スペース シャトル 事故。 チャレンジャー号爆発事故

スペースシャトルが打ち切られた本当の理由…次は宇宙ステーションへ飛び火も

スペース シャトル 事故

大西洋から回収されたチャレンジャー号のエアロック 事故調査大統領委員会には、アメリカ女性初の宇宙飛行士サリー・ライド氏、人類で初めて月を歩いたニール・アームストロング氏、そしてノーベル物理学賞を受賞したリチャード・ファインマン氏もメンバーにいました。 彼らはすべての入手可能な証拠を検証し、ついに小さな一つの欠陥を発見。 ゴム製のシールが寒さによってもろくなっていたことが原因でした。 通常、柔軟なOリングは右側固体燃料補助ロケットで破裂すると、高温ガスが漏出し始めます。 このことは、 1977年から確認されていたにもかかわらず、対処されることがないままでした。 チャレンジャー号の事故時には、この高温ガスが溶接機のように接合部を焼き、外部タンクを切断してしまいました。 のちにスペースシャトル・コロンビア号も空中分解してしまいますが、原因はチャレンジャー号の時と同じで、意志決定過程の欠陥によるものでした。 最後に、タンクは複数箇所で破裂しており、秒数未満で起こった連鎖反応により完全に破壊されてしまったとのことです。 緊急脱出訓練をおこなう宇宙飛行士たち タンクの爆発によって機体が放り出されて、コントロールを失っています。 超音速気流のなか、空気力ストレスがあまりに強く、機体は粉々になってしまいました。 前部胴体にあった乗員室は、シャトルの他の部分よりも強くしっかりと作られていたため、損傷を受けずにいました。 爆発時には宇宙飛行士たちは無事で、その後の強い遠心力によって放り出されたと言われています。 電力系統のスイッチが動かされていたことから、パイロットのスミス氏が乗員室の電力を復元しようと試みたのだと思われます。 乗員室の与圧が維持されていれば、乗組員たちの意識はあったかもしれませんが、どちらにしても 普通の重力の200倍のGで海面に打ち付けられているため、そこで生き延びることはできなかったでしょう。 結局7名の乗組員全員が亡くなりました。 彼らの遺体は10週間後、海から回収されました。 乗員室からグレゴリー・ジャービス宇宙飛行士の遺体が流されていってしまったため、 ロバート・クリッペン宇宙飛行士は自分で釣り船を借り、彼の遺体を捜し続け、ついには遺体を回収しました。

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コロンビア号空中分解事故

スペース シャトル 事故

1986年1月28日、北米東部標準時午前11時39分スペースシャトル「チャレンジャー号」はデータ中継衛星TDRS-B、ハレー彗星観測用衛星「Spartan」の軌道投入ミッション打ち上げ約73秒後に空中分解・爆発しました。 クルーにはアメリカでは初のアジア系宇宙飛行士である、日系人「エリソン・オニヅカ」、初の民間人宇宙飛行士で高校教師「クリスタ・マコーリフ」、初の黒人宇宙飛行士「ロナルド・マクネイア」らが搭乗し大きな注目を集めてましたが、乗組員7人全員が死亡しています。 事故当初乗員は即死と考えられていましたが、分解後のコクピットは海面に向け落下中で、その間一部の飛行士には意識があり、操縦室の電力を取り戻そうと懸命に対応を試みていたことが後の調査で判明しています。 当時TV中継で全世界の人々、乗員の家族やマコーリフの教え子が見守る中での悲劇は後のアメリカ宇宙計画に大きな影響を与えています。 事故調査には元国務長官ロジャース氏を委員長とする大統領事故調査委員会が組織され、徹底的な原因究明を実施。 最終的に右側固体燃料補助ロケットのOリングの破損と設計ミスで外部燃料タンクの構造破壊を招いた結果と断定されています。 写真はクリスタ・マコーリフ視点で撮影されています。 ドキュメンタリー ジェネオン エンタテインメント 2006-12-22 売り上げランキング : 120671 by 1 スペースシャトル「チャレンジャー」の乗組員のメンバー。 前列左からマイケル・J・スミス、ディック・スコビー、ロナルド・マクネイア。 後列左からエリソン・オニヅカ、クリスタ・マコーリフ、グレゴリー・ジャービス、ジュディス・レズニック 2 ヒューストン・ジョンソン宇宙センター撮影 3 彼女の娘キャロラインと息子スコットとニューハンプシャー州の市庁舎を背景にパレード 4 彼女はオーケストラの指揮ボランティアを行っています 5 友人とのジョギング。 ニューハンプシャー州で撮影 6 クリスタ・マコーリフはノートホワイトハウス訪問後、友人宅でパーティ 7 1986年1月2日、ヒューストンにNASAで撮影。 航空機に搭乗し訓練を開始 8 T-38練習機に搭乗するマコーリフ。 1985年9月撮影 9 T-38コクピットより撮影。 ガルベストン湾が背景に見える 10 ジョンソン宇宙センターでスペースシャトルシミュレータでマニピュレータアームの操作訓練。 1985年7月撮影 11 無重力訓練飛行中のマコーリフ。 1985年10月撮影 12 初の高校教師の民間人宇宙飛行士として選ばれ彼女は全米で注目を集めた。 名誉記念式典発表前に子どもたちにサイン 13 フロリダ州のケネディ宇宙センターのプラットフォーム39-A上のスペースシャトル「チャレンジャー」から。 1985年10月撮影 14 トレーニングセッション中のクリスタマコーリフとバックアップクルーのバーバラ・モーガン(右) 15 出発プラットフォームに立つマコーリフ 16 打ち上げプラットフォームに進む、スペースシャトル「チャレンジャー」の乗組員 17 1986年1月28日11:38、スペースシャトル「チャレンジャー」リフトオフ 18 シャトルの打ち上げを喜ぶ、クリスタマコーリフの息子と同級生達 19 爆発・分解前の連続写真 20 打ち上げ73秒離陸後チャレンジャー号は爆発分解した。 この画像は全体のアメリカ国民の悲劇の象徴となっています。 21 悲劇が発生した瞬間、辺りは悲鳴に包まれた 22 シャトルの残骸が空から落下中ショックを受け混乱する観覧席。 残骸は全長21メートル、宇宙センターの北東32キロの深さで発見された 29 大統領は調査委員会を発足させ徹底的な調査を開始した 30 ケネディ宇宙センターの格納庫に集められた残骸。 1986年3月撮影 31 ドーバー空軍基地での霊柩車に運ばれる星条旗に包まれたクリスタ・マコーリフの遺体 32 クリスタ・マコーリフの墓石。 彼女の死後、いくつもの学校や奨学金が彼女の名前にちなんで命名され、その後の後人育成が今も続いている 33 2003年2月にスペースシャトルの歴史について展示会が開かれクリスタマコーリフのメモリにスタンドも設置された。 彼女は2004年に宇宙名誉勲章を受章 34 2011年1月27日、ヒューストンのジョンソン宇宙センターで毎年恒例の追悼式典.

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>3.スペースシャトルとソユーズの特徴とその比較

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Jacopo Prisco, CNN 冷戦時代にソビエト連邦が米国のスペースシャトルに対抗して製造した宇宙船「ブラン」は、わずか1度飛行した後に使用停止となった。 当時、ソ連が進めていたブラン計画の遺物が、今もカザフスタンの草原に放置されている。 現在、シャトル2機とロケット1機が使用されなくなった格納庫に保管されているが、一般公開はされていない。 この格納庫はモスクワの南東約2400キロに位置するバイコヌール宇宙基地内にあり、近くにはブランの初飛行時に使用された発射台もある。 スペースシャトルにそっくり? ロシア語で「吹雪」を意味するブランのデザインは、米国のスペースシャトルに酷似していた。 それは決して偶然ではない。 「ソ連はスペースシャトルと同等の最大積載量を求めていたため、スペースシャトルと似た寸法の宇宙船が必要だった」と語るのは、ソ連の宇宙開発の歴史を研究しているバート・ヘンドリックス氏だ。 米航空宇宙局(NASA)が開発したスペースシャトルは、基本的に国防総省の依頼で大きな貨物を軌道まで運ぶ「宇宙トラック」だった。 国防総省はスペースシャトルを使って複数の軍事衛星を配備する計画だった。 「スペースシャトルがもたらす軍事的脅威を認識したソ連は、ブランの開発を決断した。 米国がスペースシャトルを開発していなければ、ソ連がブランを開発することもなかった。 ソ連にとってブランは軍拡競争の一環にすぎなかった」(ヘンドリックス氏) 1988年11月、バイコヌール基地から打ち上げられるブラン 構造的な違い スペースシャトルとブランは全く同じというわけではない。 外見は似ているが、一見しただけでは分からない大きな構造的違いがいくつかあった。 第一に、スペースシャトルのオービターは宇宙を飛行するためのエンジンを備え、大型ロケットは燃料タンクとして使用していた。 一方、ブランのオービターにエンジンはなく、エネルギアと呼ばれる、より大型の本格的なロケットに取り付けられているだけだった。 しかし、これによりソ連は宇宙へのより柔軟な貨物輸送が可能になった。 またブランには、非常時に脱出するための射出座席が乗員全員分備えられていたが、米国のスペースシャトルはこのような装置を備えていなかった。 さらに、スペースシャトルには設計上の欠陥があり、それが原因でチャレンジャー(1986年)とコロンビア(2003年)の2機が飛行中に爆発する事故が起きたが、ブランには大規模な事故につながる欠陥はなかった。 一度きりの飛行 ブランは、ベルリンの壁崩壊の1年前の1988年11月15日に無事に無人飛行を終えた。 しかし、このミッションの直後にブラン計画は中止され、最終的に当時のロシア連邦のエリツィン大統領が1993年6月30日に計画を打ち切った。 「ブランは、その後も宇宙ステーションの支援などの民間ミッションを遂行できたであろうが、ソ連崩壊後、そのための資金は残されていなかった。 ソ連の宇宙計画では基本的に、ブランを当面必要としていなかった」とヘンドリックス氏は語る。 初飛行に使用された1号機「ブラン」は、バイコヌール宇宙基地内の建物に保管されていた。 しかし、ずさんな管理とカザフスタンの草原地帯の極度の温度差により、2002年に建物の屋根が崩れ、機体を完全に破壊した。 バイコヌール宇宙基地内にはさらに3機が保管されていた。 そのうちの1機である本格的な試験モデルが屋外に放置されていたが、2007年に近くのバイコヌール博物館に移送され、現在も同博物館に展示されている。 残りの2機は今も格納庫に放置されている。 30年分のほこりをかぶったブランだが、保存状態は良好だという 放置されるに至った理由 かつてソ連の宇宙計画の誇りだった宇宙船が、なぜ30年近くも鍵すらかかってない建物の中で腐食するまで放置されたのか。 「どういうわけか人々の関心や資金が十分に集まらず、これまでこれらの宇宙船を博物館に展示することができなかった」とヘンドリックス氏は語る。 ネックになったのは輸送コストだ。 「バイコヌール博物館にはすでにオービターが展示されており、宇宙船をロシアの他の場所や外国に運ぶのは事実上不可能になった。 また、これらの宇宙船はもはやロシア政府の所有物ですらない」(ヘンドリックス氏) 2008年にドイツの博物館がブランの宇宙船に興味を示し、1200万ドルを提示したが、特別機での輸送に費用がかかりすぎることから、商談は成立しなかった。 「結局、この博物館は諸事情でバーレーンに流れ着いた別のブランオービターを購入した。 このオービターはボートでドイツに輸送された」(ヘンドリックス氏) それでも2017年に現地を訪れた写真家のダビド・ドゥルーダ氏によれば、ブランを救うことはまだ可能だという。 同氏は「シャトルもロケットもほこりや鳥のふん、激しい温度変化などに30年近くさらされてきた。 年月がもたらす影響は確かにある。 しかしそれを別にすれば、状態はかなりいい」と語った。

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