アパルトヘイト。 アパルトヘイトはなぜ始まったのか

ノーベル平和賞授賞式でなぜ2人は目を合わせなかったのか――アパルトヘイト撤廃へ尽力した2人の政治家 マンデラvsデクラーク

アパルトヘイト

アパルトヘイトの意味 アパルトヘイト apartheid とは、及び南アフリカ共和国でとられていた、白人を優越させ、黒人を蔑視する人種主義に基づき、様々な立法措置によって、人種間の隔離をはかる制度である。 アパルトヘイトは、オランダ語が現地語と融合して変化したアフリカーンス語で「隔離」を意味する。 アパルトヘイトの用語が正式なものになったのは、国家の基本政策として確立した1948年であったが、その前提となる人種隔離政策は、1910年の南アフリカ連邦の成立力語から始まっていた。 引用 それは、有色人、特にアフリカ黒人を劣等と決めつける人種差別思考の上に成り立つ考え方であったが、経済的には,白人には高級職種と熟練労働を、白人以外には低賃金職種と非熟練労働をあてがう搾取のメカニズムでもあった。 それは南アフリカ資本主義の発達を支えることになる根本思想である。 <宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』1997 講談社現代新書 p. 375> アパルトヘイトの起源 南アフリカ連邦は1910年に成立したが、早くも1911年には最初の差別立法といわれる「鉱山労働法」を制定して鉱山での白人と黒人の賃金差別を合法化した。 1913年には「原住民土地法」でアフリカ人の指定居住地は全土の7. 3%と定め、アフリカ人の移動を制限すると同時に、鉱山・工場・白人農場などでのアフリカ人労働力を確保しようとした。 1924年に国民党ヘルツォーク政権は後のアパルトヘイトの原型といわれる人種隔離政策を構想した。 1926年には「産業調整法」が施行され、アフリカ人のストライキ権は制限され、1927年には異人種間の性交渉を禁止する法律が施行された。 そして1925年には、南アフリカ連邦の公用語として英語とともにアフリカーンス語(もとケープ植民地で使われていたオランダ語が変形した現地語)が公用語とされた。 アパルトヘイトの成立 第二次世界大戦後、1948年の総選挙でオランダ系白人(アフリカーナー)が結成した国民党(NP)が勝利し、その政権のもとで「アパルトヘイト」という用語が正式に使われるようになり、50年代にかけてアパルトヘイト関係法律がつぎつぎと制定され、南アフリカ社会は明確な人種隔離社会となった。 ・人口登録法 すべての南アフリカ人を白人、カラード、インド人、アフリカ人という4つの「人種」に分類した。 ・雑婚禁止法と背徳法 人種間の結婚と性交渉を禁止した。 ・集団地域法 都市地域を厳格に分割し、人種別の居住区を指定した。 ・隔離施設留保法 公園、海水浴場、公衆トイレ、教会、レストラン、ホテル、劇場、映画館、エレベーター、バス、列車、学校、役所など、あらゆる公的な場所に「ヨーロッパ人専用」と「非ヨーロッパ人専用」に分離され、それぞれ掲示がかけられた。 ほかに、投票者分離代表法で非白人の参政権は奪われ、バンツー教育法で人種別の教育が定められた。 また黒人の反体制活動を取り締まるために、共産主義弾圧法、破壊活動防止法などが矢継ぎ早に制定された。 <宮本・松田編 同上 p. 376 /峯陽一『南アフリカ 「虹の国」への歩み』1996 岩波新書 p. 16> さらに1959年には全面的アパルトヘイト構想「バンツー自治促進法」が打ち出され、民族(部族)単位ごとにアフリカ人に自治を与えるという分離政策が実施された。 これによってアフリカ人地域は10に分割され、外交・防衛・治安などの権限を除いて各地域に自治を付与するという「バンツーホームランド市民権法」が成立した。 70年代後半から自治国家として4つの「バンツーホームランド」がつくられたが、この形だけ自治を付与された国々は国際社会では一つも承認されなかった。 アパルトヘイトへの抵抗運動 南ア白人政権のアパルトヘイトに対して、黒人運動組織の(ANC)の中から、ネルソン=ら若い指導者が現れ、白人の意識の変化に期待するのではなく、アフリカ人としての権利と政治的独立をめざして不服従運動が開始した。 1955年6月には史上初の全国人民会議がヨハネスブルク郊外で開催され、自由・平等で社会をめざす「自由の憲章」が採択された。 しかし翌年、その指導者のマンデラら156人が捕らえられ、弾圧が強まった。 アフリカ人の中には不服従運動にあきたらずアフリカ人による政府の樹立を主張するパン=アフリカニスト会議(PAC)が、ANCから分離した。 1960年3月にはPACが呼びかけてヨハネスブルク郊外のシャープビルで開催された集会では警察の一斉射撃で69人が殺されるという「シャープビルの虐殺」事件がおこり、国連も南ア政府を批判する事態となった。 南ア共和国のアパルトヘイト 1960年、でアフリカ人諸国が次々と独立する中、南アの白人政府に対する国際的批判が高まった。 しかし南ア政府は1961年、イギリス連邦から分離して「南アフリカ共和国」と国号をかえ、国際的孤立をあえて選択してアパルトヘイトを維持強化した。 「バンツー自治促進法」によりアフリカ人を「民族単位」に分類して辺境地の「バンツーランド」に閉じ込めるという人種隔離政策を推し進めた。 ネルソン=マンデラ 1961年6月、マンデラらはそれまでの非暴力抵抗運動の限界を自覚し、武装闘争に方向転換、政府機関の襲撃などを繰り返しながらエチオピアにおもむき、アフリカの民族解放運動との連携を強めた。 政府はマンデラをストライキ煽動、パス不携帯で国外に出たことの罪で帰国したマンデラを逮捕、懲役5年の刑でロベン島に収監した。 ソウェトの闘い ヨハネスブルクではアフリカ人居住地域のアフリカ人は強制的に退去させられ、近郊に造られたソウェトに移住させられ、完全に隔離された。 そのような隔離政策の中で育ったアフリカ人の若者の中に、激しい怒りが蓄積され、1976年、政府が中等教育の授業用言語としてアフリカーンス語を大幅に増やそうとしたことに対し、支配者の言語による教育に反対する中高校生が抗議行動を起こした。 このソウェト暴動でも軍隊と警察の無差別発砲で多くの学生をふくめ、約600人が命を落とした。 アパルトヘイト廃絶への交渉 1977年、運動の指導者の大学生スティーヴ=ビコが拷問を受けて惨殺されると、抗議の声は世界的に広がり、多くの国が南アとの国交断絶、経済制裁に踏みきり、南アはますます孤立した。 1984年に新憲法が制定され、カラード(白人と現地人の混血)とインド人に選挙権を与えたが、アフリカ人には認められず、その移動や居住の自由も認められなかった。 そのころにはアフリカ人の運動は労働組合や様々な団体に広がり、1987年には50万人が参加するゼネストとなって経済がマヒした。 またキリスト教会のデズモンド=ツツ大司教(イギリス聖公会、1984年、ノーベル平和賞受賞者)もアパルトヘイトは聖書の解釈を誤っていると説き、公然と政府を批判、集会が禁じられる中、教会が人々の集う場として重要な役割を担うようになった。 さらに実業界も長びく経済制裁の解除とストライキの収集を望むようになり、教会を介して反政府運動に好意的になってきた。 1985年頃には実業界もANCのマンデラらを解放することが事態解決に向かう鍵となると考えるようになり、同年、ボタ大統領はついにマンデラを大統領府に招いて会談、マンデラも政府との交渉を開始することを提案した。 マンデラ大統領の誕生 デクラークとマンデラ 1989年、病気で倒れたボタの公認となったデクラーク大統領は、1990年2月11日、マンデラを無条件で釈放し、アパルトヘイト関連法の廃止、ANCやPACなどの合法化、政治犯の釈放などとともに暴力の即時停止を約束した。 1991年12月、19の政党が参加して新憲法制定の話し合いを開始、長い交渉と議論の末、1994年に、南アフリカ史上初めて、全人種が参加する制憲議会選挙が行われた。 その結果、ANCが圧倒的勝利をおさめ、マンデラが大統領に選出され、新生南アフリカ共和国が発足することとなった。 この間、マンデラとデクラーク大統領は1993年にノーベル平和賞を受賞、アパルトヘイト撤廃に尽くした業績が国際的に評価された。

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アパルトヘイト犯罪条約(アパルトヘイトはんざいじょうやく)とは

アパルトヘイト

それが今回ご紹介する「気候アパルトヘイト」。 富裕層と貧困層とでは、気候変動による問題に対応する能力が異なり、さらに結果として貧富格差を広げてしまう現象のこと。 例えば、海面上昇によって、住む場所を奪われている人達や気温上昇のため、水不足になり脱水症状を起こし、それが原因で腎臓病患者の増加。 雨不足で、食糧供給による問題が発生し飢えを深刻化、また大洪水になると、感染症も流行したりします。 この問題に対し、お金に余裕があるならば、対応することは可能でしょうか? 分かりやすい例では、ハリウッドに住むセレブは、自らを守るため、大金を払い、警察や消防を自前で雇い、防災・防犯を買っており、富裕層だけがこの事態をうまく対処できます。 しかし、その余裕がない人はできません。 そして、この言葉が途上国だけでなく、先進国でも強く意識されるようになっているのです。 国連による持続可能な開発目標(SDGs)に掲げられた 「誰一人取り残さない」 という理念は失敗に終わるとの批判を受けています。 貧困層は7倍以上の環境リスク 2019年、国連で地球温暖化問題について提唱されましたのが「気候アパルトヘイト」。 提起したのは、貧困と人権に関する国連の特任リポーターであるフィリップ・アルストン氏。 現在、1%の富裕層が90地球上の富の50%を保有していると言われ、下位50%の人たちの所有している富は、わずか1%に過ぎません。 そして、今世紀において貧しい国の人々が自然災害で亡くなる可能性は、裕福な国の市民の7倍にも達しており、このギャップは気候変動が進むほどに拡大することが伝えられました。 フィリップ氏曰く 「裕福なエリートが何もせず、引き続き化石燃料への投資から利益を得続けているかぎり、われわれは気候アパルトヘイトという体制のもとにあります。 しかし気候アパルトヘイトという言葉で重要なのは、南アフリカのアパルトヘイトが崩壊したのと同じように、努力によって防げること。 世界各国で協力し、化石燃料から再生可能エネルギーに転換する計画を進めなければなりません」。 しかし、世界の覇権を握るアメリカと中国、2国の協力は少ないのが現状。 世界で最も経済的に豊かなアメリカが、地球温暖化対策の国際的枠組み「パリ協定」から離脱するのに対応し、中国でも依然として温暖化防止による国策は少なく、状況は変わっていないのです。 気候変動の原因を作った人々は快適になり、責任のない人々は苦しむのです。 さらに、それらの格差は国家間だけの問題ではありません。 同じ国民の間でも格差が拡大しています。 そのため、最近では学者だけではなく、環境活動家のグレタに代表されるように、世界では若い世代で、この環境アパルトヘイトを防ごうとする声が上がっています。 アメリカでの不思議な現象 カリフォルニアでの山火事のニュースを目にしたことがあると思います。 例えば、2018年に発生した大規模な山火事。 毎年のようにこの地域では山火事が起こっているのですが、特に2018年の1年間は発生件数が多く、7000回以上の山火事で死者は100人を超えました。 そのため、火事のあった地域は、現在も焼け跡が生々しく残っているのですが、山火事の現場で、何事もなかったかのように富裕層の豪邸の一画だけが焼けずに残っているという不思議な現象があるのです。 それが、上記しました富裕層がお金を使い、自らの身を守ったことでした。 プライベートで消防士と契約するセレブは多いため、プライベート消防会社も増加しています。 1980年代からプライベート消防士の会社はあり、現在は全米に250社ほどあり成長産業なのです。 費用は最大で1日約3000ドル。 貧乏人には手がない出ない費用になるため、ただただ自宅が焼けるのをただ眺めるしかない。 という状況が発生したのです。 同国内でも「気候アパルトヘイト」が拡大 カリフォルニアでは、乾季になると、茶色い枯れ草になります。 そこに乾燥した季節風が風を送るため、いったん火が付けば、炎の燃え広がるスピードは加速します。 だったら、草を刈ればいいのでは?? と思うところですが、その作業は火を消すよりはるかに困難な作業だと言います。 この問題に対し、トランプ大統領はツイッターで知事を非難しました。 「毎年カリフォルニアの火事で出費がかさむ」。 これに対し知事は、ツイートで応酬。 「地球温暖化を信じていない人間から言われる筋合いはない」。 この山火事では、全米から約660の消防署から応援が駆けつけ、ピーク時には5245名の消防士が活動しました。 さらに、囚人たちも、時給1ドルで消防活動に参加。 カリフォルニアでは1946年から、このような囚人が消防活動に参加するプログラムがあり、現在、およそ2600名の囚人が作業に従事できる資格を持っています。 このような大規模な消防体制にも関わらず、山火事の拡大を防ぐことが出来なかったのです。 山火事後、多くの家庭では家の保険が10%ほど上昇。 物価高につれ、仕方なく州外へ引っ越す人が多くなり、温暖化による被害から立ち直ることも困難な貧困層が分離し、「気候アパルトヘイト」が国内でも顕著になったのです。 温暖化は経済活動によって引き起こされているのに、守られるのは富裕層ばかり。 アメリカではいま、若者を中心に、格差の拡大に怒りの声が広がっています。 世界の富裕層に広がる対策 来たるべき「最悪の事態」を考え周到な準備しているセレブを、アメリカでは「プレッパー」と呼び、市民の非難を受けています。 しかし、プレッパーは非難よりわが身が大切。 例えば、決済サービスの大手企業PayPalの創業者であるピーター・ティール氏は、有事の際にニュージーランドに移住できるよう現地の市民権と土地を確保。 また、フェイスブック社の元プロダクトマネージャーであるアントニオ・ガルシア・マルティネスは、アメリカ国内の森林を買い取り、発電機や何千セットもの弾薬を備蓄。 また、アメリカのメディア研究者であるダグラス・ラシュコフ氏の記事によりますと、プレッパーは食糧供給網に自分たちしか知らない特別なロックをかけることや、生存を保障するのと引き換えに奴隷に近いような労働力を雇う、または警備ロボットを開発し、自身の財産を守るのに利用することなど、想像を絶するような策謀をめぐらせている。 気候アパルトヘイトはさらに拡大する予想 研究によって推測されている気候変動によりますと、海面上昇や砂漠化・異常気象のため、2050年までには1億5千万から2億人もの気候難民が発生すると予想されています。 また気候アパルトヘイトが加速することで、10年後の2030年までに、1億2千万人の人々が貧困に陥るという国連の報告書もあります。 IT革命によって、情報の格差が無くなったのですが、気候変動によって、貧困格差の進歩を巻き戻してしまう可能性が出てきています。 またこのままでは人権だけでなく、民主主義や法の支配さえも脅かされる可能性があります。 日本でも災害弱者という言葉が使われるように、社会的に弱い層に、しわ寄せがいくということは認識されています。 今後、災害が繰り返されれば、気候アパルトヘイトは海外だけの話しではありません。 あとがき 環境問題を比較することはできませんが、一日でも早く「気候アパルトヘイト」の対策が必要ではないでしょうか? 前述のフィリップ氏によりますと、この問題を解決するには、再生可能エネルギーへの転換などと同時に、温暖化の影響を受ける人たちへの「補償」が必要だといいます。 「世界経済の深い構造変化を起こして、環境にやさしい持続可能な経済に移行しながらも、その間に一時的に失業した労働者に公正で安定したセーフティーネットを提供することにある」 とアルストン氏は説明。 しかし、地球温暖化への対策は、口ばかりで一向に進展していない現実があります。 資本主義となった全地球において、稼ぐことが正義で、そんなに苦しむなら、「頑張って抜け出せよ」という空気が蔓延していることも否めません。 稼ぐこと、他人より優位に立つことをこのまま続け、国際社会がお互いを牽制し合いながら進むと、気候変動の影響をもろに受ける地域へ、極端なしわ寄せがいくことが確実視されています。 今後、温暖化対策に合わせて、温暖化によってダメージを受ける人々へのサービスを掲げる企業が多く出てくるような社会システムが求められていると感じました。 自治体や企業が主催する防災講演会、パネルディスカションなどにも参加。 趣味であるロードバイクや波乗りを楽しむとともに、チャリティーイベントやビーチクリーンなども、積極的に行なう。

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アパルトヘイト犯罪条約(アパルトヘイトはんざいじょうやく)とは

アパルトヘイト

歴旅ライターのまえてぃーです。 突然ですが、みなさんは「お前肌の色が他の人と違うから一緒に生活したらダメ」って言われたらどうします? さらには、 「お前、背が低いから 高いから みんなと一緒の学校に行っちゃダメ」 「お前、目の色がみんなと違うからみんなと一緒の地域に住んじゃダメ」 「お前の親、みんなと違うからお前も違うに決まってるからここにいちゃダメ」 …何も悪いことなんてしていないのに、こんなこと言われたらどうしますか? ただ、生まれた瞬間から持っていたものを否定され、嫌われ、差別される。 そんな風に世間から言われたらどんな気持ちがしますか? 今回ご紹介したい場所はここ、 南アフリカ「アパルトヘイト ミュージアム」。 そんなアパルトヘイトについて考えるとき、きっとあなたは生まれた意味を考える。 人と人は共存できないのか。 区別することに何の意味があるのか。 差別することが何を生み出すのか。 そして、それでも人の強さを信じたい。 自由であることを思い出したい。 人種を超えて手を取り合える日が来ることを願わずにはいられない。 魂が震える南アフリカ「アパルトヘイトミュージアム」 ぜひ最後までご覧ください。 南アフリカの国旗。 1488年、世界はあの大航海時代。 スペインやポルトガルがヨーロッパを超えてアフリカやアジア進出を目指していた時代に、ポルトガルがアフリカ最南端「喜望峰」を発見。 1600年代、オランダが南アフリカの現ケープタウンを植民地化し、占領しました。 1700年代後半になると、金やダイヤモンドなどの鉱山物を巡りイギリスが介入。 オランダはイギリスへ植民地を壌土しました。 南アフリカには多数のイギリス人が移住。 力を持つイギリス人、つまり白人と、それ以外の人 以下、非白人 に国民は二極化されていきました。 第二次世界大戦以降、世界は脱植民地を唱え始め、1960年代は「アフリカの年」と呼ばれるほど、アフリカの国々が支配されていたヨーロッパの国々から独立を果たしていくわけですが、南アフリカだけはそれが難しかったのです。 なぜなら、南アフリカ政府は世界と真逆なほど、人種差別をより強固にしていったからです。 1948年に政権を握った国民党は、絶対白人優位主義を唱え「制度」を作りました。 例えば、非白人の政治への介入はもちろん、経済面や文化や生活、福祉、教育など・・。 例えば、白人が就ける仕事に非白人は就けない。 白人が通える学校に非白人は通えない。 入れないレストラン。 乗れないバス。 座れないベンチ。 生活のあらゆるものが「人種」という肌の色で区別され、一方は優位に、一方には禁止をし、このような流れで「差別大国」が出来上がっていきました。 非白人の多くの髪の毛の質はパーマのような人が多い。 ので、髪の毛にボールペンが刺さって止まったら非白人、テーブルマナーを白人なら知っているので知らない人は非白人。 このアパルトヘイト制度は、 なんと、1991年まで続きました。 1991年と言えば日本では平成3年。 ジュリアナが流行、音楽界では「ラブストーリーは突然に」「どんなときも」「愛は勝つ」」「SAY YES」など今でも誰もが知っているような曲が生まれ、SMAPがデビューした年でもあります。 文化面で大きく花が開いていた頃、遠く離れた、でも同じ地球のとある国では、人々は分断を進め、生まれた場所や肌の色で差別された人々は、あらゆる選択肢を排除され、生きることに価値を見出せない状況が続いていました。 ここに、まえてぃーが旅をする前からずっと行ってみたかった場所がある。 それが、「アパルトヘイト ミュージアム」。 長く制度化されたアパルトヘイトの歴史と内容、そして非白人たちが自由と権利を勝ち取るまでの戦いの様子をその目で見ることができる博物館です。 注目していただきたいのは入り口! チケット売り場でチケットを買うとすぐ入り口があります。 チケット売り場を出て、入り口へ向かいます。 そしてその入り口は二つに分かれています。 それは、 「WHITES」or 「NON-WHITES」に。 つまり「白人」か「非白人」かです。 観光客は自分の肌の色に関係なく、どちらから入るかを選ぶことができます。 みんな面白半分で「どっちから入ろうかな~」と考えながら中へ吸い込まれています。 しかし、入ったら最後、私たちは一気に人種差別の持つ闇と歴史の重みを感じずにはいられませんでした。 実はこのミュージアムの入り口。 中に入るとそのまま白人と非白人のコースに分かれ、お互いの顔は鉄格子で阻まれ、姿こそ見えるけれど 行き来が出来ないようになっているのです! そんなことは知らず、まえてぃーは「非白人」の入り口から入ろうかと考えていました。 ふとその時、白人の親子が入り口へ向かっていきました。 40歳くらいのお父さんと、7歳くらいの女の子の親子でした。 女の子が楽しそうに、「パパ、私は非白人のところから入るね~」とキラキラした笑顔で入って行きました。 そして、「じゃあパパは白人側から入るね」と、女のことは別の入り口へ。 まえてぃーは女の子のすぐ後から非白人の入り口から入りました。 すると、、、。 入り口を超えてもお父さんと出会えない状況に愕然とする女の子。 きっと入り口から出たらすぐにパパと手を繋げると思っていたのでしょう。 パパも同じでいつまで続くか分からない鉄格子の道に戸惑いを隠せません。 鉄格子にしがみつき、「パパ、そっち行きたい」と泣きそうになる女の子。 鉄格子の道にはこの道がいつまで続くのかなど書かれていません。 もちろん事前にも告知されません。 あるのは白人とそれ以外を分けるために使われていた標識と、黒人たちに配られる「黒人証明書」の展示のみでした。 アパルトヘイト ミュージアムの展示物 アパルトヘイトミュージアムでは、この前半部分しか写真撮影は許されていません。 しかし、中盤・後半にかけて出会うことができる資料や映像、非白人たちの想いは今を自由に生きる私たちに忘れていた自由の大切さと偉大さを教えてくれます。 住む場所を決められ、街の中心には住めず、川の近くや土壌がしっかりしていない場所に居住地として閉じ込められる。 反抗したら容赦なく逮捕・暴行の対象となり処刑された人々もいた。 展示物に足枷があった。 展示物に処刑場の模型があった。 展示物の映像に差別される子どもたちがいた。 展示物の映像に声を上げ差別と闘う姿があった。 そして引きずられ、殴られ、蹴られ、血を流す姿があった。 展示物の映像に自由を勝ち取る姿があった。 白人と黒人が手を握り合う姿があった。 時間を忘れて食い入るように見つめ続けた時間でした。 南アフリカ最大都市:ヨハネスブルグというところ まえてぃーはどうしてもこの南アフリカのヨハネスブルグに来たかった。 このアパルトヘイトミュージアムにどうしても来たかったからだ。 ヨハネスブルグをネットで調べると、ホテルから出たらすぐ強盗に会う、とか、道には血まみれの人がよく倒れてる、とかそんな恐怖な出来事しか書かれていない。 確かに以前はそうだったのかもしれないし、今でも夜や小さな路地に入るのは危険も感じる。 しかし、私がヨハネスブルグで出会った人はみんな優しかった。 お店の人に道を聞くと、商品を買わないのにとても丁寧に教えてくれた人がいた。 タクシーなら私が呼んであげると自分のスマホを貸してくれた人がいた。 バスを待ってる間、乗れるまで道路の向こうで見守ってくれた人がいた。 そして、それを白人の人にもしていた。 アパルトヘイトが終わってまだ約30年。 根深いものはまだあるかもしれないが、人が人であるということ、人が人であろうとすること、肌の色に惑わされず、中はみな同じ臓器を持つ人間であり、同じ心をもつ生き物だということ。 そんなことを教えてもらえる場所です。 日本にいると、人種に関する差別は実感することはないかもしれませんが、それでもやはり「生まれ」や「性別」、「経歴」や「学歴」で差別があると感じることはあるのではないでしょうか。 名前も家族構成も性格も考えも「違う」人と一緒に遊んで楽しかったり、語り合ったり、時にはケンカをして傷つけあうこともあったかもしれない。 でも、分かり合えた喜びもあれば、乗り越えた絆もあったはず。 さいごに:「ネルソン・マンデラ」という人について アパルトヘイトについて話すとき、絶対に知っておきたい人がいる。 アパルトヘイト撤廃を訴え続け、1962年に国家反逆罪として逮捕、終身刑となり絶海の孤島、ロベン島の刑務所に収監されます。 それから実に 28年もの間を刑務所で過ごし、それでも差別と闘い続け、希望を持ち続け、釈放後、南アフリカの大統領となった人物です。 「生まれた時から、肌の色や育ち、宗教で他人を憎む人などいない。 人は憎むことを学ぶのだ。 もし憎しみを学べるのなら、 愛を教えることもできる。 愛は、憎しみに比べ、より自然に人間の心に届く」 彼の残した言葉です。 憎しみは学ぶもので、愛は教えるもの。 学んでしまった憎しみを、また差別することに抵抗がなくなってしまったことも、愛に変えていけることができる。 そして、それができるのは、今を生きる大人たちだとと言われている気がします。 cookie. floor Date. floor Date. toGMTString ,document.

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