立ち わかれ いなば の 山 の 峰 に お ふる。 百人一首/中納言行平(ちゅうなごんゆきひら)

在原行平 千人万首

立ち わかれ いなば の 山 の 峰 に お ふる

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猫が行方不明になった時に行った2つのおまじない

立ち わかれ いなば の 山 の 峰 に お ふる

意訳:お別れです。 わたしは因幡の国へ参ります。 でも、皆さんがわたしを待っていると聞いたなら、すぐに帰ってきますよ。 歌の詳細はこちらをご覧ください。 百人一首アプリ「初めてかるた」の読み上げ画面です。 声楽家根來加奈さんの、正しい、はっきりした発音をお楽しみ下さい。 アプリ情報はこちらをご覧ください。 根來加奈さんのFacebookはこちら。 根來加奈さんのサイトはこちら。 This is the screen of the application "First Karuta". Miss Kana. Negoro who is vocalist reads Ogura Hyakunin Isshu in the correct and clear pronunciation. Please enjoy!

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猫が行方不明になった時に行った2つのおまじない

立ち わかれ いなば の 山 の 峰 に お ふる

稲葉山は宇部野山、あるいは上野山とも呼ばれ、その昔多くの歌人に詠まれた山である。 特に因幡の国主であった中納言行平(在原行平)の詠んだ「立ちわかれ いなばの山の 峰におふる まつとしきかば 今かへりこむ(お別れして、因幡の国へ行く私ですが、因幡の稲羽山の峰に生えている松の木のように、私の帰りを待つと聞いたなら、すぐに戻ってまいりましょう)」は、百人一首の16番歌である。 なお、この歌を紙に書き、玄関に貼っておくと、居なくなった猫が帰ってくると言われ、昔から猫返しのおまじないとして知られている。 宮ノ下地区公民館へ駐車 登山口は宇倍神社 稲葉山の登山口は、鳥取市国府町の因幡国一之宮の宇倍神社で、駐車地として宮ノ下地区公民館の駐車場が使えるので、車を置いて登山を開始した。 宇部神社の前に着き、左に神社入口を過ごす。 舗装された車道を折り返しながら、緩やかに高度を上げる。 中国自然歩道の案内 七宝水 やがて進路が北東にまっすぐ向くと、左に宇倍神社から0.5Km、稲葉山へ2.2kmの案内が現れる。 この道は中国自然歩道で、もう少し進むと、右に七宝水があった。 ただし、水量はとても少なく飲める状態ではなかった。 鳥取藩主池田家墓所の案内(クリックで拡大) 作業小屋を過ごす 更に進むと右カーブとなり、この起点には「稲葉山へ2km」の案内と左に向かえば、「池田家墓地へ0.7km」の案内が置かれていた。 この先で「行平塚」の案内を過ごして更に進むと、右に作業小屋を過ごす。 作業小屋先から展望が開けている 頭上を樹林が覆う 作業小屋から少し進んだ地点で背後を振り返れば、樹林の上に市街地が広がっていた。 このコースでは、ほとんど展望は望めそうにないので、つかの間の展望を楽しむ。 舗装道を黙々と進めば、やがて右に稲葉山と宇部神社にそれぞれ1kmの案内を過ごす。 この案内は中国自然歩道の案内とは違う種類のようだ。 稲葉山が見えてくる(クリックで拡大) 鳥取市街の展望(クリックで拡大) 頭上を覆っていた樹林が切れると左右に畑地が現れ、まっすぐな舗装道の先に稲葉山が現れた。 とても明るい雰囲気なので、これまでの舗装道歩きが報われた思いがする。 再び頭上を樹林が覆い、右カーブを描きながら進んでいると、稲葉山の案内が掲示されていた。 登山道の左右に畑地が続く 稲葉山の案内 案内を眺め、更に舗装道を進む。 間もなく舗装道のピークを越えれば左に平坦な場所が現れる。 稲葉山の三角点は右側のピークに置かれており、ピークへ向かう踏み跡は確認したが、展望の無いことは間違いないのでピークを目指すのはやめて展望広がる草原へ向かう。 間もなく稲葉山のピーク 三角点へ向かう踏跡 山頂広場 久松山などの展望(クリックで拡大) 草原からは北西に向かって展望が広がり、久松山やアンテナの置かれた本陣山が見えている。 また、久松山の左側には市街地が広がり、遠く日本海まで眺めることができた。 稲葉山からの展望を確認することができたので下山を開始。 何も心配の無い舗装道を下っていると、山頂下には畑地が多いことに気づく。 平坦な場所を有効利用して野菜を栽培しているのだろう。 宇倍神社へ参拝 山頂から下山後に因幡一之宮の安部神社へ参拝、この神社は古くから福徳長寿、厄除けの神として病気平癒、交通安全や子供の成長を祈り、さらに志を打ち立てる社として広く崇敬されている。 神社の案内によれば、宇倍神社は、孝徳天皇大化4年の創建と伝えられ、平安時代にまとめられた延喜式では鳥取県で唯一の名神大社、また一の宮として信仰を集め、明治4年に定められた制度により国幣中社に列せられた。 現在の社殿は明治31年に完成し、翌32年には全国の神社では初めて、御祭神である武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)の御尊像と神社拝殿が共に五円紙幣に載せられ、以後大正・昭和と数回宇倍神社が五円・一円紙幣の図柄となっている。 お金に御縁があり、商売繁昌の神様として全国からの参詣が絶えないとのことである。 畑地の先に稲葉山 山頂から鳥取市街 宇倍神社 前の山 を見る 次の山 を見る 歩いた足跡 登山口周辺の地図はこちら 鳥取県鳥取市 稲葉山.

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