聖人 意味。 「聖人君子」とは?例えば誰のこと?語源や類語・対義語も解説

聖人伝(せいじんでん)とは

聖人 意味

それでは、「聖人君子」という語についてもう少し詳しく見ていきましょう。 まずは、「聖人君子」の語が持つ意味を知ることから始めていきます。 「聖人」と「君子」の2つの言葉を合わせたもの 「聖人君子」という言葉は、「聖人」と「君子」という2つの言葉をあわせたものとなっています。 「聖人」とは「最高の人格を持った人物」を意味する言葉です。 「最高の人格」は具体的に偉大で崇高な理想を持ち、政治的指導者としての高貴さを兼ね備えた人物としての品格を意味します。 なお、宗教でいう「聖人」とは意味が異なりますのできちんと区別しましょう。 一方、「君子」とは「聖人」の次に位置づけられる人のことで、優れた人格に加えて深い学識を持っている人物のことです。 よく「君子危うきに近寄らず」という言葉がありますが、そこに出てくる君子がここでいうものにあたります。 つまり、聖人君子とは「最高の人格と優れた学識を兼ね備えた人」を意味し、後で触れるように中国で生まれた儒教の中では人間の理想像とみなされている存在です。 「聖人君子」の語源はどのようなもの? 発祥は古代中国 四字とも音読みであることから「聖人君子」という言葉のルーツは古代中国にさかのぼります。 中国といえば漢字や中華料理などが生まれた地域であるとともに、儒教が生まれたところとしても非常に有名です。 儒教は今から2500年ほど前(紀元前500年ごろ)、春秋戦国時代の中国で孔子によって始められた社会思想体系で、礼儀をベースとしている特徴があります。 当時の中国は各地に諸侯が割拠しては相争う戦乱の時代で、戦乱を終わらせて平和な世の中を作る指導者が求められていました。 そこで孔子は礼儀を重んじ高潔な理想を掲げて、優れた学識を備えた人物が世の中を治めれば良い社会を作ることができると説きました。 その際に孔子や彼の思想を受け継いだ儒家の人々が理想の人物像としたのが聖人君子でした。 割と漢文でおなじみの言葉 さて、一見するととっつきにくい印象のある「聖人君子」という言葉ですが、実は私たちも割と接したことがある言葉であるともいえます。 中学や高校の国語の時間では必ずといって良いほど漢文の授業を受けますが、中でも孔子の言行録である『論語』は古典の教科書では必ず出てくる著書(執筆したのは孔子の弟子たち)です。 在りし日の孔子の言行録であるだけに『論語』には孔子が弟子たち、ひいては後世の人たちに向けて伝えた儒教のエッセンスがふんだんに詰まっています。 このため、「聖人君子」にまつわる言葉も登場回数は非常に多いです。 「聖人君子」という言葉そのものを見たことがないという方も、「君子」という言葉であればたくさん見聞きした記憶もあるでしょう。 『論語』では君子がどのような立ち居振る舞いをすべきかやどのような態度を持って生きていくべきかについて多く触れられているためです。 「聖人君子」の類語には何がある? 次に「聖人君子」の類語として挙げられる言葉が、「名僧知識」です。 「名僧」とついていることから、仏教由来の言葉であることがうかがえます。 「名僧知識」は「仏道の悟りを開いた立派な僧侶」という意味です。 ちなみに、ここでいう「知識」とは立派な僧侶に対する呼び方を指します。 ただ、悟りを開くほどの立派な僧侶であることから、学識面も優れているといえるでしょう。 「雲中白鶴」 文字の見た目から優雅な雰囲気を感じられる「雲中白鶴(うんちゅうのはっかく)」も「聖人君子」の類語の1つに数えられます。 意味は「世俗を超越した心の清らかな人」というもので、その点では先ほども触れた「名僧知識」に似ているといえるでしょう。 中国や日本などアジア各国では鶴は非常に美しく気高い鳥とみなされており、その鶴が美しく飛ぶ姿を気高く立派な人間にたとえた言葉が「雲中白鶴」です。 なお、非常によく似た言葉に「雲間之鶴(うんかんのつる)」というものもあります。 「品行方正」 「聖人君子」という言葉の対義語として最もしっくりくるのが「蕩児愚人(とうじぐじん)」です。 「蕩児愚人」も「聖人君子」と同じように、「蕩児」と「愚人」という2つの言葉が合わさってできています。 2つの言葉のうち「愚人」は文字そのまま「愚かな人」を意味しますが、「蕩児」とはどういう意味なのかがわからない方も多いでしょう。 「蕩児」とは簡単に言えば「遊び人」のことです。 つまり、働いたり勉強したりすることを怠って、遊んでばかりいる人間のことを指します。 以上のことから、「蕩児愚人」とは「遊んでばかりいる愚かな人」という意味になるため、「聖人君子」とは真逆の言葉といえるでしょう。 「小人」 「小人」といっても、子供に対する書き言葉での呼び方や、童話などに登場する背丈の小さい人という意味ではありません。 「小人」とは「つまらない人」や「凡庸な人」を意味し、儒教の世界ではあまり良い評価をされる対象ではない言葉とされています。 さらには、品性の面でも「聖人君子」とは真逆に下劣な人とみなされることも多いです。 ちなみに、この「小人」も「君子」と同じくらい古典(漢文)のテキストでは高い頻度で登場する言葉であるため、受験勉強をしている方はこの機会にあらためて覚えておくと良いでしょう。 「凡愚」 「凡愚」もまた「聖人君子」の対義語に挙げられる言葉の1つです。 こちらも、字の中に「頭が良くないさま」を意味する「愚」が入っていることから、「小人」の場合と同じように「つまらない愚か者」という意味があります。 もちろん、他人に対して面と向かって「凡愚」という言葉を使おうものならケンカになりかねませんので、極力使わないようにしましょう。 「聖人君子」の使い方とは? 「聖人君子」という言葉の意味が「最高の人格と優れた学識を兼ね備えた人」であるとともに、古くから理想的な人間像とみなされてきたことは先ほども触れました。 以上の理由から、「聖人君子」という言葉は他人をほめる時に非常によく使われます。 世の中にほめ言葉は多く存在しますが、目指すべき理想的な人間像であるだけにほめ言葉としての「聖人君子」は最大級の賛辞であるともいえるでしょう。 特に普段からよく評価しているような人から「聖人君子」というほめ言葉が出てきた場合は、素直に受け取っても良いといえます。 皮肉交じりに使う時 「聖人君子」という言葉は一見すると非の打ちどころのない理想的な人物にも見えることから、常にほめ言葉として使われるとは限りません。 むしろ、勉強も良くできる反面、規則をきちんと守るような真面目一徹な優等生タイプの人間に対して皮肉交じりに評価する場合でも使われます。 もし、ご自身が「あなたは聖人君子のようにご立派だ」と言われていても、それで素直に嬉しそうな顔をするのは少し考えものでしょう。 特に相手が日頃ご自身についてどのように評価をしているのかもよく考えたうえで、対応すると良いです。 陰でこっそり言われている場合はなおさら注意すべし ご自身が「聖人君子」という評価をされる際のシチュエーションとして、陰でこっそり言われている場合は、面と向かって皮肉交じりで言われている場合以上に注意が必要でしょう。 というのは、面と向かって言えないような評価だからこそ、面と向かって皮肉交じりでいう以上に悪い意味で「聖人君子」と評価されている可能性が高いといえるためです。 堅物なくらい真面目で、なおかつ知識が豊富な人物に対しては批判することはおろか、冗談を言うことができない人間は少なくありません。 そのような人物に何か言えば杓子定規な反応される場合も多いためです。 このため、話が通じないような人物に何も言えないことから、批判的な人たちがこっそりと「聖人君子」という評価をしている場合もあります。 気が付けば、悪い意味で噂されている場合もあり得ますので、噂として聞こえてきたらご自身について振り返ってみると良いでしょう。 謙遜する場合 謙虚であるというのは昔から日本人の美徳とされていますが、「聖人君子」という言葉は謙遜する場合でもよく使われます。 後で触れるように、「聖人君子」という言葉は否定形で使われる場合も多いです。 特に、周りの人間からやたらとほめられたり良い評価を得たりすることが多い場合は、謙遜の意味を込めて「そこまで聖人君子ではありませんよ」というように照れ隠しのように使うという方も大勢います。 「聖人君子」の例文をご紹介! それでは、「聖人君子」という言葉を使った例文について2つほどご紹介していきます。 特に現実によく使われる例を取り上げておりますので、ビジネスなどでもぜひご活用ください。 聖人君子ではない 自分自身のことを「聖人君子ほど立派ではない」という時によく使われます。 「聖人君子」は学識が豊富で、高邁な思想を持ち、立ち居振る舞いも立派な人間を指す言葉ですが、自分自身がそこまで立派ではないことをあえて強調する場合にこのような例文が出てくることが多いです。 特に自分自身が他人から我慢できないほど嫌なことをされて、怒りや悲しみを抑え切れなくなった場合に、「聖人君子のような立派な人間みたいに我慢はできない」という気持ちを伝える場合でもよく使われます。 聖人君子になりたい 一方で自分自身の目標を語るときに、「聖人君子になりたい」というように使うものもあります。 先ほども見たように、「聖人君子」は古くから理想の人物像とされてきました。 その理想にあやかって多くの人が「聖人君子」を目標とするのも無理もないことでしょう。 「聖人君子」と「聖人君主」の違いとは?.

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生きる意味・親鸞聖人のお答え

聖人 意味

田植え歌 親鸞聖人の田植え歌は、こちらです。 五劫思惟(ごこうしゆい)の苗代に 兆載永劫(ちょうさいようごう)のしろをして 雑行自力(ぞうぎょうじりき)の草をとり 一念帰命(いちねんきみょう)の種おろし 念々相続(ねんねんそうぞく)の水流し 往生の秋になりぬれば 実りを見るこそうれしけれ 親鸞聖人は、なぜこのような歌を作られたのでしょうか? 田植え歌の目的 田植え歌は、親鸞聖人が仏教を伝えるために造られた歌です。 農繁期になると、農家の方は、忙しくて仏教を聞きに来られなくなります。 現在でもゴールデンウィークの頃になると、田植えが始まります。 当時は、農業が主力の産業だったので、ほとんどの人が仏教を聞きに来ることができなくなりました。 そこで、親鸞聖人が農家の方の中に入られて、一緒に田植えをされて何とかお釈迦さまが一生涯説き明かされたの本願を伝えようと歌われた歌なのです。 縁がなければ伝えることはできません。 向こうから来られなければ、こちらから出かけていく。 そして話をする機会を作ります。 しかし、田植えをするだけでは、人間関係はできるかもしれませんが、それで終わりです。 目的は、仏法を伝えるためですから、田植えに関係する歌を作られて、その中に仏教の言葉を織り込まれたのです。 一言でも仏教の言葉を聞いて欲しい。 まずは意味が分からなくてもいいから覚えて欲しい。 そんなお気持ちから、親鸞聖人は、田植え歌を作られたのです。 田植え歌の意味 農家の方のされるご苦労 まず、「五劫思惟(ごこうしゆい)の苗代に」とあります。 苗代とは、モミダネをまくために幅1m位、土をずっと盛り上げた所です。 現在は、苗を買ってきて田植えをしますが、当時は自分でモミダネを苗代で発芽させていたのです。 「しろをして」というのは、田植えをするために、田んぼの土を柔らかくならすことです。 「草をとり」とは、せっかく田植えをしても、雑草が生えていては、そちらに養分が行ってしまいます。 そこで、稲を育てる為に邪魔な草を取る必要があります。 「たねおろし」とは、もみだねを蒔くということです。 「水流し」とは、稲が育つ為には、水が必要です。 用水路から、田んぼに水を供給し続けます。 これは農家の方がされる稲作です。 それに対して、「 五劫思惟」とか「 兆載永劫」は、阿弥陀仏がされたということです。 五劫思惟(ごこうしゆい)の苗代に まず「五劫思惟(ごこうしゆい)の苗代に」の「 五劫思惟」とは、阿弥陀仏が五劫の間思惟されたということです。 一劫は、4億3200万年ですので、その5倍です。 気の遠くなるような長い期間、苦しみ悩むすべての人を助けてやりたい。 それにはどうすればよいか、考えられたのです。 阿弥陀仏は、考え抜かれて苗代を作られたということです。 兆載永劫(ちょうさいようごう)のしろをして 次に「兆載永劫(ちょうさいようごう)のしろをして」とあります。 その阿弥陀仏がつくられた苗代にしろをされるというのは、兆載永劫という五劫よりも長い間です。 稲の苗ができたら、田植えができる田んぼにしなければなりません。 それは苗代よりずっと面積が広いので、「 五劫」よりずっと長い、「 兆載永劫」というものすごく長い間かかって、たねをまいても芽が出やすいように田んぼの土をわらかくされたということです。 雑行自力(ぞうぎょうじりき)の草をとり 次に「雑行自力(ぞうぎょうじりき)の草をとり」とあります。 阿弥陀仏が、しろをした田んぼに、雑行自力という名前の草が生えていたので、むしり取って下された、ということです。 これは、田んぼにたとえられていますが、毎年作っている田んぼには木の根っこや大きな石はありません。 本当は私たちの心は、盤根錯節(ばんこんさくせつ)した山のようなところで、色々な木の根っこが入り組んでいます。 くわで耕そうとしても、くわが根っこにはさまれ、動かすことができません。 大きな石が、ごろごろしています。 その盤根錯節した心の畑を開墾して、仏のたねを植えようとされているのです。 私たちは、もわからず、悪いことがあると、他人を怨んでいます。 木の根っこが重なり合っているような状態です。 その木の根っこを掘り起こして、だんだん田んぼや畑らしくなってきます。 すると石が出てきます。 はじめはこれ位なら取り除けると思って掘り進んでいくと、ものすごく大きな石が地面の中に隠れています。 因果の道理が全然信じられません。 それを因果の道理を教えて、導いて行かれるのに兆載永劫、阿弥陀仏はかかられた、ということです。 一念帰命(いちねんきみょう)の種おろし そして次に「一念帰命(いちねんきみょう)の種おろし」とあります。 阿弥陀仏が「 一念帰命」というたねを、しろをした田んぼにまいて下されたということです。 一念帰命のたねというのは、仏だねのことで、「 名号」のことです。 「 名号」とはのことです。 この一念帰命の名号が下ろせなければ、は出てきません。 阿弥陀仏が五劫・兆載永劫のご苦労をされて、たねをまける状態になって、名号を一念で与えてくだされる、ということです。 一念とは、名号を頂く何億分の一秒よりも短い時間のことです。 名号を頂いた瞬間、人間に生まれてよかったという生命の歓喜が起きて、絶対に変わらない幸福の身になります。 念々相続(ねんねんそうぞく)の水流し そうすると次は「念々相続(ねんねんそうぞく)の水流し」です。 農家の方は、せっかくおろしたたねが枯れたら困るから毎日毎日、念々に水絶やしません。 続けて、田んぼへ水をはられているのです。 名号の仏だねを頂くと、救われた喜びから、お礼を言わずにおれなくなります。 「念々」というのは、「 念仏」のことなのです。 阿弥陀仏に対する救われたお礼の言葉は「 南無阿弥陀仏」です。 「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」とお礼の念仏を称えずにおれなくなります。 それを水を流すのにたとえられています。 それも、阿弥陀仏がされたことです。 往生の秋になりぬれば 次に「往生の秋になりぬれば」とあります。 「 往生」とは、死んで阿弥陀仏の浄土へいって、弥陀同体(みだどうたい)のに生まれるということです。 名号を頂いて、お礼の念仏を称えている人が、死ねば極楽浄土へ往って、弥陀同体のを開きますから、「往生の秋」がくるのです。 実りを見るこそうれしけれ それが阿弥陀仏のご苦労なされた目的ですから「実りを見るこそうれしけれ」と言われています。 農家の方がされる目的は、おいしいお米とる為ですから「 みのり」が目的です。 阿弥陀仏は私たちの「 往生」が目的ですから、阿弥陀仏がお喜びになります。 往生させて頂いた私たちも、もちろん喜びますが、一番喜ぶのは、阿弥陀仏です。 私が往生したことによって、阿弥陀仏の大変なご苦労が報われるのですから、喜ばれるのは、阿弥陀仏です。 それで「実りを見るこそうれしけれ」と言われています。 これらはみんな、 私たちを救う為に阿弥陀仏がなされている色々のご苦労です。 親鸞聖人はこのような歌を造られて、皆さんに仏法伝えにゆかれたということです。 この親鸞聖人が教えられた中で一番大事なのは、 一念帰命です。 名号を頂いた一念に、絶対の幸福になり、死ねば極楽へ往生できるのですから、私たちも一念帰命のたねをおろして頂かなければなりません。 では、どうすれば、一念帰命のたねをおろして頂けるのか、それについては以下のメール講座でご覧ください。

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親鸞聖人の田植え歌の意味

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(質問):「平生業成」とは、何ですか? (解答) あなたはと聞いたら最初に何を思い浮かべるでしょうか。 葬式、法事、墓など、死者儀礼や供養を思い浮かべる人が多いと思います。 しかし実は仏教には、生きているときに大切なことを教えられています。 「平生業成」という言葉があります。 「 平生業成(へいぜいごうじょう)」とは、の教えを漢字4字で表した、いわば 「一枚看板」とされている言葉です。 看板は、その店が何を売っているかを示しています。 例えば「八百屋」という看板があれば、野菜が売られているのだな。 「タバコ店」とあれば、タバコを売っているのだなと分かります。 もし魚屋さんに「タバコ店」という看板が出ていたら、どうなるでしょうか。 タバコを買いに来た人は、タバコがありませんから腹を立てて帰っていきますし、魚が欲しい人はだれも来ませんから、その店は倒産してしまうでしょう。 ですから、看板は非常に大事なものだと分かります。 「平生業成」の漢字4字は、 の教えを知るのに、大変大切な言葉なのです。 (質問):「平生業成」とはどういう意味ですか? (解答) 平生業成の「平生」とは、 死んだ後ではない、生きている現在ということ。 「業」とは、卒業とか事業の業の字を書いて、では 「ごう」と読みます。 は、 人生の大事業のことを「業」と言われています。 大事業といっても、秀吉や家康の天下統一の事業や、松下幸之助氏がやった事業などではありません。 人生の大事業です。 人生の大事業とは、何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、苦しくともなぜ生きねばならないのか、という 「人生の目的」のことです。 その答えを、はハッキリと示されています。 最後の「成」とは、 完成する、達成するということですから、「平生業成」とは、 まさしく「人生の目的が、現在に完成する」ということです。 ほど、人生の目的と、その完成のあることを強調された方はありません。 「 人間に生まれたからには、これ一つ果たさなければならない大事業がある。 それは現在、完成できる。 だから早く完成しなさいよ」と生涯教えられたのがですから、聖人の教えを「平生業成」というのです。 何のために生まれてきたのか。 何のために生きているのか。 苦しくともなぜ生きねばならないのか。 「人生の目的」を、は明らかにされています。 まとめ の教えは「 平生業成」と言われ、「平生業成」とは 「人生の目的が、現在に完成する」ということです。 が教えられたことは私たちが生きている目的、人生の目的があることと、それが生きているただ今完成することです。 ではその、親鸞聖人の教えられた「人生の目的」とは何でしょうか。 こちらの記事で解説しています。

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