感覚は始まっている。 まったく立場を確立しきれていない大河が紐育に初めて降り立ち、紐育歌劇団に合流する。 だが素直に受け入れられるわけではない。 黒人で弁護士業を行うオールバックのヘアスタイルのサジータと、男性か女性かが曖昧である昴は大河に突き放した態度を取る。 初代の『サクラ大戦』が女性ばかりの歌劇団に唯一男性が隊長として入るも、性別的な立場があるから当初は距離があるのに似た展開だ。 だけどキャラクターの前提がこうまで変わることで違う印象を残す。 大河を突き放すサジータと昴は、まったくの他人としての距離感そのままだ。 そこには初代みたいにいずれ恋人や伴侶になる前提の溜めとして突き話されるのとは違う。 最初から理解しあえる前提がない他人として、徐々にお互いの差を認めていく形だ。 人種や性別ごとの役割やイメージを上塗りすることがなく、むしろそうした先入観に抵抗している そして、性別や人種をステレオタイプとして描いていない部分がある。 サジータを褐色のメイドあるいはウェイトレスとして描き、昴を今で言う男の娘のように描く可能性もあっただろう。 中心のキャラにリリアン・ギッシュからグレタ・ガルボ、マリリン・モンローのようなわかりやすい白人美人の類型にした可能性もあっただろう。 そして、なぜ白人女性であるダイアナはわかりやすいセクシーなキャラとして描かれなかったのか。 その方が当時は解釈しやすいものとして、受け入れられただろう。 いずれも人種や性別ごとの役割やイメージを上塗りすることがなく、むしろそうした先入観に抵抗している。 『サクラ大戦V』のキャラクターたちは安易にプレイヤーたちの恋人候補として扱われない。 どうあっても踏み込むことのできない他人としての距離がどこかにある。 筆者が初めて遊んだときにざわざわとした感触はそれで、当時それがどういうことなのかを言葉にできなかった。 しかしざわざわとした感触を再び思い出すことになる。 それは現代のビジュアルノベルだった。 それも、日本ではなく英語圏で作られたものだ。 英語圏ビジュアルノベルで起きていること 『Analogue: A Hate Story』(2012年)のトレーラー 『サクラ大戦V』を思い出したのはクリスティーン・ラブ氏のに触れたときだ。 その内容にざわざわとする何かを感じた。 一見すると日本的なキャラクタービルドによるSFだ。 しかしその内容は韓国の李氏朝鮮王朝をベースとした、強固に性別の立場が決まった男尊女卑の社会に対する抵抗を描く挑戦的なものだった。 続く『Ladykiller in a Bind』では確信に変わる。 弊誌のにもあるように、性的倒錯や支配といったテーマで特定の性別の役割というのが外された世界を描く。 男性の見た目を持ちながら性別は女性の主人公をはじめ、性別があいまいなキャラクターが登場する。 『Butterfly Soup』(2017年) 性別による役割や立場がなくなった世界を描くことはクリスティーン・ラブ氏の作品だけではない。 昨年、英語圏のメディアで話題になったは基本的には女の子が野球をやるストーリーなのだが、異なるルーツを持つ他人同士がスポーツの中で平等になる物語が印象深い。 インドから中国、中東出身と多様なルーツのキャラクターがチームを組むのだ。 『Over The Hills And Far Away』(2015年) では19世紀の米英戦争の中で、あるイギリスの兵士がネイティブアメリカンの少女と出会う。 ここでも異なる他人に出会うことにフォーカスしている。 このように近年の英語圏のビジュアルノベルにて、異なる他人同士を認めていくような距離感を持つ作品が台頭している。 それはビジュアルノベル制作のゲームエンジンが広まり、さまざまな人種のルーツや性自認を持つクリエイターたちが制作するようになったことが関係している。 以上に挙げたような作品群は、いずれもキャラクターとの恋愛をテーマにしているというより、ルーツやセクシャリティが最初から一致していない他人としての距離をいかに詰めていくかに主眼がある。 異なる他人たちが音楽と演劇によって平等になる 10年前に遊んだときは、シリーズの特徴だったはずの単なる恋人や伴侶として描かれないキャラクターたちに違和感を持っていた。 でも時間が経つことでその印象は変わった。 英語圏のビジュアルノベルでも起きているように、性別的な役割や立場がかつてのように決まっていない現実も取り上げられる今、『サクラ大戦V』のゲームプレイで理解できることは何か? それはプレイヤーが華撃団のメンバーを恋人や伴侶として扱うよりも、ひとりひとりを個人として認め、理解していくゲームプレイだ。 『サクラ大戦V』はスラム出身の黒人であったり、性別が曖昧であったり、人格がばらばらであるという、人種や性別ごとの役割や立場が決まりきった社会からすれば弾かれかねない人間たちだ。 そんな彼女たちが音楽によって平等になり、そして都市を守るようになる。 その一連のゲームプレイは、歌劇や芸能をテーマにしたシリーズのなかでもっとも潜在的なパワーを孕んでいる。 そのパワーは、いま再びゲームプレイすることで理解できるだろう。 発売から13年たった現在、それが求められていることだから。

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