アイゼンハワー 大統領。 アイゼンハワーとマッカーサーは対立していたでしょうか、仲が...

アメリカ合衆国現代史(第7回 アイゼンハワー政権とダレス外交)

アイゼンハワー 大統領

刻が我々に追い着いたのだ。 操縦席でのけぞって、私は『神様、今こそ御許に』と言った。 オレンジ色の輝光は、数分間続いたように思えたが、おそらくそれは数秒間で消えてしまった。 爆発が機体の外部で起こり、おそらく背後のどこからか来たものだと考える時間は十分にあった」 U-2の操縦士フランシス・パワーズ Francis Gary Powers は、後に事件勃発の瞬間をこのように回顧している。 U-2は、パキスタンのペシャワールからノルウェーのボードーまで偵察飛行する予定であったが、1960年5月1日、ソ連領内に1,200マイル入ったウラル地方のスベルドロフスク近郊で、ソ連の地対空ミサイルによって撃墜されたというのが事件の概要である。 U-2計画の背景 U-2計画は、U-2高高度偵察機を利用してアメリカが行っていた偵察作戦である。 計画は1954年12月にアイゼンハワー大統領の認可を受けて着手され1956年7月に初飛行が成功した後、同年7月4日からソ連上空飛行を開始している。 最初のソ連上空飛行に対して、ソ連はアメリカに抗議を行ったが、国務省はそれを全面否定した。 アイゼンハワー政権では、前トルーマン政権が行ったような封じ込め政策から一転して、軍事的、政治的または経済的な面のみならず、人的、文化的交流をも含めたソ連の脅威への対抗を目指していた。 軍事的な面では、「大量報復戦略」を採用し、通常兵力の削減をもって国防費を抑制するという政策を推進していた。 しかし、1955年頃からアメリカの軍事的優位を危ぶむ世論が高まり、それはアメリカの爆撃機戦力の不足を唱えるボマー・ギャップ、同じくミサイル戦力の不足を唱えるミサイル・ギャップとして知られるようになった。 アイゼンハワー政権にとって、そうしたボンバー・ギャップやミサイル・ギャップが本当に存在するか確認するために偵察を行うことは、政策の妥当性をはかり、ソ連との軍備削減交渉を行うにおいて不可欠な試みだったのである。 特にU-2による偵察飛行はソ連の軍事能力に関してこれまでにない画期的な情報をもたらしていた。 U-2事件の流れ 事件勃発当初、ワシントンは事件の詳細を全く把握していなかった。 5月1日にグッドペイスター Andrew J. Goodpaster 准将が、アイゼンハワーに電話で「トルコのアダナにある基地から定期飛行に出ていた我々の偵察機の一機が、到着時刻を過ぎ、おそらく墜落した模様」と伝えた。 そのためスパイ活動の証拠は損なわれるだろう。 自爆装置も埋め込まれている」 U-2に関してアメリカ側からの公式発表は、5月2日に行なわれた。 インチェルリク空軍基地 トルコ中南部アダナ の広報担当将校が、「非武装のU-2型天候調査機がトルコのワン湖地域を定常飛行中、消息を絶った。 行方不明機の捜索は進行中である」と発表した。 もともとU-2機は1956年4月にその存在が公表された際、全米航空諮問委員会によって、ロッキード社が気象研究用に開発したものだと説明されていて、偵察飛行用という本来の目的は明かされていなかった。 先程も少し述べた通り、ソ連はかねてよりU-2による偵察を知っていたが、高高度を飛行するU-2を撃墜することができないという防空体制の不備を露呈させることを恐れ、ほとんど抗議することはなかった。 またフルシチョフ Nikita Sergeevic Khrushchev が訪米した際も、U-2に関して言及することはなかった。 本来ならば事件は単なる気象観測機の行方不明事件として処理され、歴史に何の足跡の残さないはずであった。 U-2事件の本格化 本当の意味でのU-2事件の引き金を引いたのは、フルシチョフが1960年5月5日、ソ連最高評議会で行った演説である。 フルシチョフは以下のように演説した。 ソ連政府の訓令に基づいて、私は、アメリカ合衆国がここ二、三週間にソ連に対して行った侵略をあなた方に報告しなければならない。 侵略行為とは何か。 アメリカ合衆国は、わが国境線を越えてソ連の領空に航空機を侵入させてきた。 もしソ連の航空機がニューヨーク、シカゴ、もしくはデトロイトの空に現れたとしたら、つまり、そうした都市の上級を飛行したら、いったいどういうことになるのか想像してみよ。 アメリカ合衆国はどのように反応するだろうか。 アメリカ合衆国の官僚たちは、アメリカが、外国の航空機が接近した場合すぐに飛び立ち、それぞれ定めてある爆撃目標に向かう臨戦体制の爆撃機を所有し、原水爆を保有していると繰り返し述べている。 そしてこれの意味するところは、戦争の開始である。 私はこうしたアメリカの官僚たちに問いたい。 もしあなたがたがアメリカに対する攻撃を想定しそのような一方的な措置を取った場合、そしてもし外国の航空機が我が国の上空に現れ、祖国の安全を脅かす場合に、我々が同じような措置でもって応じると考えることはできないのか。 つまり、そうした場合にあなた方がしたいと思うように振舞うように、我々もまた振舞う権利を欠いているわけではない。 我々が対応する手段を持っていることは誰も疑いようもないことだと思う。 我々が臨戦体制の爆撃機を所有していないが、航空機よりも正確に目標を攻撃できる臨戦体制のロケットを保有していることは本当のことである。 我々は以下の結論に達せざるを得ない。 アメリカ合衆国内の侵略的な帝国主義者が、首脳会談を破談にしようとし、何はともあれ、全世界が待望している協定が結ばれるのを阻止しようと積極的な画策を行っている。 問題が一つある。 領空侵犯をした航空機を差し向けてきたのは誰なのか。 その航空機はアメリカ合衆国最高司令官の裁可に基づいて差し向けられたのか。 誰もが知る通り、最高司令官とは大統領のことである。 それともこうした侵略行為は大統領も知らないままにペンタゴンの軍国主義者によって行われたのか。 もしそのような行為がアメリカの軍部自身の責任で行われたのであれば、世界の人々を驚かせるだろう。 ソ連政府は、あらゆる可能性を考えたうえで、そのような結論に至る根拠はないと考えた。 異なった状況、異なった勢力関係が現在存在する。 諸国民の平和への意志が国際関係で果たす役割は決して小さなものではない。 これこそが、このような侵略行為が戦争に先立って力関係を試すものであり、攻撃のための軍事偵察であるという結論に我々が達しない理由である。 我々の神経を逆撫でし、我々が『冷戦』に後戻りせざるをえなくしたのは、まさにこの軍事偵察である。 軍事偵察は、『冷戦』の氷を保持しようとし、凍てつかせようとしている。 そして帝国主義者が税金という名目で人びとから不法にお金をまきあげ、軍備競争を続け、国民を戦争の恐怖で縛り付け、隷属させるために緊張状態に今一度戻ろうとしている。 ソ連は侵略計画などまったく持っていない。 我々は『冷戦』を清算したい」 フルシチョフは、アメリカの航空機が侵入したことを、国際的緊張を無用に高めるものだと非難し、その責任をアイゼンハワーに問おうと巧みに誘導している。 しかし、一方で、この侵入を「攻撃のための軍事偵察」ではないと闡明し、過度の衝突を避けている様子が窺える。 この演説では、フルシチョフは、故意に操縦士が健康に生存し、航空機のパーツを回収することができたことについて何も言及しなかった。 実は、このことがアメリカの信頼を揺るがせる事態を引き起こすのである。 アメリカの弁明 5月5日に次のような声明が国防省から出された。 そのU-2機は、トルコのアダナから飛び立って気象観測を遂行中であった。 目的は晴天下の乱気流の研究であった。 トルコ南東部を飛行中、操縦士が酸素欠乏を報告してきた。 最後の言葉は、度々エマージェンシーに陥りながら、トルコ時間5月1日午前9時 訳注: 東部標準時5月1日午前3時 に届いた。 U-2機は、予定通りアダナに着陸せず、そのため墜落したと考えられる。 捜索がワン湖一帯で行われている。 行方不明になっているU-2は、NASAの航空機である。 操縦士は、NASAとの契約に従事していたロッキード社の従業員である。 U-2計画は1955年に高高度気象調査を行うために始められた。 この飛行はNASAと空軍省が共同で行った気象観測である」 この声明は、5月3日にNASAが発表した声明を次ぐもので、U-2が気象観測用だというカバー・ストーリーと共に、乗務員が民間人であることを強調している。 国務省は、フルシチョフの声明に対してソ連に覚書を送付した。 その覚書は、ソ連がアメリカの航空機を撃墜したことを照会し、「アメリカ市民の操縦士」フランシス・パワーズの安否を問い合わせるものであった。 直ちに声明を発表すべきであるとの意見が出された時、アイゼンハワーはその質問に疑問を抱いた。 NASAの発表で十分言い尽くされており、フルシチョフの次の手がわかるまで沈黙を守るべきであるというのがアイゼンハワーの考えであり、その一方でアイゼンハワーは、ディロン国務次官 Douglass Dillon に、カバー・ストーリーに合うような適当な声明を準備するように伝えた。 フルシチョフのさらなる追求 5月5日の演説に加えて、フルシチョフは5月7日にパワーズが生存していることを認める演説を行った。 我々はわざとそうしたのだ。 なぜなら我々がすぐにすべて話してしまうと、アメリカ人はまた別のお話をでっちあげたはずだからである。 今やアメリカ人は、操縦士が生きており、また別の何かをでっちあげなくてはならないと悟った。 その航空機は、アメリカのスポークスマンが言っているような「大気圏上層調査」または「大気のサンプル」を採取する装備を何一つ備えてなかった。 U-2機の任務は、ソ連全土をパミール高原[訳注: 中央アジアのタジキスタンにある山系]からコラ半島[訳注: バレンツ海に面しノルウェー東部に隣接する半島]まで横断し、我が国の軍事、工業施設の情報を航空写真により得ることであった。 パリでの政府首脳会談とアメリカ大統領の訪ソの直前に、不誠実な行為の責任を負うべき者達は、ソ連に対して領空侵犯を企てた者として現行犯として捕まったのである。 私は、これが国際的緊張を緩和するための真剣な話し合いを挫くものとなったと思う」 フルシチョフはこの演説で、さらにソ連がロケットにより20,000m上空のU-2を撃墜し、撮影フィルムを回収したことを発表した。 ソ連側からするとまさにこれはNASAの気象観測を装った「高高度軍事偵察」であった。 フルシチョフは、パワーズ自身の言葉を引用して、アメリカの「高高度軍事偵察」の実態を説明し、ソ連だけでなく周辺諸国の領空も侵犯していると非難した。 またU-2が自爆装置を備え、パワーズが、自殺用の毒針や無音拳銃を携帯しているのはおかしいと指摘した。 アメリカの偵察飛行正当化 こうしたフルシチョフの演説に対して、駐ソアメリカ大使トンプソン Llewellyn E. Thompson は、同日、国務省に宛てた電報で、「私はフルシチョフが本当に気分を害し、怒っており、この種の[偵察]活動を停止させることを重要に考え、サミットで有利な立場を占めることができると考えていると思う。 我々がソ連の世論、おそらく国際世論でも大きな損失をこうむることは疑いようもない」と状況を概括し、「[フルシチョフが示した証拠からすると]故意の上空飛行に対する非難を我々が否定し続けることができるかどうか疑問である」という見解を示した。 結局、国務省は「高高度偵察」の事実を認めざるをえないと判断し、5月7日に以下のような声明を発表した。 国家防衛を正当化する手段としてのそのような活動の必要性は、自由世界に比べてソ連の秘密主義が過度のものであることにより高められた。 今日の世界の緊張を生み出していることの一つは、大量破壊兵器による奇襲への不安である。 相互不信を減らし、奇襲に対する防御手段を得るために、合衆国は1955年に『大空開放 Open Skies 』提案をした。 その提案は、ソ連により拒否された。 非武装の民間U-2機のような航空機が、過去四年間にわたって自由世界の国境沿いに飛行してきたのは、奇襲の危険に関連してであった」 この声明では、「情報収集」という目的を認めることにより、「気象観測」という目的を明文的に否定してはいないが、事実上、それを否定している。 さらにこのような情報収集活動が必要になったのは、「ソ連の秘密主義」が原因であるとソ連を婉曲的に非難している。 アイゼンハワー自身の考え 方は、5月9日に行なわれた第444回NSC 国家安全保障会議 会合席上での「我々の偵察 は見つかった。 我々は嵐を耐えるしかなく、できるだけ何も言わないようにしよう」という彼自身の言葉によく現れている。 1952年3月2日 日本海域での領空侵犯事件。 1958年7月 アメリカの偵察気球がソ連領内のキエフ郊外に落下。 1958年9月2日 C-130輸送機消息不明事件。 いずれの機会も、ソ連にとってはアメリカの「好戦的な態度」を糾弾するプロパガンダの絶好の材料となりえるものだった。 そのため、なぜU-2事件が、パイロットと機体という重大な物的証拠がソ連の手中に落ちるという劇的な展開があったにせよ、殊更にプロパガンダの材料として利用されたのかというのが、合衆国政府にとって究明されるべき問題であった。 合衆国政府は、U-2事件が、5月16日から行なわれるパリ首脳会談を流産させるためのプロパガンダに利用されているという趣旨に基づいて公式発言を行っている。 アイゼンハワーの声明文 アイゼンハワーが、U-2事件に関する公式発言を初めて行ったのは、5月11日の記者会見であった。 記者会見の冒頭で、アイゼンハワーは次のような声明を読み上げた。 次いで私がさらに言うことはない。 というのは今回、さらに付け加えるべき有用なことは何もないからである。 一つ目のポイントは、情報収集活動の必要性である。 再度の真珠湾など誰も望んでいない。 我々は、世界の軍事力とその配備状況、特に大規模な奇襲攻撃についての知識を得ておかなければならないということを示している。 ソ連の秘密主義は、これを不可欠なものにしている。 世界の大部分では、秘密裏に大規模な攻撃を準備することはできないが、ソ連では秘密主義と隠匿が妄信されている。 これが国際的緊張と今日の不安の主な原因である。 私の二つ目のポイントは、情報収集活動の性質である。 情報収集活動は、特殊で秘密の性質を持っている。 そうした活動は、いわゆる『水面下』の活動である。 そうした活動は秘密である。 なぜなら他の国々が軍備の秘密を守ろうとする手法の裏をかかなければならないからである。 三つ目のポイントは、我々は情報収集活動全般をどのようなものとしてみなすべきなのか。 それは不快だが非常に必要なものである。 私は『大空開放』を再びパリで提案しようと思う。 それが隠蔽と疑心暗鬼を終わらせる方法だからである。 私の最後のポイントは、事件のことまたは現在の世界情勢の徴候により、今日の本当の問題から我々は気をそらされてはならないということである。 この事件は、プロパガンダに大きく利用されている。 強調すべきことは、非武装の非軍用の飛行機による飛行は、秘密主義への妄信を反映しているだけだということである。 我々がサミットで取り組むべき本当の問題は、軍備縮小、ドイツとベルリン問題の解決、そして秘密主義や疑心暗鬼を軽減することも含めた全般的な東西関係である。 率直に言うと、私は、こうした大きな問題で進展が望めるのではないかと思っている。 これは、私が言うところの『平和のために尽くす』ということである。 そして私があなた方に思い出して欲しいのは、私はこの問題についてこれ以上何も言うつもりはないということである」 声明文を記者会見の冒頭で読み上げるというスタイルは、余分な失言を避けるための工夫であろう。 しかも、当時の記者会見では、一般的にこうした声明文の謄写版が記者に配布されるのが通例であった。 ここで、注目されるのは、大統領が国務省と見解を同じくすることを示し、それ以上の発言はしないと釘を刺すことで、予め記者団によるU-2事件についての質問を封殺しようとしていることである。 これは非常に慎重な姿勢だと言えるだろう。 この声明文は、アイゼンハワー自身も述べている通り、概ね5月9日のハーター国務長官の声明の筋に沿うもので、世界平和実現を目指して「隠蔽と疑心暗鬼」を終わらせなければならず、そのためには情報収集活動が必要不可欠であるという情報収集活動の一般的な正当性を主張し、アメリカにとっても情報収集が「再度の真珠湾」を防ぐためには不可欠だとしている。 「非武装の非軍用の飛行機による飛行」は、ソ連の秘密主義の結果、いたしかたなく行なわれているものだと示し、ソ連が一連の声明で打ち出してきた、ソ連=被害者、アメリカ=加害者という構図を曖昧にしようと試みている。 また、この声明文では、U-2事件の責任の所在を明確にせず、ただ単に大統領が情報収集を命じたと述べているだけで、大統領に対して責任追及が直接及ばないように配慮している。 結局、国務省の声明に沿う戦略を採ったのは、アイゼンハワーの言葉によれば、「新たなる真珠湾の可能性は過度に強調されるべきではないし、我々はそれを劇的にしようとしてはならない」からで、国際的緊張緩和が期待されるパリ首脳会談を間近にひかえていることがこうした戦略採用の主な要因であったと考えられる。 この記者会見の後、アイゼンハワーはパリ首脳会談が5月16日に始まるまで、U-2事件について触れることはなかった。 U-2事件に特に触れなかったのは、U-2事件をプロパガンダに利用しようとするソ連に対抗して、ソ連のスパイ活動を暴露する白書を準備し、演説を頻繁に行えば、敵はかえって、我々が保身に懸命になっているとみなすのではないかとアイゼンハワーは考えていたからである。 U-2事件とパリ首脳会談との関連性 おそらくU-2が撃墜されることなく、予定通り偵察飛行を終えていたら、アイゼンハワーはパリ首脳会談で、絶対的優位に立つことができたと断言しても問題はないだろう。 ソ連の正確な軍事情報を一方的にアメリカが把握するという状況で、フルシチョフが強硬な姿勢を可能性は極めて低かったと予想できる。 しかもフルシチョフは、懸案であったベルリン問題に関して何の希望も抱いておらず、1960年夏に予定されていたアイゼンハワー訪ソはソ連人民に深甚な政治的影響を及ぼすのではないかと危惧していた。 またこの頃フルシチョフの訪米を契機に、中ソ関係が悪化していた。 さらに核実験停止交渉についても、アメリカは地下核実験計画を推進していて、実験停止はアメリカにとって有利であるとフルシチョフはソ連の科学者から聞かされていた。 こうした背景からするとフルシチョフにとって、パリ首脳会談をすることで得ることができるメリットはほとんどなかったのである。 とはいえ、パリ首脳会談を一方的にキャンセルするのもソ連にとっては得策ではなかった。 当時、ソ連はさかんに「平和」を呼びかける「平和プロパガンダ」を展開していた。 それは、アメリカの軍事援助計画や同盟国への核配備、NATO体制確立、海外での基地展開などを効果的に非難し、第三諸国にアピールするねらいで展開されていたと推測される。 U-2事件は、ソ連にとってパリ首脳会談を有名無実にする絶好の機会であった。 合衆国政府は、カバー・ストーリーに固執するあまり、そのようなソ連の外交的策略を効果的に阻止することができなかったのである。 冷戦の恒常化 アイゼンハワー政権期から国民は、冷戦が一過性のものではなく、恒常的なものであると認識するようになった。 そしてそれが当たり前の日常になったからこそ、大統領は国民に冷戦を戦い抜く努力を不断に求める必要が生じてきた。 一方でソ連の脅威を繰り返し説くことで国民に冷戦参加を呼びかけ、また一方で変動する国際情勢に対応し、冷戦が世界戦争にならないようにソ連に対するプロパガンダを緩めるといった国内外に配慮した絶妙なバランスが必要とされていたのである。 Q、二万mもの高度の上空からの写真でどの程度ソ連の軍事状況が偵察できたのでしょうか? A、敵のレーダー網、通信および火器の配備などかなり正確な状況が把握できたようです。 ただソ連領は極めて広大なのでソ連全体がどれだけの軍事力を持っているのか完全に把握することは難しかったのではなかろうかと思います。 Q、フルシチョフが五月七日にさらなる追求をしましたが、それによってアメリカ国内で混乱などは起きなかったのでしょうか。 A、U-2事件に対するアメリカ国民の関心は非常に高く、6月8日の世論調査では96%の人が事件について知っていると答えています。 またアメリカ政府が事件にうまく対処しているかという質問に対して58%の人がうまく対処していると答え、うまく処理していないと答えた人は29%に過ぎませんでした。 Q、トルーマンの封じ込めとそれに関する軍事、政治、経済の詳しい解説を聞きたいと思いました。 A、もしこれに関して詳しい解説をすると一回分講義を増やさなければ追いつきません。 ですから簡単にまとめておくと、ソ連がこれ以上勢力を拡大しないように、軍事、政治、経済面で世界の自由勢力に援助の手を差し伸べ、それを阻止しようという考え方です。 Q、先生が授業で使うプロパガンダにはどのようなニュアンスが含まれているのですか? A、Psychological Warfare 米 とPropaganda War 英 二つの表現がありますが、同義語です。 Q、国民に対する心理戦が今の日本でもあると先生は考えていますか。 A、小泉首相の郵政解散に伴う選挙戦はまさに心理戦だと私は思っていましたよ。 それに関しては「政策空間」というサイトで記事を書いています。 もし興味があったら検索で調べてみてください。 Q、パイロットはいつ戻れたんですか。 A、パワーズは撃墜された時に離脱に成功しましたが後に当局に逮捕され禁固刑を言い渡されました。 しかし、1962年にソ連のスパイであったアベルと交換で釈放されアメリカに帰還することができました。 その後しばらくして、事故に巻き込まれて亡くなっています。 Q、どれくらい大統領はスピーチに関わっているのですか? A、各大統領により違います。 草稿作成段階から容喙する大統領もいれば、草稿作成が済んでそれを確認するだけという大統領などいろいろです。 Q、マリリン・モンローが暗殺されたのは、大統領と不倫の仲で機密情報を知っていたためというのをどこかで聞いたのですが詳細が知りたいです。 A、この件に関しては私も聞いたことがありますが、歴史的な流れからすると大きな事件でもないので私も詳細は知りません。 Q、アメリカは何故首脳会談をひかえた微妙な時期にも拘らずU-2をソ連領空へ侵入させたのか? A、首脳会談をひかえて少々のリスクはおかしても有利な情報をつかんでおきたいと考えたからです。 Q、核・ミサイルも同じようにお金がかかる気がするんだが、戦力を削減してミサイルを増やすことがなぜアメリカの経済破綻を抑えるのかが分からなかったです。 パリ首脳会談のそもそもの目的は当時行き詰っていたベルリン問題を解決するためでした。 気球落下は自然落下だと思います。 Q、現在のミサイル、ロケット技術で打ち落とせない航空機はあるのでしょうか?アメリカはステルス戦闘機に絶大な信頼を寄せていますが実際のところはどうなんでしょうか? A、ミサイル、ロケットで航空機を打ち落とす仕組みは主に電波誘導もしくは熱源探知によります。 ステルス航空機は、レーダー吸収材を利用しているのでほとんどレーダーに捕捉されず、また熱源も排熱ノズルを工夫することで探知されにくいようになっています。 ステルス航空機の問題はコストです。 すべての航空機をステルスにするのは不可能でしょう。 Q、なぜ先生はアイゼンハワーが好きなのか正直なぞです。 アイゼンハワーの魅力は何なのですか。 A、アイゼンハワーは基本的に実直な性格なうえに高度な政治判断ができる優れた大統領だったからです。 Q、ソ連としてはいいタイミングでU-2事件が起こったと思います。 首脳会談にあわせて計画的に行われたことですか? A、講義中にも話した通り、アメリカの分析ではそうです。 Q、五月五日、国防省の声明の時点で操縦士の生存は全く疑われていなかったのですか? A、五月五日に駐ソ連アメリカ大使トンプソンが国務省へ至急電報でパワーズの生存の可能性を示唆していましたが、あくまで可能性に過ぎません。 Q、世論ではミサイルか爆撃機を増やしてソ連と戦争のようになってもよかったということですか? A、ソ連に対抗できるだけの軍事力を備えるべきだという意見が大半を占めていました。 Q、当初、ソ連のミサイルがアメリカの偵察機に届かなかったと言ってましたがいつ頃から届くようになったのですか?実際にミサイル・ギャップやボンバー・ギャップはあったのですか? A、同年四月九日にソ連はU-2をレーダー追尾し撃墜しようと試みていました。 少なくともそれより少し前くらいから何とか撃墜できる性能を持つようになったようです。 またU-2が到達できる高高度まで追撃できる戦闘機をソ連はなかなか開発することができませんでした。 U-2からのデータにより世論が危惧するほどのギャップはないというのがアイゼンハワー政権の考え方でしたが、本来U-2の偵察飛行は隠されたものだったのでデータを公開できなかったのです。 Q、U-2事件がきっかけで冷戦の恒常化が進んだのでしょうか?U-2の名前の由来は何ですか? A、冷戦の恒常化は様々な事件、時代の趨勢によるものです。 それは、冷戦が一時的なものではなく長期間続くものだと次第に認識されてきたことを指します。 航空機の名前は「utility 用途 が曖昧なこと」に由来しています。 Q、国民は精神的な消耗はあったのだろうか? 核の脅威に対する精神的な消耗は当然ありました。 Q、偵察をすることに関して当時は国際法はなかったのでしょうか。 A、講義で説明した通り、だからこそアメリカが「大空解放」を提案したのです。 Q、U-2はミサイルで撃ち落されたのになぜ操縦士は生き残れたのか? A、正確に言うとミサイルは直接機体に命中していません。 U-2は非常に脆い機体で、ミサイルが近くで爆発したあおりを受けて失速し墜落したと言われています。 だからパワーズは助かったのです。 もし直撃していたら確実に生存できなかったと思います。 Q、アメリカの行動を知った他国の国民はアメリカに対してどのようなイメージを持ったのだろうか? A、深刻なクレディビリティ・ギャップ 信頼性の崩壊 を産み出しました。 アメリカはそれを反省し、同年7月に起きたRB-47事件ではクレディビリティ・ギャップを産み出さないように配慮しています。 Q、アイゼンハワーのソ連封じ込め政策の中には人的・文化的封じ込めもあったと聞いたが、具体的にはどのようなものなんですか? A、例えばアイゼンハワーはソ連を訪問し、そこでソ連国民に対して冷戦の雪解けを促す演説をする予定をたてていました。 またソ連とアメリカで交換留学を行うことも考えられていました。 Q、この時代から既にアメリカは世界の警察として世界中に目を配っていたのでしょうか? A、世界中のいかなる共産主義勢力の浸透にもアメリカは対抗するというのが当時の基本姿勢です。 Q、イギリスのロックバンドU-2は偵察機U-2から由来しているんでしょうか? A、はたしてどうでしょうか?私も知りません。 Q、寄附授業とはどのような仕組みなんですか? A、企業から大学に寄附をしていただいてそれを基金に講座を開設します。 去年度の寄附講座開設数は過去最高だったそうです。 例えば銀行が寄附をして講師を指定し、金融の仕組みを教える講座を開設するといったものがあります。 Q、墜落したU-2がアメリカのものでパイロットもアメリカ人であると判明するような証拠があったのか? A、講義で説明した通り、U-2機はアメリカの航空機であることは、本来の目的は隠されていたものの公表されていました。 Q、アメリカの動向を知ることは日本の今後を考える上で不可欠だという先生のお考えは、具体的にどういう場面で不可欠だと思っていらっしゃるのですか? A、主に極東における日本の立場、または国際情勢の推移に関してです。 Q、あのような巧みな文章はいったい誰が考えているのですか? A、専属のスピーチライターたちです。 Q、評議会が行われたのはアメリカの声明後に行われたのですか? アメリカからの声明としては、空軍基地の声明、NASAの声明、国務省の声明などがあります。 三日の声明はNASAの声明です。 評議会でのU-2に関わるフルシチョフ演説は五日と七日に行われています。

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アイゼンハワー 大統領

現職()は、前任者ので1年足らず前に大統領職を継いだが、ケネディ人気にうまく自身も乗せることができた。 ジョンソンはまた、対抗馬であるで選出議員を、に創られた社会福祉プログラム(例えば社会保障)の廃止を望んでいるだと批判した。 さらにゴールドウォーターならば、この国をとのに突入させるかもしれないと主張した。 ジョンソンはこれらの要素をうまく働かせて、50州のうち44州とを制し、容易に当選した。 2007年時点で、ジョンソンとゴールドウォーターの一般選挙における得票率差22. 6ポイントは大統領選挙の歴史の中で5番目に大きなものである(これより上位に来るものは1920年、1924年、1936年および1972年の選挙)。 ジョンソンは一般選挙で61. 、知事 ジョンソンの大統領候補指名は確定的だったが、ジョンソンは党大会を支配し、公民権に関する公然の闘争を避けることを望んだ。 それでも、公民権問題に関しては指名の時期に2つの派から挑戦を受けた。 主義者で知事のは、ジョンソンに対抗して州での多くの予備選挙に出馬し、、およびの予備選挙では、ジョンソンに対する当て馬である地元出身のお気に入り候補に対して驚くべき善戦をした。 予備選挙での総得票数 [ ]• - 1,693,813 27. - 1,106,999 17. - 798,431 12. - 672,984 10. - 522,405 8. アルバート・S・ポーター - 493,619 7. - 376,023 6. - 267,106 4. - 131,432 2. 非拘束 - 81,614 1. - 36,258 0. その他 - 23,235 0. (記名投票) - 8,495 0. - 800 0. - 548 0. 党のリベラル派指導者達は2つの議員団で公平に議席を配分することを支持した。 ジョンソンは、正規のミシシッピ州民主党ならばどうしてもゴールドウォーターに投票するであろうが、彼等を拒絶することは南部の票を失うことになると心配した。 結果的にヒューバート・H・ハンフリー、ウォルター・ロイター、さらには黒人公民権運動の指導者であるロイ・ウィルキンス、およびベアード・ラスティンが妥協を工作した。 ミシシッピ州自由民主党は2議席を得た。 正規のミシシッピ州代議員団は党公認候補への支持に対する誓約を求められた。 今後の民主党全国大会は人種差別選挙で選ばれた代議員団を受け入れることは無いとされた。 ミシシッピ州自由民主党の弁護士ジョセフ・ラオは当初この取引を拒否したが、最終的その議席を受け入れた。 ミシシッピ州とアラバマ州からの多くの白人代議員が誓約に署名することを拒否し、会場を後にした。 若い公民権運動家達は如何なる妥協にも不満を抱いた。 ジョンソンは選挙で南部の多くを制したが、、アラバマ州、ミシシッピ州、およびは落とした。 ジョンソンはまた、ケネディ大統領の弟で司法長官のとの問題があった。 ケネディとジョンソンは以来互いを嫌っていた。 ケネディがその兄の副大統領候補にジョンソンがならないよう画策した時に、その溝が深まった。 1964年初め、ロバート・ケネディはジョンソンを嫌っていたにも拘らず、ジョンソンに自分を副大統領候補として認めるよう強いた。 ジョンソンは現行閣僚には誰も民主党公認の2枚目の切符を渡す考えは無いと宣言することで、この脅しを排除した。 ジョンソンはまた、ケネディが1964年民主党党大会で予定される演説を使って代議員の中に感情の高まりを創りだし、自身をジョンソンの副大統領候補に指名させるのではないかということを心配するようになった。 ジョンソンはケネディの演説を慎重に大会の最後の日に組み入れ、その副大統領候補が既に決まった後になるようにした。 民主党全国大会の直ぐあとで、ケネディはジョンソン内閣を去り、で合衆国上院議員の議席を求めて出馬することにした。 ケネディはその年11月の選挙で当選した。 ジョンソンはその副大統領候補として、選出合衆国上院議員で公民権運動の活動家でもあるを選んだ(ケネディの暗殺後、副大統領候補の必要性は大会で不安な要素を与えていたことは注目すべきである)。 共和党の指名 [ ] 共和党の指名候補者 [ ]• 共和党の予備選挙結果 共和党は1964年にその保守・右派と、中道保守との間でひどく分裂した。 元副大統領のは1960年の大統領選挙でケネディとかなりの接戦を演じたうえで敗れ、その後1962年のカリフォルニア州知事選挙でも敗れたために出馬しないことにした。 党主流派のニクソンは共和党両派との結び付きがあり、1960年の時は両派をまとめることができた。 ニクソンがいなければ、両派が指名を求めて全面的な政治的内戦状態になることは明らかだった。 アリゾナ州選出合衆国上院議員のバリー・ゴールドウォーターは保守・右派の代表だった。 保守派は伝統的にを地盤にしていたが、1950年代からはやでも力を付けていた。 低い税金、個人の権利と企業の利益を支持する小さな連邦政府を支持し、社会福祉プログラムには反対していた。 また、北東部に地盤がある中道派の君臨に不満を抱いていた。 1940年以来、東部中道派が共和党の党大会で保守派の指名候補者を破り続けていた。 保守派は、東部中道派がその哲学や政府に対処するやり方で民主党左派と大差ないと思っていた。 共和党の指名を得るためにゴールドウォーターの主要対抗馬は、ニューヨーク州知事で長い間共和党中道派の指導者であるネルソン・ロックフェラーだった。 ロックフェラーがゴールドウォーターによって指名争いから追い出されたときに、党中道派はペンシルベニア州知事ウィリアム・スクラントンに乗り換えて、彼ならばゴールドウォーターを止められると期待した。 予備選挙ではロックフェラーとゴールドウォーターが有力と考えられていたが、記名投票で候補者名簿には載っていない候補にも投票が出来たことから、1960年の大統領選挙でニクソンの副大統領候補だったヘンリー・カボット・ロッジJr. 駐大使(元選出合衆国上院議員)が勝利。 更にマサチューセッツ州と予備選挙でもロッジは勝利したものの、彼自身が大統領候補としての指名を求めないと宣言するに至りロッジへの支持は止んだ。 ゴールドウォーターはニューハンプシャー州で敗れたにも拘らず、選挙運動を続け、、およびインディアナ州の予備選挙でほとんど反対無く勝利し、の予備選挙ではニクソン担ぎ出しという手ごわい挑戦にも勝った。 ゴールドウォーターは多くの州党員集会でも勝利し、さらに多くの代議員を集めた。 一方ロックフェラーはとの予備選挙でゴールドウォーターに勝利し、スクラントンは出身州であるペンシルベニア州で勝利した。 ロックフェラーもスクラントンも大半が北東部だが幾つかの州党員集会で勝利した。 ロックフェラーとゴールドウォーターの天王山は予備選挙だった。 1963年にロックフェラーは突然妻と離婚してその後間もなくかなり若い女性と再婚した時に、不快な報道を受けていた。 その女性ハッピー・マーフィーがロックフェラーと再婚する前に突然前夫と離婚していた事実があり、ロックフェラーは彼女と婚外交渉があったという噂が流れた。 このことは共和党内の多くの者を怒らせ、その多くはロックフェラーが「他人の妻を寝取った」と囁いた。 これらの告発にも拘らず、ロックフェラーはカリフォルニア州の世論調査の大半ではゴールドウォーターにリードしており、予備選挙の数日前にその新妻が息子ネルソン・ロックフェラー・ジュニアを出産した時は勝利に向かっていた。 その息子の誕生が不倫問題を前面かつ中心に押し出すことになり、ロックフェラーは急速に世論の地盤を失った。 予備選挙での総得票数 [ ]• - 2,267,079 38. - 1,304,204 22. - 615,754 10. - 386,661 6. - 299,612 5. - 245,401 4. - 227. 007 3. - 197,212 3. 非拘束 173,652 2. - 114,083 1. その他 - 58,933 0. (記名投票) - 23,406 0. - 1,955 0. ロックフェラーはその演説のために演台に立ったとき騒々しいブーイングで迎えられた。 その演説では厳しく党保守派を批判し、そのことで傍聴席にいた多くの保守派は彼に大声で喚きたてた。 中道派の集団がスクラントンを担いでゴールドウォーターを止めようとしたが、ゴールドウォーター側は容易にその挑戦を退け、最初の投票で大統領候補に指名された。 大統領候補指名投票の結果は以下の通りだった。 883• 214• 114• 2 副大統領候補には知名度の低い共和党議長でニューヨーク州北部選出の合衆国下院議員が指名された。 ゴールドウォーターは「彼ならジョンソン大統領の石頭を追い出せる」からミラーを選んだと述べた。 指名受諾演説でゴールドウォーターは次の様に言っている。 一般選挙 [ ] 秋の選挙運動 [ ] ゴールドウォーターは保守派を糾合することに成功したものの、一般選挙ではその支持基盤を広げることはできなかった。 共和党大会の少し前ジョンソンが提案し署名して法制化したに、ゴールドウォーターが反対票を投じたことで共和党中道派の大半と疎遠になっていた。 連邦政府が法制化することではなく個別の州の問題だというのがゴールドウォーターの持論ではあったが、この事実はゴールドウォーターを人種差別主義者としてジョンソン陣営からにさらされる口実となった。 その場で不用意にコメントしたり意見を述べたりするゴールドウォーターの以前の言動も批判の的となり、これも多くが民主党のネガティブ・キャンペーンに広く利用された。 1961年12月の記者会見で「時々私は、を切り離して海に流してしまったらこの国がどんなに巧くいくだろうかと思うんだが」とコメントし(東部州を中心に支持されていた)しばしば関連付けられる自由経済と社会政策を嫌っていたことを表明した。 だがジョンソン陣営がテレビ広告でこの発言を引いて、社会保障を削減して自己責任にしを売却するかの様に喧伝したことから、そのまま自陣営に跳ね返ってくることになった。 「の男子(men's room)にデカいのを一つ落としてやれ」と言うの用を足すことと米軍の核攻撃を引っ掛けたジョークも、ゴールドウォーターの最も有名な失言になってしまった。 有力な共和党中道派がゴールドウォーターを支援しなかったことも、彼にとっては打撃だった。 ニクソンやスクラントンの様に忠実に選挙運動を行った者もいたのだが、ロックフェラーやロムニーはゴールドウォーターの選挙運動に加わらず暗に拒否の姿勢を示した。 の強力な後ろ盾があればゴールドウォーターの選挙運動は有利になったかも知れないが、そのアイゼンハワーにしてさえ全面支援していなかった。 1960年代初頭にゴールドウォーターは、アイゼンハワー政権を「10セント雑貨店のニューディール」と揶揄していたし、1964年7月に実弟で大学の管理者ミルトン・S・アイゼンハワーが大統領候補となる可能性について尋ねられた際にも「一つの時代にアイゼンハワーは一人で十分」とコメントしていた。 こうした遺恨もあってかアイゼンハワーはゴールドウォーターを支援することも批判することはなく、ゴールドウォーターのテレビ広告に一度出ただけだった。 東部共和党の声を代弁していた(かつ予備選挙中のゴールドウォーター活動家の目標だった)「」ですら一般選挙ではジョンソン支持を表明し、有力な共和党政治家の参加は無かったものの「ジョンソン共和党」組織まで創った中道派まで現れた。 「デイジーガール」のテレビ広告 最も有名なものでは、9月7日にジョンソンが打った俗に「デイジーガール」と言われるテレビCMがある。 少女が野原での花びらを「ワン…ツー…スリー…」と数え、少女が「ナイン」と呟いたところで「テン」と男の声が重なり少女の黒い目がクローズアップされると共に「ナイン、エイト、セブン」とが開始。 やがて「スリー、ツー、ワン」と続いて画面は真っ暗になり「ゼロ」で核爆発の映像が流れると、ジョンソン大統領の声で これは大いなる賭けだ。 この広告はゴールドウォーターの提唱するベトナムで「戦術的」核兵器を使用するという発言に反応したものだった。 「共和党員の告白」 ジョンソン陣営が打ったもう一つの広告「共和党員の告白」は、サンフランシスコでの共和党大会に押し掛けたを引き合いに出してゴールドウォーターを支持する保守層に結びつけたものだった。 有権者は次第にゴールドウォーターを「右翼」がかった候補者と見るようになり、ゴールドウォーターのスローガン「彼は正しい、それが本音」 "In your heart, you know he's right" は、ジョンソン陣営によって「彼はバカ、それこそ貴方の」("In your guts, you know he's nuts")とか、「彼ならやりかねない(核兵器のボタンを押すこと)、それが本音」("In your heart, you know he might")とか、さらには「彼は極右だ、それが本音」("In your heart, he's too far right")とパロディ化されてしまった。 「ジョンソンですらゴールドウォーターよりはマシ」という皮肉に満ちた文句を掲げたボタンを着ける者まで出る始末だった。 ジョンソン陣営の最も大きな心配事は、重要な州でだった。 これに対応するためにジョンソンの広告の最後は常に 11月3日にはリンドン・B・ジョンソンに投票を。 あまりに大変な賭けなので貴方は家に居られないという文句で締めくくった。 民主党の選挙運動は他に2つのスローガン「LBJと共に進もう」と「LBJはUSAのために」があった(LBJはリンドン・ジョンソンの頭文字)。 この選挙運動は元大統領の逝去にともない、10月20日の週に中断があった。 服喪期間に選挙運動を行うのは不敬と考えられたからだった。 結果 [ ] 投票はに行われた。 これは一般投票が初めて国全体に広げられた以降最大の得票率だった。 最終的にゴールドウォーターは出身州であるアリゾナ州と5州を取っただけであり、以降はずっと民主党が勝利していたミシシッピ州やアラバマ州ばかりかレコンストラクション期間中でさえも共和党が勝利しなかったで共和党が勝ったことは、民主党の公民権政策で従前の民主党支持者が疎遠になっていたことを示した。 この年は南部にとって大きな転換点となり、民主党の元「ソリッドサウス」が共和党の拠点になる過程の重要な一歩だった。 ジョンソンの圧勝は多くの保守派共和党議員も落選させ、議会で保守派連合に打ち勝つ多数派与党を確保させた。 この選挙は、の下でコロンビア特別区が大統領選挙に参加したことでは初めてのものになった。 大統領選の結果 大統領候補者 出身州 党 得票数 得票率 選挙人得票数 副大統領候補者 出身州 選挙人得票数 43,127,041 61. 45 10 210,732 30. 55 - - - - -268,353 -38. 90 689,817 AL 3 44,329 65. 91 3 22,930 34. 09 - - - - - - - 21,399 31. 82 67,259 AK 5 237,753 49. 45 - 242,535 50. 45 5 - - - 482 0. 10 - -4,782 -0. 99 480,770 AZ 6 314,197 56. 06 6 243,264 43. 41 - - - - - - - 70,933 12. 66 560,426 AR 40 4,171,877 59. 11 40 2,879,108 40. 79 - - - - 489 0. 01 - 1,292,769 18. 32 7,057,586 CA 6 476,024 61. 27 6 296,767 38. 19 - - - - 302 0. 04 - 179,257 23. 07 776,986 CO 8 826,269 67. 81 8 390,996 32. 09 - - - - - - - 435,273 35. 72 1,218,578 CT 3 122,704 60. 95 3 78,078 38. 78 - - - - 113 0. 06 - 44,626 22. 17 201,320 DE 3 169,796 85. 50 3 28,801 14. 50 - - - - - - - 140,995 71. 00 198,597 DC 14 948,540 51. 15 14 905,941 48. 85 - - - - - - - 42,599 2. 30 1,854,481 FL 12 522,557 45. 87 - 616,584 54. 12 12 - - - - - - -94,027 -8. 25 1,139,336 GA 4 163,249 78. 76 4 44,022 21. 24 - - - - - - - 119,227 57. 52 207,271 HI 4 148,920 50. 92 4 143,557 49. 08 - - - - - - - 5,363 1. 83 292,477 ID 26 2,796,833 59. 47 26 1,905,946 40. 53 - - - - - - - 890,887 18. 94 4,702,841 IL 13 1,170,848 55. 98 13 911,118 43. 56 - - - - 1,374 0. 07 - 259,730 12. 42 2,091,606 IN 9 733,030 61. 88 9 449,148 37. 92 - - - - 182 0. 02 - 283,882 23. 97 1,184,539 IA 7 464,028 54. 09 7 386,579 45. 06 - - - - 1,901 0. 22 - 77,449 9. 03 857,901 KS 9 669,659 64. 01 9 372,977 35. 65 - - - - - - - 296,682 28. 36 1,046,105 KY 10 387,068 43. 19 - 509,225 56. 81 10 - - - - - - -122,157 -13. 63 896,293 LA 4 262,264 68. 84 4 118,701 31. 16 - - - - - - - 143,563 37. 68 380,965 ME 10 730,912 65. 47 10 385,495 34. 53 - - - - 1 0. 00 - 345,417 30. 94 1,116,457 MD 14 1,786,422 76. 19 14 549,727 23. 44 - - - - 4,755 0. 20 - 1,236,695 52. 74 2,344,798 MA 21 2,136,615 66. 70 21 1,060,152 33. 10 - - - - 1,704 0. 05 - 1,076,463 33. 61 3,203,102 MI 10 991,117 63. 76 10 559,624 36. 00 - - - - 2,544 0. 16 - 431,493 27. 76 1,554,462 MN 7 52,618 12. 86 - 356,528 87. 14 7 - - - - - - -303,910 -74. 28 409,146 MS 12 1,164,344 64. 05 12 653,535 35. 95 - - - - - - - 510,809 28. 10 1,817,879 MO 4 164,246 58. 95 4 113,032 40. 57 - - - - - - - 51,214 18. 38 278,628 MT 5 307,307 52. 61 5 276,847 47. 39 - - - - - - - 30,460 5. 21 584,154 NE 3 79,339 58. 58 3 56,094 41. 42 - - - - - - - 23,245 17. 16 135,433 NV 4 184,064 63. 89 4 104,029 36. 11 - - - - - - - 78,036 27. 78 286,094 NH 17 1,867,671 65. 61 17 963,843 33. 86 - - - - 7,075 0. 25 - 903,828 31. 75 2,846,770 NJ 4 194,017 59. 22 4 131,838 40. 24 - - - - 1,217 0. 37 - 62,179 18. 98 327,615 NM 43 4,913,156 68. 56 43 2,243,559 31. 31 - - - - 6,085 0. 08 - 2,669,597 37. 25 7,166,015 NY 13 800,139 56. 15 13 624,844 43. 85 - - - - - - - 175,295 12. 30 1,424,983 NC 4 149,784 57. 97 4 108,207 41. 88 - - - - - - - 41,577 16. 09 258,389 ND 26 2,498,331 62. 94 26 1,470,865 37. 06 - - - - - - - 1,027,466 25. 89 3,969,196 OH 8 519,834 55. 75 8 412,665 44. 25 - - - - - - - 107,169 11. 49 932,499 OK 6 501,017 63. 72 6 282,779 35. 96 - - - - - - - 218,238 27. 75 786,305 OR 29 3,130,954 64. 92 29 1,673,657 34. 70 - - - - 5,092 0. 11 - 1,457,297 30. 22 4,822,690 PA 4 315,463 80. 87 4 74,615 19. 13 - - - - 2 0. 00 - 240,848 61. 74 390,091 RI 8 215,700 41. 10 - 309,048 58. 89 8 - - - - - - -93,348 -17. 79 524,756 SC 4 163,010 55. 61 4 130,108 44. 39 - - - - - - - 32,902 11. 22 293,118 SD 11 634,947 55. 50 11 508,965 44. 49 - - - - - - - 125,982 11. 01 1,143,946 TN 25 1,663,185 63. 32 25 958,566 36. 49 - - - - - - - 704,619 26. 82 2,626,811 TX 4 219,628 54. 86 4 180,682 45. 14 - - - - - - - 38,946 9. 73 400,310 UT 3 108,127 66. 30 3 54,942 33. 69 - - - - - - - 53,185 32. 61 163,089 VT 12 558,038 53. 54 12 481,334 46. 18 - - - - 2,895 0. 28 - 76,704 7. 36 1,042,267 VA 9 779,881 61. 97 9 470,366 37. 37 - - - - 7,772 0. 62 - 309,515 24. 59 1,258,556 WA 7 538,087 67. 94 7 253,953 32. 06 - - - - - - - 284,134 35. 87 792,040 WV 12 1,050,424 62. 09 12 638,495 37. 74 - - - - 1,204 0. 07 - 411,929 24. 35 1,691,815 WI 3 80,718 56. 56 3 61,998 43. 44 - - - - - - - 18,720 13. 12 142,716 WY 合計: 538 43,127,041 61. 05 486 27,175,754 38. 47 52 210,732 0. 30 - 45,189 0. 06 - 15,951,287 22. 58 70,639,284 US 接戦だった州 [ ] 青字は民主党、赤字は共和党が勝利したことを示す。 数字は得票率の差。 アリゾナ州, 0. アイダホ州, 1. フロリダ州, 2. ネブラスカ州, 5. バージニア州, 7. ジョージア州, 8. カンザス州, 9. ユタ州, 9. ゴールドウォーターのためのレーガンの演説、草の根組織、および共和党の保守派回帰は1980年代の「レーガン革命」を齎す一助になった。 実際に今日の指導的政治家の多くはゴールドウォーターのために働くことで政界に初めて入った(は「ゴールドウォーター・ガール」だった)。 ジョンソンは1964年選挙での勝利から国内での「」プログラムを打ち出し、に署名し、貧乏との戦争(貧困対策)を始めた。 ベトナム戦争を拡大させたが、それがその人気を蝕むことになった。 1968年までにジョンソンは人気が衰えたので大統領候補としては撤退しなければならなかった。 さらにその国内政策はの民主的ニューディール連衡から労働組合員や南部人を去らせることになり、「レーガン民主党」の現象に繋がった。 その後10回の大統領選挙で民主党は3回しか勝てなかった。 コラムニストのジョージ・ウィルはこのことを1964年選挙から引き続く影響として「票を数えるのに16年間を要し、ゴールドウォーターが勝った」と表現した。 この選挙では以下のような記録があった。 1964年選挙はアメリカ史の中で唯一、外郭南部州全て(、フロリダ州、、、、、テキサス州、およびウェストバージニア州)が一つの政党を支持し、ディープサウスの全州(アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、ミシシッピ州およびサウスカロライナ州)がもう一方の政党を支持した。 1870年代のレコンストラクション以来初めて共和党の大統領候補がアラバマ州、ミシシッピ州およびサウスカロライナ州を制した。 ジョージア州が共和党候補に投票したのは初めてのことだった。 その後の選挙でこれらの州は南部の大半と共に次第に共和党に投票するようになった。 歴史上初めて民主党公認候補がを制し、の場合は多数ではなく初めて過半数で制した。 コロンビア特別区が初めて選挙人選挙に参加した選挙だった。 1960年の選挙人537人に対して538人となった。 コロンビア特別区には3人の選挙人が宛てられ、1960年の国勢調査で配分調整された結果下院議員数が437人から435人に戻されたためだった。 次の州は民主党候補を支持した最後の機会になった。 、、、、、、、、。 アラスカ州の場合、民主党候補を支持した唯一の機会だった。 からの間の選挙ではカリフォルニア州が唯一民主党候補を支持した選挙だった。 民主党がカリフォルニア州で勝てなかったのは、これら10回の選挙でニクソンとレーガンが7回も絡んでいることにその要因を帰する者が多い。 民主党候補者が白人票の過半数を獲得したことでは最後の機会になった。 脚注 [ ]• Unger and Unger; LBJ; a Life 1999 pp. 325-6; Dallek Flawed Giant, p. 164; Evans and Novak 1966 451-56 claim that the MFDP fell under the influence of "black radicals" and rejected their seats. 共和党の抗議で、その後は放映されなかったが、ジョンソンは大勝し、その広告も勝因の一つに数えられたという(「中日春秋」11月30日)。 2013年3月18日閲覧。 参考文献 [ ]• George H. Gallup ed. , ed 1972. The Gallup Poll: Public Opinion, 1935—1971. 3 vols.. Random House• Steve Fraser and Gary Gerstle ed. , ed 1990. The Rise and Fall of the New Deal Order, 1930—1980• Arthur Meier Schlesinger, Jr. , ed 2001. History of American Presidential Elections, 1789—2000• Barone, Michael; Grant Ujifusa 1967. The Almanac of American Politics 1966: The Senators, the Representatives and the Governors: Their Records and Election Results, Their States and Districts• Brennan, Mary C. 1995. Turning Right in the Sixties: The Conservative Capture of the G. University of North Carolina Press• Dallek, Robert 2004. Lyndon B. Johnson: Portrait of a President• Donaldson, Gary 2003. Liberalism's Last Hurrah: The Presidential Campaign of 1964. Sharpe. Rowland Evans and Robert Novak; Lyndon B. Johnson: The Exercise of Power• Goldberg, Robert Alan 1995. Barry Goldwater• Hamby, Alonzo 1992. Liberalism and Its Challengers: From F. to Bush• Hodgson, Godfrey 1996. 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The 480 - a political fiction novel around the Republican campaign. 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - Michael Sheppard, Michigan State University• 一般選挙に関する出典:. 2005年8月7日. 選挙人選挙に関する出典:(2005年8月7日).

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ドワイト・D・アイゼンハワー

アイゼンハワー 大統領

在職中に死去しているアメリカ大統領は全部で8人。 その中で病死 黄 は4人、暗殺 赤 は4人。 歴代大統領の平均寿命は表の。 名前 享年 死因 1732. 22-1799. 14 67才295日 肺炎・喉頭蓋炎 1735. 20-1826. 4 90才247日 老衰 1743. 2-1826. 4 83才82日 下痢性疾患 1751. 16-1836. 28 85才104日 老衰 1758. 28-1831. 4 73才67日 老衰 1767. 11-1848. 23 80才227日 脳性麻痺 1767. 15-1845. 8 78才85日 浮腫・消耗性疾患 1782. 5-1862. 24 79才231日 喘息 1773. 9-1841. 4 68才54日 胸膜炎・肺炎 1790. 39-1862. 18 71才295日 胆汁性熱病 1795. 2-1849. 15 53才225日 下痢性疾患 1784. 24-1850. 1800. 17-1874. 8 74才60日 老衰・脳性麻痺 1804. 23-1869. 8 64才319日 胃炎 1791. 23-1868. 1 77才40日 慢性関節リューマチ 1809. 12-1865. 15 56才62日 暗殺 1808. 29-1875. 31 66才214日 脳性麻痺 1822. 27-1885. 23 63才87日 舌癌・扁桃癌 1822. 4-1893. 17 70才105日 心疾患 1831. 19-1881. 19 49才304日 暗殺 1829. 5-1886. 18 57才44日 ブライト病 蛋白尿と浮腫を伴う腎炎 ・脳卒中 1837. 18-1908. 24 71才98日 老衰・冠状動脈硬化症 1833. 20-1901. 13 67才205日 肺炎 1837. 18-1908. 24 71才98日 老衰・冠状動脈硬化症 1843. 29-1901. 14 58才228日 暗殺 1858. 27-1919. 6 60才71日 炎症性リューマチ 1857. 15-1930. 8 72才174日 老衰 1856. 28-1924. 3 67才36日 脳卒中・脳性麻痺 1865. 2-1923. 2 57才273日 脳動脈破断・肺炎・心臓肥大・高血圧 1872. 4-1933. 5 60才185日 冠状動脈血栓症 1874. 10-1964. 20 90才71日 上部胃腸管出血 1882. 30-1945. 12 63才72日 脳溢血 1884. 8-1972. 26 88才232日 肺鬱血・多機能不全・心血管不全 1890. 14-1969. 28 78才165日 心疾患 1917. 29-1963. 22 46才177日 暗殺 1908. 27-1973. 22 64才148日 心疾患 1913. 9-1994. 22 81才113日 脳溢血 1913. 14-2006. 26 93才165日 心疾患 1924. 1- 存命 存命 1911. 6-2004. 5 93才120日 肺炎 1924. 12- 存命 存命 1946. 19- 存命 存命 1946. 6- 存命 存命 1961. 4- 存命 存命 1946. 14- 存命 存命 平均寿命 全員 70才390日 平均寿命 天寿 72才355日.

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