中日ドラゴンズ どら報。 [B!] 山本昌さん、Jリーグのハーフタイム中にラジコンで遊ぶ : どら報@中日ドラゴンズまとめ

中日ドラゴンズ選手名鑑

中日ドラゴンズ どら報

球団の歴史 [ ] 株式会社中日ドラゴンズ CHUNICHI Dragons Company, Limited 本社所在地 〒461-0047 一丁目1番51号 設立 1936年1月15日 (名古屋軍として設立) 事業内容 興行事業、野球振興事業、商品企画販売イベント事業など 代表者 オーナー 代表取締役社長 矢野博也 球団代表 加藤宏幸 主要株主 外部リンク 特記事項:1960年2月に株式会社中日ドラゴンズに商号変更。 1リーグ時代 [ ] 横浜に選抜軍が来日した、が大日本東京野球倶楽部(1936年にに改称)を日本のプロ野球球団として結成。 それから遅れること2年、にを親会社として 名古屋軍(なごやぐん)が誕生した。 を総監督()に迎え、が監督に就任。 の、アメリカ人での、内野の名手・、日系アメリカ人の、主将の、スローボーラー・らが初期メンバー。 上述のメジャーリーグ選抜軍来日時に、読売新聞社社長・が新愛知新聞社の田中斎に名古屋でのプロ野球球団結成の働きかけを行ったのが球団誕生の契機。 新愛知新聞社傘下のでもを結成。 当初、読売のが推し進めていた(現在のの源流)とは別個に、独自リーグの 大日本野球連盟を組織して各地に同様の球団を4球団結成し、配下にはに相当する下部組織を作るなどの、当時としては先進的な構想を抱いていたが頓挫。 結局、上記の既存の2球団が正力が設立した日本職業野球連盟に加盟することになった。 当初の商号は名古屋軍が 株式会社大日本野球連盟名古屋協会、大東京軍が 株式会社大日本野球連盟東京協会であり、大日本野球連盟構想の名残が見られる。 、日本職業野球連盟が結成された。 、河野が球団を去りを結成すると、中根、ハリス、高橋らが後を追い、池田も混乱を嫌って監督を辞職。 後任監督は桝嘉一。 主力が抜けたことでチームは低迷し、慢性的な選手不足の戦前職業野球において、、、、など好成績を残す選手が隙無く台頭したが、チームの総合力は東京巨人軍やに及ばなかった。 、戦時下のでこの球団の親会社である新愛知新聞社とまで活動したの親会社であるが統合し、が発足。 合併に伴う本社人件費の増大により球団経営見直しの声が挙がり、球団への投入資金は大幅減少。 また、新聞社の営利事業兼営が認められなくなったため、中部日本新聞社取締役の(旧新愛知新聞社の創業家出身)が個人的に出資してのシーズンを終えることはできたが、大島個人の財力には限界があり、名古屋軍理事のが球団・選手を一手に引き受け、に球団を理研工業(旧を母体とするの一企業)の傘下に入れ、選手を同工業に就職させた。 球団名を 産業軍(さんぎょうぐん)に改称し、選手は工場で勤労奉仕をする傍ら試合を行った。 産業軍の選手も他球団同様例外なく多くが兵役に駆られ、で戦死した をはじめ、戦禍に散った。 11月、大島が球団スポンサーに再度就任し、2月1日のリーグ戦再開に伴って中部日本新聞社が経営に復帰。 株式会社中部日本野球倶楽部を設立し、球団名を 中部日本(ちゅうぶにっぽん)として再出発。 は 中部とした。 同年、現役遊撃手のが監督に就任し、球団史上初のとなっている。 のニックネーム導入にあたり、3月10日当時のオーナーだった杉山虎之助(中部日本新聞社社長)のであるの英訳「ドラゴン」から球団名を 中部日本ドラゴンズ(ちゅうぶにっぽんドラゴンズ)に改称し、が野手に投手に大車輪の働きをみせて戦後すぐの球団を支え、2位に終わる。 しかし、オフの11月1日付で解雇された赤嶺が退団すると、赤嶺を慕う、、、ら11選手も退団し、も巨人に復帰。 またしてもチーム力が低下。 退団した赤嶺一派は各球団を渡り歩き、 と言われる混乱を巻き起こした。 には球団名を 中日ドラゴンズ(ちゅうにちドラゴンズ)に改称したが、同年は球団史上ワーストタイ記録となる83敗を記録し 、最下位に低迷した。 オフに木造の が完成。 翌シーズンより球団初の本拠地として使い始めた。 はが監督に就任し、が入団。 西沢道夫が打者として中日に復帰。 1949年シーズンオフ、日本プロ野球は、に分裂、2リーグ制となり、中日はセ・リーグに所属することになる。 詳細は「」を参照 セ・リーグ加盟 [ ] 、に倣い球団と球場を同一経営することとなり、中日球場を経営していた株式会社中日スタヂアムに合併され、商号が名古屋野球株式会社となった。 この年は球団史上最多となるシーズン89勝を記録したが 、に及ばず、8球団中2位に終わる。 この年が、パ・リーグのに吸収合併されたことでセ・リーグは、7球団体制になる。 、名古屋野球株式会社から株式会社名古屋野球倶楽部が分離。 より(名鉄)が球団経営に参加し、球団名も 名古屋ドラゴンズ(なごやドラゴンズ)に改称。 名鉄と中日新聞が隔年で経営することとなり、この年は名鉄が経営を担当。 に試合中の火災で全焼した中日球場(中日球場で予定されていた残りの試合はなどに変更して行われた)は、オフに鉄筋コンクリートで再建された。 この年は、優勝した巨人に18ゲーム差をつけられての2位。 中日新聞社が経営し、巨人・大阪との優勝争いの末、7ゲーム差で3位に終わる。 の戦()でが1試合6盗塁の日本記録を樹立。 名古屋鉄道が経営し、とが合併し、セ・リーグは6球団体制となる。 このシーズンは3位に終わる。 中日スタヂアムのナイター設備が完成し、の戦で初ナイターを開催。 第1次天知監督時代 [ ] 前年12月19日に今後は中日新聞が球団経営を行うと決定していたのを受け、1月14日に株式会社中部日本野球協会に商号を変更して、球団名も 中日ドラゴンズに戻した。 1月30日には、名古屋鉄道が球団経営から撤退した。 監督は、天知俊一が3年ぶりに復帰した。 天知監督は選手からの人望が篤く、監督を親分に見立て「天知一家」と俗称された。 西沢道夫・・杉下茂・らが主力となり、活躍した。 、大阪球場での対阪神戦は、観客が球場に乱入し、放棄試合が宣告された。 、中日球場の巨人戦はがテレビで初の中継をした。 に2位の巨人が敗れたことで初優勝達成。 その日は東京遠征の移動日であり、監督・選手らは到着後、電報で優勝を知ることとなった。 この年の観客動員は109万7千人で、球団史上初めての100万人を突破している。 同年の勝率. 683は2019年時点で球団最高記録である。 では、を相手に4勝3敗で初の日本一達成。 しかし、この年のオフに天知は体調不良を理由に監督を退任 し、中日球団の副代表に就任した。 優勝した巨人と8ゲーム差の3位。 、、ら打線の中心となるベテラン勢の衰えが目立ち、チーム打率は2割2分8厘、本塁打は52本と、とが20勝をマークした投手陣の足を引っ張る形となった。 、 1954年に日本一に導いた天知俊一が監督に復帰したものの、3位が続いた。 1958年オフ、この年の選抜高校野球大会において83奪三振で奪三振の大会記録を作ったが入団。 杉下監督時代 [ ] エース杉下茂が監督に就任。 球団の方針により30歳以上の選手が全員解雇となり、杉下も選手兼任が認められなかった。 同時に西沢道夫の15番と服部受弘の10番が永久欠番に制定される。 による中日球場水没で公式戦の一部を他会場に振り替える。 、、ら若くて威勢のいい投手陣に、野手は捕手で入団した新人のを一塁で起用、入団2年目のを三塁や遊撃に抜擢した。 この年は、優勝した巨人と10ゲーム差、大阪と同率の2位。 に商号を株式会社中部日本野球協会から株式会社中日ドラゴンズに変更。 投手陣が崩れ 、優勝した大洋と9ゲーム差の5位。 杉下監督は退任し、大毎に移籍した。 濃人監督時代 [ ] が監督に就任し、より入団した新人・の活躍で巨人に1ゲーム差と迫るが2位。 日本プロ野球で初めて、元大リーガーのとを入団させるが3位。 杉浦監督時代 [ ] 優勝した巨人と2. 5ゲーム差の2位。 全球団に勝ち越しながら優勝を逃したのはセ・リーグ初。 開幕カードとなった3連戦で30失点したのが響き、3月の9試合を2勝7敗と開幕ダッシュに失敗。 以降も立ち直れず、1948年以来2度目となる球団ワーストタイ記録の83敗を記録し 、2リーグ分立後初めてとなる最下位に終わる。 なお、同シーズン途中からは西沢道夫が監督を務めた。 西沢・水原監督時代 [ ] - 西沢監督の下で3年連続2位と健闘する(1967年に西沢が監督を途中休養し、が監督代行を務めたが2週間ほどで復帰)。 キャンプイン直前に西沢監督がの悪化により辞任、が監督に復活。 からまで9連勝するが翌日から8連敗を喫するなどチーム状態が安定せず。 、ノースリーブユニフォームが登場した戦で連敗が止まるが、から11連敗。 に止まったものの翌日から連敗。 3回目の7連敗となったに杉下監督が解任。 二軍コーチが監督代行となるもののから再び11連敗を喫するなど立ち直る気配が見られず、2リーグ分立以降初めて同一リーグの全球団に負け越しての最下位となる。 オフに元・監督のが監督に就任。 では1位で、3位で、6位で、9位でと、後にの優勝に主力として活躍する選手を獲得。 しかし水原監督下で育った選手が以降大きく開花し、の優勝につながっていく。 与那嶺監督時代 [ ] 中日スタヂアム時代のナゴヤ球場は中日新聞社の関連会社・株式会社中日スタヂアムが運営していたが、1970年代頃からほかの事業がうまくいかず経営が悪化。 1973年に社長がの志摩海岸で自殺していたのが発見され、倒産していたことが発覚(倒産後発生した同社の不渡手形をめぐる恐喝・殺人事件についてはを参照)。 当時東海地方に主催試合を行える球場がなかったためたちまち本拠地消失の危機を迎えてしまったが、債権者の同意を得て1974年・1975年のシーズンを乗り切ることができた。 そして、に中日新聞社と中日のグループ会社で地元の中継権を持つ・・、地元・およびの財界の雄、やなど東海地方の有力企業が共同出資し、新たな運営会社・株式会社ナゴヤ球場が設立されて中日スタヂアムの運営を引き継ぎ、球場名もナゴヤ球場と改称され1996年まで本拠地運営した。 、 1972年からヘッドコーチが監督に昇格。 与那嶺監督、ヘッドコーチともにから中日に放出された経験があるため、巨人に対しては闘志をむき出しにし、2年連続で勝ち越してを苦しめた。 、、、、らが活躍し、巨人のV10を阻止して20年ぶり2回目のリーグ優勝を果たした。 しかしではに2勝4敗で敗退。 巨人()以外の5球団が入れ替り立ち替りで首位に立つ「5強1弱」のペナントレースでと最後まで優勝を争ったものの、「赤ヘル旋風」の前に2位で終わり連覇を逃す。 のに全く馴染めず、後楽園での対巨人戦に全敗したのが響いて4位、Bクラス転落。 シーズン終了後、ヘッドコーチが辞任。 阪急との大型トレードが歴史的な失敗に終わり(放出した島谷が打率. 中監督時代 [ ] が監督になる。 髙木が2000本安打を達成するも、その直後に相手選手と衝突して離脱、谷沢がアキレス腱痛で長期離脱し、大島も死球で左手小指を骨折するなど主力野手に怪我人が続出した。 初年度は5位 大島が打率. 317、36本塁打、103打点と活躍し、髙木も打率3割を打ち、投手陣も2年目のがリリーフに定着、3位とAクラス入りを果たす。 アキレス腱痛で長期離脱していた谷沢がシーズン終盤に復帰。 がに輝く。 谷沢が打率. 369を記録し、を受賞するも、前年度新人王に輝いた藤沢が大不振に陥るなど、投打共に振るわず、球団ワーストとなる開幕6連敗を記録するなど12年ぶりの最下位に沈んだ。 同年は1950年以降で球団史上最低勝率(. 372)を記録し 、中監督は同年限りで辞任。 この年、髙木守道が現役引退。 近藤監督時代 [ ] が監督に就任。 初年度は5位に終わる。 星野やなどのベテランに代わり、や、らの若手を登用した。 他の野手ではや、、、谷沢ら、先発には、ら、リリーフにはの活躍があった。 「野武士野球」と呼ばれる攻撃的な打線、継投を駆使する投手起用を見せた。 シーズン後半になると巨人との優勝争いになるが、日本プロ野球記録の19引き分けを記録したため、シーズン終盤に2位で優勝が点灯。 、での対最終戦は中日が勝てば中日優勝、大洋が勝てば巨人優勝という天王山。 この試合はの完封勝利によって8年ぶり3度目のリーグ優勝達成。 2位の巨人とは0. 5ゲーム差という大接戦だった。 最終成績は64勝47敗19分け(130試合)だが、全試合の半分に満たない勝利数で優勝したのはのに次いで2チーム目である。 また、この試合で田尾安志が大洋から5打席連続敬遠を受け、を逃した。 中尾孝義がを獲得した。 はと対戦、2勝4敗で敗退。 この年限りで星野仙一、木俣達彦が引退。 戦力不足からチームは5位に終わり退任。 山内監督時代 [ ] 前年のシーズンオフにが監督に就任。 巨人戦に14連勝するなどして、優勝した広島と3. 0ゲーム差の2位となった。 球団創設半世紀となったこの年は谷沢が球団史上2人目の通算2000本安打を達成したものの、5位に終わった。 2年連続5位。 山内はシーズン途中で休養に追い込まれた。 開幕から監督を務めていた山内のシーズン途中での休養を受けて、シーズン終了まで髙木守道ヘッドコーチが監督を代行した。 第1次星野監督時代 [ ] 1986年 シーズンオフに星野仙一が監督に就任。 牛島、上川、、との4対1トレードにより、から2年連続三冠王のを獲得する。 からがドラフト1位で入団。 との提携によりユニフォームをドジャース風に変更。 新人の近藤真一が、8月9日の対巨人戦でプロ初登板初先発を達成。 5月には一時的に首位に立つも、巨人の猛烈な追い上げの前に、最終的には2位。 広島には10年ぶりに勝ち越した。 シーズンオフに大島康徳と平野謙を放出。 また、この年甲子園で春夏連覇を果たしたPL学園の主将、がドラフト1位で入団。 4月終了時点で首位広島に8ゲーム差の最下位、7月8日に6連敗で29勝31敗2分で借金2。 しかし翌日以降巻き返し、結局50勝15敗3分、勝率. 769で10月7日に逆転で6年ぶり4度目の優勝。 生え抜き監督での優勝は球団史上初。 平野謙との交換トレードで西武から移籍したがで、小松と共に先発陣を牽引。 リリーフ・が44セーブポイントでMVP。 立浪が新人王に輝いた。 では西武と対戦、第1戦・第5戦先発した小野を筆頭に第2戦の小松以外の先発投手が打ち込まれ、落合、宇野の不振もあり 、1勝4敗と敗退。 - は3位、優勝した巨人に5年ぶりに勝ち越し、との交換トレードでから移籍したが20勝で最多勝。 は4位とBクラスに沈むも、は優勝した広島と3ゲーム差の2位。 同年オフ、星野仙一は健康上の理由で監督を退陣。 第1次高木監督時代 [ ] 髙木守道が監督に就任。 この年のセ・リーグはまれに見る混戦だったが、成績は60勝70敗で12年ぶりの最下位。 この年、中日を扱ったアメリカ映画『( Mr. Baseball)』(主演、監督)が公開されている。 シーズン終了後、西本聖が戦力外通達、自由契約。 とのダブル左腕エースが共に17勝で最多勝、今中は、山本はのタイトルも獲得。 しかし、前半戦で2位以下に大差をつけて独走したヤクルトが優勝、中日は2位に終わる。 シーズン終了後、落合が巨人に移籍。 シーズン中盤まで巨人との首位争いとなったが、8月18日からの8連敗となり、9月に入るとこの年に任期が切れる髙木監督の後任として星野仙一の名が報じられたが、9月20日からの9連勝などで首位の巨人に並び、、史上初の最終戦同率首位決戦()となった。 試合は3対6で敗戦し2位に終わった。 この年はが首位打者、がと、山本昌が最多勝、郭源治が最優秀防御率のタイトルを獲得。 髙木監督も契約延長となった。 シーズンオフにFAでが入団(中日では初のFA入団)。 チームは前年から一転不振に陥り、6月2日の対阪神戦の試合前に髙木守道が監督を辞任。 その後が監督代行となるも、7月23日には解任され、二軍監督のが監督代行となった。 こうして監督人事が迷走したことも響き、この年は5位に終わり、に星野仙一の二度目の監督就任が発表された。 12月にはのからを獲得。 パウエルが2年連続の首位打者に輝いた。 第2次星野監督時代 [ ] この年はナゴヤ球場最終シーズンとなった。 の至宝といわれた宣銅烈が抑えとして期待されるも、日本の野球に馴染めず不振に終わる。 の対巨人戦でがノーヒットノーランを達成。 この年は長嶋巨人による「」の年だったが、巨人があと1勝で優勝という時点(巨人の残り試合は全て対中日戦だったのでマジックはつかなかった)で勝ち続け、9月24日から6連勝。 10月6日、ナゴヤ球場での最後の公式戦を含む残り3試合の対巨人戦に全勝すればプレーオフという状況で、3試合目に2対5で敗戦で2位に終わるが阪神には5年ぶりに勝ち越した。 ナゴヤドーム(ホームスタジアム) に本拠地を移し、狭いナゴヤ球場から一転して広くなったナゴヤドームに野手陣の慣れが追いつかず、前年の強竜打線も沈黙、チーム防御率は11位と低迷、5年ぶりの最下位に終わる。 不振の野手陣の中で、新外国人のが打率. 315、31本塁打と唯一気を吐き、宣銅烈が不振だった前年から一転、38セーブを挙げ、山本昌が3年ぶり3度目の最多勝を獲得。 オフには守備力と機動力を確保するためパウエルを解雇し、韓国ヘテからを獲得。 阪神との交換トレードでと大豊泰昭を放出し、とを獲得した。 この年のドラフトではを1位、を5位指名した。 星野が投手コーチにを招聘した。 前半戦までは勝率5割付近の成績だったが、後半戦、独走していた横浜をハイペースで追走。 8月27日には1ゲーム差に迫った。 しかし終盤の対横浜戦7連敗が響き、2位に終わった。 野口茂樹が最優秀防御率、この年から中継ぎに転向したが、ルーキーが新人王を獲得しチーム防御率12球団1位となった。 オフにはがドラフト1位、が2位で入団。 開幕から11連勝。 投手陣は、野口茂樹や川上憲伸、山本昌にからFA移籍してきたの先発陣に加え、新人の岩瀬仁紀が65試合に登板、、落合英二らと共に不動のセットアッパーとなる。 抑えの宣も好調で、12球団随一の投手王国を誇った。 巨人との優勝争いの最中、この年は大型連勝が多く、7月2日から8連勝したのに加え、シーズン終盤も9月21日から再び8連勝し、9月30日の神宮球場での対ヤクルト戦で、11年ぶり5度目のリーグ優勝を果たした。 前半戦を首位で折り返しての優勝は球団史上初。 とのでは中日圧倒的有利とされていたが 、レギュラーシーズンで前年ほど活躍できなかった川上憲伸が第2戦で勝利するものの、野口は2戦2敗、関川が21打数2安打、福留が3戦から5戦まで3試合連続失策、は13打数0安打に終わり、1勝4敗で敗退。 宣が現役を引退。 サムソンがメジャーリーグ挑戦で退団した。 開幕して間もないの横浜戦でがノーヒットノーランを達成 、またシーズン通じて14勝で最多勝のタイトルを獲得した。 チームは序盤は投手陣の不調、また5番レフトとして期待されたの不振で出遅れたものの、5月には10連勝を記録。 しかし投打ともに前年の面影はなく、特に対巨人戦は対戦成績で9勝18敗。 本拠地のナゴヤドームで2勝12敗、被本塁打が26本とホームの中日が1年で打った本塁打(32本)に迫る勢いで被弾した。 9月24日のでの対巨人最終戦では、4対0でリードの最終回に抑えのがに同点満塁本塁打、にサヨナラ本塁打で4-5で敗戦、巨人の優勝決定。 シーズン結果は2位。 開幕直後に横浜のと、による1対2の交換トレードが成立。 チームは不調でシーズン5位となり、4年ぶりのBクラスに終わる。 星野仙一が健康上の理由で監督辞任。 、武田一浩が退団し、揃って巨人に移籍。 がFA移籍で加入。 が金銭トレードで横浜に移籍。 山田監督時代 [ ] ヘッド兼投手コーチのが監督に就任。 中日OB以外から選ばれる監督としては山内一弘以来となる。 シーズン途中にの至宝と呼ばれたが加入した。 8月1日の巨人戦で川上憲伸がノーヒットノーランを達成。 チームは対巨人戦9連敗が響き3位。 福留孝介がの三冠王を阻み、首位打者に輝いた。 一度は入団契約を交わしながらも突如翻意()し、に入団したの代わりによりが来日。 開幕後約1ヶ月は首位を走っていたが、谷繁元信の戦線離脱以降失速する。 チーム最多勝は前年オフにオリックスからトレードで移籍してきた(12勝)で、川上憲伸 とと前年好成績を残した2人のケガによる離脱などもあり、ローテーションを守ったのは山本昌だけであった。 シーズン途中に首脳陣との確執を起こしたギャラードが退団、横浜に移籍した。 の東京ドームでの対巨人戦で立浪和義が球団史上3人目の通算2000本安打達成。 打線は4番打者が流動的で固定出来なかった。 5位に低迷していたに山田の監督休養(事実上の解任)を発表し、ヘッド兼打撃コーチのが監督代行となった。 佐々木代行就任後は好成績を残したが、最終的には、優勝した阪神に勝ち越しながらも14. 5ゲーム差の2位で終わる。 同年オフ、落合博満の監督就任を発表。 落合監督時代 [ ] 広島との開幕戦はFA移籍後3年間一軍登板が無かったが先発。 2回5失点で降板するもその後チームは逆転勝ち。 開幕3連勝するなど、4月を勝率5割で終えるが、5月には11日に一時最下位に転落。 しかし中旬以降は立ち直り、26日には首位浮上。 6月は巨人と首位争いとなり、20日から7連勝で首位に立つと、以降は首位を譲ることなく安定した戦いぶりを見せ、10月1日にマジック対象の3位のヤクルトが敗れたことで5年ぶり優勝達成。 巨人とヤクルトに負け越したものの他の球団に大きく勝ち越した。 が本領を発揮し、リーグトップの防御率の投手陣と、リーグ初となる同一チームから6人のゴールデン・グラブ賞受賞となったリーグ記録の45失策という堅い守備力で、リーグ最少の本塁打とリーグ5位のチーム打率と得点をカバーした。 では西武と対戦、2度の逆転負けもあり3勝4敗で敗退した。 横浜よりが加入し、ではをはじめ即戦力となりうる新人を獲得。 球団史上初の開幕から2試合連続の勝ちなど滑り出しは好調だったが、この年から導入されたで15勝21敗と苦戦を強いられ 、一時は交流戦最下位にまで低迷した上に首位を走っていたリーグでも3位にまで転落したことから「 降竜戦」と揶揄された。 特に同年からパ・リーグへ新規参入したには初の3連戦(ナゴヤドーム、5月24日 - 26日)で3連敗を喫し、同球団にとって球団史上初となる3連勝を献上したほか 、セ・パ11球団で唯一負け越す結果となった。 交流戦での低迷により阪神に首位を明け渡す。 オールスター前後の11連勝など後半戦には粘り強さを見せ、首位阪神に2度にわたって0. 5ゲーム差まで迫ったものの連覇はならず、最終的には優勝した阪神と10ゲーム差の2位に終わった。 岩瀬仁紀がの日本記録を塗り替えるシーズン46セーブを挙げた。 投手陣と堅守、打撃陣がうまく絡み合う「オレ竜野球」で6月半ばから首位を独走。 8月に球団史上最速でマジックナンバー(M40)を点灯させた。 の対阪神戦では山本昌が史上最年長でのノーヒットノーランを達成。 シーズン終盤には阪神の猛追に遭うものの、一度も首位を明け渡さずにに2年ぶり7度目のセ・リーグ優勝を決めた。 セ・リーグ5球団に勝ち越しての「完全優勝」だった。 川上憲伸が最多勝、、岩瀬仁紀が、福留孝介が首位打者、MVP、タイロン・ウッズが本塁打王と打点王のタイトルを獲得するなど、個の力が際立ったシーズンでもあった。 しかしではと対戦、シリーズ全試合1番・2番を張ったアライバコンビが38打数5安打(1番・が18打数2安打、2番・井端が20打数3安打)と絶不調。 本塁打王と打点王のタイトルを獲得した筈のタイロン・ウッズが本塁打も打点も全く稼げず1勝4敗で敗退。 オフにが退団。 2007年11月11日のアジアシリーズ決勝戦で優勝直後におこなわれた落合監督の胴上げ(東京ドーム) から、オリックスを自由契約となったが加入。 シーズンに入ると、前年MVPの福留孝介が怪我もあってシーズン中に戦線離脱するものの、その穴を埋めるように、前年レギュラーに定着したが打撃面でさらなる成長を見せた。 投手陣では川上憲伸、朝倉健太、中田賢一を中心としたローテーション投手が活躍した常に上位を保ち、終盤には巨人、阪神との三つ巴の展開となったが、勝負どころでの取りこぼしが響き、最後は2位に終わる。 セ・リーグでは初のプレーオフとなるでは、第1ステージでは3位の阪神と対戦し2連勝、第2ステージはレギュラーシーズン1位の巨人と対戦し3連勝。 計5連勝で球団史上初となる2年連続の日本シリーズ出場を決めた。 では2年連続で日本ハムと対戦し、第5戦でとの継投による もあり、4勝1敗で日本ハムに前年の雪辱を果たし、53年ぶり2度目の日本一達成。 では初戦の韓国代表に敗れ、予選2位で決勝戦に進むが、予選1位のSKワイバーンズに勝って優勝し、日本勢として3年連続のアジア王者となった。 オフには、FAで福留孝介が大リーグ・に移籍。 移籍した福留の穴埋めとしてからFA宣言したを獲得し落合は「レギュラーの野手(和田、荒木、井端、李炳圭、ウッズ、中村紀洋、森野、谷繁)は決まっている」と宣言した。 就任当初は1軍と2軍の枠を撤廃してまでチーム内の競争を煽った事を考えれば大きく方針を転換したが、5月14日の東京ヤクルト戦で森野が左脹脛肉離れを起こしたのをはじめ、6月には李炳圭と井端、8月の北京オリンピックでは森野と荒木と、レギュラーが次々と離脱した。 以外にそれを補うべき若手も現れず、535得点はセ・リーグワースト、チームの得点圏打率とチーム打率が共に2割5分3厘と12球団ワーストで、111のダブルプレーを喫したのもセ・リーグワーストだった。 また投手面も、前年活躍を見せた中田(前年14勝)、朝倉(同12勝)、川上(同12勝)が、中田は怪我と不振、朝倉は7月に右腕の血行障害を発症、川上は北京オリンピック参加での離脱およびその後も調整に時間がかかった事も重なって、3人合計で19勝どまり。 山井も怪我で2試合の登板に終わった。 やが先発・中継ぎフル回転し後半戦は2年目のが完投する等若手でカバーしたが、先発ローテーションが1年間固まらずチーム史上初の規定投球回到達者なしに終わった(最も多く投げたのは山本昌の133回と3分の2)。 また中継ぎの勝ちパターンも1年間固まらず、FAで和田を獲得した人的補償としてが埼玉西武に移籍し、当初の構想から修正を余儀なくされ新セットアッパーを予定していたが開幕から8試合投げただけで右肘を疲労骨折してシーズン絶望となったのを皮切りにが横浜へ移籍し、ベテランの平井が37試合で5. 14の防御率と不振に陥った。 44試合に登板した2年目のと54試合登板のでカバーしたが投手陣で固まったのがクローザーの岩瀬だけだった。 事実5人以上投手を起用した試合は前年は30勝16敗1分けだったのが16勝22敗5分けと投手陣を多く起用すればする程苦しい展開だったが3位となり、クライマックスシリーズの出場権は確保した。 第1ステージは阪神との接戦を2勝1敗で制したものの、第2ステージでは拙攻と投手陣の不調(特に救援陣)もあり、巨人に1勝3敗1引分けで敗退、3年連続日本シリーズ進出はならなかった。 8月4日、山本昌が史上最年長となる42歳11カ月で通算200勝を達成した。 オフには、FAでが大リーグ・に、中村紀洋がに移籍。 前年退団したウッズの後釜として獲得したが本塁打王と打点王の二冠に輝く活躍を見せ、前年は不振だった立浪和義も代打で好成績を残して勝利に貢献した。 川上が移籍したことによって生じた先発投手陣の穴も、それぞれ16勝で最多勝と防御率1. 51で最優秀防御率のタイトルを獲得した吉見やの活躍により埋まった。 またが球団新記録の開幕11連勝を達成した。 シーズン序盤は下位に低迷したが、交流戦辺りから追い上げを見せ、一時は首位巨人とのゲーム差を1. 5まで縮めた。 しかし、巨人に8勝16敗と大きく負け越したのが最後まで響き、最終的には首位巨人に12ゲーム差をつけられて2位に終わった。 3位のヤクルトとの第1ステージは、初戦を落とした後連勝し2勝1敗で制したが、巨人と対戦した第2ステージは初戦に勝利した後3連敗で1勝4敗で敗退。 この年限りで立浪と井上が引退した。 の候補にドラゴンズから4選手が選ばれたが全員が辞退したことが話題となった。 チーム打率が12球団中11位(. 259)だったものの、チーム防御率は12球団最高の3. 29となった。 また、ホームゲーム、特に本拠地のナゴヤドームでは51勝17敗1分けと圧倒的な強さを見せた。 巨人戦は ナゴヤドームでは9連勝を含む10勝2敗(クライマックスシリーズでは3勝1敗)、対阪神戦も10勝2敗と大きく勝ち越している一方で、ロードゲームでは26勝44敗2分けと差が激しかったが、セ5球団で負け越したのはヤクルト のみであった。 1年を通してみると、序盤には先発投手陣の不調、野手では主力の井端がシーズン中盤から故障による長期離脱などがあり、一時は首位巨人に最大8ゲーム差をつけられたが、浅尾や高橋ら中継ぎ投手陣の活躍、和田や森野らがチームを牽引する一方で井端に代わってレギュラーに定着したら若手の台頭等もあり、後半戦から追い上げを見せた。 優勝マジックを1とした、チームは試合がなかったものの、マジック対象の阪神が広島に敗れたことから4年ぶり8度目のリーグ優勝となり、巨人のリーグ4連覇を阻止した。 なお、この年は・も初制覇を果たしており、プロ野球・Jリーグの双方で名古屋市に本拠地を置くチームが優勝に沸くこととなった。 自己最多の37本塁打を放った和田一浩がMVPに輝いた。 では、3位の巨人と第2ステージを戦い4勝1敗として、3年ぶりに日本シリーズ出場。 とのでは、第6戦(延長15回、シリーズ歴代最長時間試合となる5時間43分の末に引き分け、16残塁は日本シリーズ史上最多)、第7戦で2試合連続の延長戦となる等接戦を演じたが、21試合連続ホールドポイントを達成、最終的には日本新記録となるシーズン47ホールドを記録し大車輪の活躍だった浅尾が名古屋に戻った第6戦以降打たれたのが祟り2勝4敗1分で敗退。 交流戦ではセ・リーグで唯一の勝ち越しチームとなり、リーグ首位にも立つなど好調であったが、、、山本昌、トニ・ブランコ、谷繁元信、井端弘和ら主力選手の故障が相次いだ事に加え、統一球の影響などで前年MVPの和田一浩を中心に打撃陣が絶不調に陥り、7月に大きく失速。 8月3日には首位ヤクルトに10ゲーム差が付き、8月10日には借金6で5位にまで転落した。 しかしリーグトップの投手陣の働きに加え、中継ぎから先発に転向したの活躍などで、巨人、阪神、広島との2位争いに踏み止まり、9月になると谷繁、ブランコ、井端の復帰や、ら若手の成長もあり、徐々に首位東京ヤクルトとの差を縮めていく。 その最中、任期満了による落合監督の同年シーズン限りでの退任と高木守道の次期監督就任が9月22日に 、10月6日にはコーチ11人の退団が発表された。 前後して9月を15勝6敗3引分け、10月を11勝5敗2引分けと勝ち越し、10月6日に首位に浮上。 10月18日の対横浜戦でブランコの同点本塁打で引き分けに持ち込み、142試合目にして球団史上初の2年連続セ・リーグ優勝を果たした。 チーム打率(. 228)、得点数(419得点)は共にリーグワーストであり、両部門がワーストでのリーグ優勝はプロ野球史上初のことである。 セットアッパーとして0. 41という防御率を記録した浅尾拓也がセ・リーグMVPを獲得した。 東京ヤクルトとのファイナルステージは4勝2敗で2年連続となる日本シリーズ出場を決めた。 とのでは、第6戦までお互いの本拠地で敗戦する展開( 外弁慶シリーズ)となったが、ダイエー時代に続いて名古屋で3戦全敗した事が祟ったのとキャッチャーの谷繁が東京ヤクルトとのセ・リーグクライマックスシリーズファイナルステージ第1戦の第1打席から43打席連続無安打と極度の不振で足を引っ張り、での第7戦に敗れ3勝4敗。 2010年も千葉ロッテに敗れているので、史上6チーム目 の同一チームによる2年連続日本シリーズ敗退となってしまった。 オフには、楽天を退団したが10年ぶりに、大リーグのを退団したが4年ぶりにそれぞれ中日に復帰。 第2次高木監督時代 [ ] 開幕戦の広島戦に勝利し、引き分けを挟んで5連勝で5月8日に首位に立つと、途中1日を除いて6月30日まで首位だった。 交流戦ではセ・リーグでは巨人に次いで2位で、6月を5割の成績とすると7月1日には巨人に抜かれて2位となる。 その後は巨人に離される展開で8月末には6. 5ゲームとなり、最終的には巨人と10. 5ゲーム差の2位に終わる。 のファーストステージでは2勝1敗でヤクルトに勝利したものの、続く巨人とのファイナルステージでは3連勝の後3連敗で敗退。 シーズン途中、主砲のブランコやエースの吉見一起が故障で離脱するなど、共に規定打席、投球回に達せず、クライマックスシリーズでは吉見を欠いたのが響いた。 本拠地ナゴヤドームでは途中球団新記録の14連勝など貯金20としたが、ビジターでは負け越し、特に対巨人、対ヤクルトとの関東での試合は開幕から15連敗となった。 オフにブランコら助っ人3人がそろってに移籍。 6月28日にが対DeNA戦(横浜)でノーヒットノーラン達成。 シーズンを通じてはチームの調子は上がらず、の対広島戦(ナゴヤドーム)に0対2で敗れ、2001年以来12年ぶりのBクラスが決定、球団史上初めてクライマックスシリーズ出場を逃し 、最終的な順位は4位に終わった。 シーズン終了後2年の契約期間満了で髙木監督は退任し 、後任に谷繁元信がとして就任した。 選手兼任監督は2006年から2007年のヤクルトの以来、中日としては1955年の以来3人目となる。 また球団初のに前監督の落合博満が、球団社長には中日新聞社常務の佐々木崇夫がそれぞれ就任している。 谷繁監督時代 [ ] 2013年 、が自由契約(同月に巨人へ移籍) 、がFAでソフトバンクへ移籍した。 一方、巨人からFA宣言したが入団した。 序盤から低調だったものの交流戦では一時首位に立つなどしたが、8月上旬にが死球を受けて故障した上、打者陣が軒並み不振に陥り球団ワースト記録の月間20敗を記録。 9月5日、が対阪神戦(ナゴヤドーム)に先発として登板、5回無失点で勝利投手となり、の持つNPB史上最年長試合出場記録(48歳10か月)と史上最年長勝利投手記録(48歳4か月)などの最年長記録を更新した。 しかし、の対阪神戦(甲子園)に敗れ球団では28年ぶりの2年連続シーズン負け越しが決まり、の対巨人戦(ナゴヤドーム)に敗れ球団では28年ぶりの2年連続Bクラスとなった。 最終成績は4位に終わった。 チームは35年ぶりの開幕3連敗を喫した。 4月にヤクルトと首位争いを繰り広げるも、5月に入り徐々に後退しBクラスに転落した。 の対ロッテ戦に7-6で勝利して球団通算5000勝を達成、巨人・阪神に次いで3球団目となった。 和田が6月11日の対ロッテ戦で史上45人目となる通算2000本安打を達成した。 交流戦は7勝10敗1分で2年ぶり負け越しとなり 、総合順位は10位に終わった。 交流戦終了後、連敗がかさみ6月末時点で借金9の最下位に沈んだ。 7月に入ってからもなかなか浮上のきっかけをつかむことができず、前半戦は20年ぶりの最下位に終わるも首位のDeNAとは4ゲーム差だった。 8月26日、DeNAに代わり5位に浮上。 だが、直後に最下位に逆戻りとなりの対巨人戦に敗れ、巨人に対し2リーグ制後球団史上ワーストとなる5年連続負け越しとなった。 、対DeNA戦に5-6で敗れ自力でのクライマックスシリーズ進出が消滅した。 最終成績は5位に終わり、94失策は12球団ワースト、内野陣は53失策を記録した。 また和田、川上、朝倉など一時代を築いたベテラン選手が来季構想外になりチームを去ることになり、谷繁選手兼任監督も現役引退を表明し来シーズンからは監督専任になることも決まった。 そして、日本プロ野球における現役選手で最年長(50歳)の山本昌も現役を引退し、中日一筋32年の現役生活にピリオドを打った。 オフのドラフトでは、この年の夏の甲子園胴上げ投手であるを競合の末獲得している。 また、大砲の補強の為に、阪神に移籍したに変わる中継ぎ左腕の、固定できなかった抑え候補のを獲得した。 球団創設80周年を迎えた。 創立80周年記念CMが制作され、OBである和田が出演している。 チームは新加入の主砲・ビシエドの活躍で序盤はAクラスに食い込んでいたが、抑えのが安定せず2軍に降格するなど救援陣が固定できなかった。 また、交流戦あたりからチームは低迷していき、最下位に転落した。 極度の低迷を受けてに谷繁監督と共に守備コーチのの休養(事実上の途中解任)が発表された。 なお、監督代行はヘッドコーチのが務めることになった。 以降も低迷は続き、本拠地最終戦となった9月25日の阪神戦に敗れ19年ぶりの最下位が確定した。 2ケタ勝利を挙げた投手、規定投球回に到達した投手は共になしで、これは同球団にとって2リーグ制以降、初めての記録となった。 チーム打率・得点・本塁打リーグ最下位、安打同5位に低迷した。 9月27日の巨人戦に敗れ、52年ぶりの81敗を喫した。 21世紀に入ってからは初の最下位であり、21世紀になって最下位を経験してない球団は巨人と西武のみとなった。 監督代行であった森が、翌年から正式に監督として指揮を執ることとなった。 2016年 大砲の補強としてを獲得し 、ドラフト会議では、明治大学のを1位指名し、DeNAと競合の末中日が交渉権を獲得した。 12月20日には、落合博満GMの契約満了となる2017年1月限りでの退団を発表した。 開幕から1分けを挟み5連敗のスタートとなり 、引分数の違いで何度か最下位争いのヤクルトを抜き5位に上がるもののその後も最下位に低迷。 開幕から20試合目でようやく先発投手()に勝ちが付いた。 6月3日のナゴヤドームでの対楽天戦で荒木雅博が史上48人目、球団生え抜きとしては立浪和義以来、史上4人目の通算2000本安打達成。 投手陣の不調をうけ、NPBのトレード期限当日の7月31日に日本ハムのを金銭トレードで獲得した。 8月6日の巨人戦で岩瀬がプロ野球最多記録となる950試合登板を達成。 9月には一軍投手コーチがチーム防御率リーグ5位の4. 11と低迷したことの責任をとりコーチ登録を外れた。 9月9日の広島戦の敗戦で今季36度目の逆転負けを喫し、2リーグ分立後の球団ワースト記録を更新する5年連続の負け越しが決まった。 投手陣の不振や主力に怪我人が続出した影響で最終成績は59勝79敗5分に終わり、2年連続で60勝に届かず順位も5位と低迷した。 がリーグの新人選手としては歴代2位のシーズン149安打を達成するなど活躍し、新人王を獲得。 ゲレーロは来日1年目で本塁打王を獲得するも、残留交渉が決裂し巨人へ移籍。 、日本ハムからFA宣言したを獲得。 、前福岡ソフトバンクのが入団テストに合格、契約を結ぶ。 での開幕3連戦は80年ぶりに全試合逆転負けでの3連敗を喫し 、出足から躓いた。 4月5日の巨人戦で松坂が12年ぶりに日本で先発登板を果たし 、同月30日のDeNA戦で2006年9月19日のソフトバンク戦以来12年ぶり、日数にして4241日ぶりにNPBで勝利投手となった。 8月16日のDeNA戦で平田良介が史上68人目、73度目のを達成した。 また、9月28日に岩瀬がプロ野球史上初となる1000試合登板を達成した。 森監督時代で初となる勝率5割や3位も経験したが、の阪神戦に敗れ優勝の可能性が消滅。 には6年連続のBクラスが確定し 、2年連続の5位でシーズンを終えた。 チーム打率は前年リーグ5位の2割4分7厘から同2位の2割6分5厘と改善し、個人成績でもビシエドが首位打者と最多安打を獲得した他、平田とが打率5傑に入るなど、打撃陣の奮闘が目立った。 一方で、投手陣は柱として期待された大野、田島、又吉などがいずれも不振で、チーム防御率4. 36は12球団最下位と課題を残した。 、、、、、が現役を引退。 チーム最多の13勝を挙げたは金銭面で球団と折り合いが付かず退団し 、阪神に移籍。 ゲレーロに続き、2年連続で主力選手の同一リーグへの移籍を許した。 シーズン終了をもって森監督が退任し、後任には球団OBのが就任。 森はシニアディレクターとして球団に残る。 一方、ドラフト会議では、大きな注目を集めた(大阪桐蔭)を4球団競合の末に獲得した。 与田監督時代 [ ] 春季キャンプでが右肩を故障、が血行障害、が肉離れを起こすなど、怪我人が相次いだ。 3・4月は首位争いをするなど善戦していたが、・・・など主力選手が怪我や不調等で相次いで離脱してからは、一転借金9になるなど苦戦が続いた。 5月はがを8回達成し、やなどと並ぶ月間猛打賞記録を達成した。 交流戦ではが防御率1. 17を記録し、日本生命賞を受賞した。 7月に8連勝し2位タイまで追い上げたが、その後好調の高橋・アルモンテが相次いで負傷離脱したこともあり大幅に失速。 9月14日に大野雄大が対阪神戦(ナゴヤドーム)でノーヒットノーラン達成。 ナゴヤドームでは、山本昌以来2人目の快挙となった。 9月に入ると上位球団相手に善戦し、自力でのCS出場可能性も残っていたが24日の対横浜戦(ナゴヤドーム)に敗れ、7年連続のBクラスが決定した。 が自身初のタイトルとなる最優秀防御率を獲得。 は初の打撃タイトルとなる最多安打を獲得。 最優秀中継ぎ賞となったセットアッパーのがレンジャーズへ移籍した。 これで3年連続での主力選手の流出となった。 また、ドラフト会議では高校No. 1野手とも名高い地元愛知出身の(東邦)を一位指名し、オリックス、ソフトバンクでの三球団競合の末、与田監督が当たりくじを引き当て、交渉権を獲得した。 前年のに続き2年連続の高卒野手指名、複数球団による競合、また交渉権獲得となった。 所属選手・監督・コーチ [ ] 「」も参照• 通算成績・5214勝4922負348分 勝率. 514(2018年終了時)• リーグ優勝・9回(1954年、1974年、1982年、1988年、1999年、2004年、2006年、2010年、2011年)• 日本一・2回(1954年、2007年)• アジアチャンピオン・1回(2007年)• Aクラス・49回、ただし、2リーグ分裂後は46回(1938年秋、1943年、1947年、1950年 - 1959年、1961年 - 1963年、1965年 - 1967年、1971年 - 1975年、1977年、1979年、1982年、1984年、1987年 - 1989年、1991年、1993年 - 1994年、1996年、1998年 - 2000年、2002年 - 2012年)• Bクラス・35回、ただし、2リーグ分裂後は24回(1937年春 - 1938年春、1939年 - 1942年、1944年 - 1946年、1948年 - 1949年、1960年、1964年、1968年 - 1970年、1976年、1978年、1980年 - 1981年、1983年、1985年 - 1986年、1990年、1992年、1995年、1997年、2001年、2013年 - 2019年)• 最下位回数・9回 ただし、2リーグ分裂後は6回(1937年秋、1946年 、1948年、1964年、1968年、1980年、1992年、1997年、2016年)• 連続Aクラス入り最長記録・11年(2002年 - 2012年)• 連続Bクラス最長記録・7年(2013年 - 2019年• 最多勝 89勝(1950年)• 最多敗 83敗(1948年、1964年)• 最多引分 19分(1982年)• 最高勝率. 683(1954年)• 最低勝率. 283(1937年秋)• 最小ゲーム差 1. 0ゲーム(1961年、1994年)• 最大ゲーム差 34. 5ゲーム(1948年)• 最多連勝 15連勝(1955年)• 最多連敗 15連敗(1946年) その他の記録 [ ]• 最多本塁打 191本(1984年)• 最少本塁打 1本(1937年春)• 最高打率. 282(1984年)• 最低打率. 182(1941年)• 最高防御率 1. 41(1943年)• 最低防御率 4. 75(1995年)• 連続試合無失点勝利 5試合(2010年)日本プロ野球記録• 連続イニング無失点 50(2010年)セ・リーグタイ記録。 最少失策 45個(2004年、2019年)セ・リーグ記録 歴代本拠地 [ ]• 1948年 (中日新聞の東京本社発行分である東京新聞の配布地域に該当するため)• 1949年 - 1975年 (1952年の導入に伴い、正式にが本拠地となる)• 1976年 - 1996年 (中日球場を改称)• 1997年 - チームの特徴 [ ]• 巨人、阪神、オリックス(1989年までは阪急)とともに日本プロ野球開始時から参入している4つの古参チームのひとつである。 阪急を除く3チームは本拠地や経営母体も一貫しており、また二リーグ分裂後はセ・リーグに属して新規加入チームとの力の差が大きかったため、3強3弱に近い(もっとも、中では巨人がさらに図抜けていた)状態が1970年代ぐらいまで続いた。 その名残は各チームの通算成績などにも残っている。 出身者が多い。 森繁和がコーチ就任後は、助っ人外国人としてドミニカを中心とした中南米圏出身者を獲ることが非常に多く、前年にMLBでプレーした北米出身選手は、2001年に入団したとにまでさかのぼる (ただし、高木監督が二度目の指揮を取った2013年には、が在籍していた)。 なお、2018年は、アメリカ人であるが在籍していた。 中南米圏出身者が多い理由は、森がドミニカへ視察に頻繁に行くことが大きい。 詳細は「」を参照• 日本シリーズには10回出場しているが、2位チームとして挑んだを勝ち上がったと、リーグ優勝した上で日本一となった以外は全て敗退している。 特に、2007年以外は1954年も含めて必ずと言っていいほど名古屋でのゲームを落としている。 2019年シーズン終了時点で最後のAクラス入りは2012年であり、12球団でAクラスから最も長い期間遠ざかっている球団である。 2019年シーズン終了時点で最後の日本シリーズ出場は2011年であり、セ・リーグ6球団の中では日本シリーズから最も長い期間遠ざかっている球団である。 また2014年にが日本シリーズの冠スポンサーになって以降は、セ・リーグでは唯一日本シリーズの出場歴がない球団となっている。 セ・リーグでは唯一、年間勝率1位未満で日本一を達成したチームである(2007年の年間勝率は2位だったがCSを制して日本シリーズも制した。 これによりプロ野球史上初のリーグ優勝をしないで日本一を達成したチームとなった )。 後にパ・リーグでは2010年にロッテ(3位)、2018年、2019年にはソフトバンク(2位)が果たしている。 東海地方唯一のNPB球団であるため、当該地域では大きな支持を受ける。 全12球団で唯一、クライマックスシリーズのファーストステージ敗退経験が無い。 チームスローガン [ ] 1997年 - 2001年:「HARD PLAY HARD」 2002年 - 2003年:「WIN THE GAME! WIN THE DREAM! 」 2004年 - 2011年:「ROAD TO VICTORY」• 監督(当時)時代に一貫して使用された。 2012年 - 2013年:「Join us ファンと共に」 2014年:「Start it Again 強竜再燃」• 選手兼任監督が登場曲として使用しているの楽曲「」からヒントを得たもの。 2015年:「強竜再燃 stand hard」 2016年:「竜魂燃勝」 2017年:「原点回帰 ~ゼロからのスタート~」 2018年:「原点回帰 Dragons愛! 」 2019年:「昇竜復活!WITH BLUE」 2020年:「昇竜復活」 応援スタイル [ ] 「」も参照 2013年まで [ ]• 2008年以降は応援団の中でも主導的役割を担っていた、がとの関係を疑われたことを理由にNPBが最終決定権を持つプロ野球暴力団等排除対策協議会より、全国竜心連合は"特別応援不許可"、名古屋白龍會は"販売拒否"という処分を受けた。 2008年に処分内容を不服として名古屋地裁に提訴し、2010年1月に応援不許可については退けられたが、入場禁止を無効とする判決が言い渡された。 しかし2011年2月17日に名古屋高裁で原告の訴えを全て退け、入場禁止を認める判決が言い渡された。 その後最高裁に上告したが、2013年2月15日までに上告を退けられ、応援団側の敗訴が決定した。 2014年以降 [ ] 2014年シーズン以降、鳴り物応援が許可されるのは球団公認の応援団のみとなった。 新たに新設された私設応援団「中日ドラゴンズ応援団(通称:新応援団)」 の主導で再開した応援(2014年シーズン終了時点)では著作権の都合上、以前の応援団が作詞作曲した曲(すなわち「燃えよドラゴンズ! 」「ドラゴンズマーチ」「ガッツだドラゴンズ」以外)は使用できなくなり、ほとんどの応援歌が変更されている。 なお、全国中日ドラゴンズ私設応援団連合(または旧連合)のによると、新応援団に元竜心のメンバーが加入したために、連合が所有する既存曲の著作権を全て新応援団に無償譲渡する方針であると2014年10月始めのエントリーで発表したが、これ以降の新しいエントリーがないため、現時点で正式譲渡されたのかは不明である。 新応援団公式アカウント上で春季キャンプイン当日に発表された内容では、新曲情報と共に昨季活動の4試合で歌詞を変えて継続使用した「ドラゴンズマーチ」「ガッツだドラゴンズ」の2曲を2015年以降使用しないという旨が併せて記載された。 これによって、チャンスのテーマ・汎用テーマも新応援団が作成した新曲だけとなり、旧連合が作成した楽曲は姿を消すこととなった。 名古屋白龍會がリードを担当していた、8回攻撃前に演奏された「ドラゴンズマーチのテーマ」も2007年までに事実上の廃止となり、今は公式球団歌「昇竜 - いざゆけ ドラゴンズ」をショートVerとして独自にアレンジした「我らのドラゴンズ」を同じ8回攻撃前に演奏している。 2019年7月1日、突如球団公設の応援団がTwitter上にて「不適切なフレーズがあると球団側から指摘を受けた」としてチャンステーマ、の当面の使用自粛を発表した。 その後球団側が「『お前』という言葉を子供たちが歌うのは、教育上良くないのではないか」として自粛に至った経緯も含めて説明した。 同曲は高校野球の応援歌などでも頻繁に使用され、チーム内外問わず人気の一曲であったが、この件を受けてネット上などで物議を醸し、更に各種メディアや各界著名人も取り上げるなど大きな反響を呼んだ。 ジェット風船 [ ] の使用については、それが認められていたナゴヤ球場から空調設備への影響などでそれが禁止のナゴヤドームに本拠地を移して以降、ビジターや地方球場のみ使用している(ジェット風船の色はカラフル)。 2012年以降のナゴヤドームでのジェット風船使用解禁試合(高木監督時代は当時着用していた背番号に因んで、8月8日あるいはその近くのナゴヤドーム開催試合で企画された「守道デー」の日に限って行われた)では、中日ファンはプレゼントデーの一環として渡される風船を飛ばしている。 球団によれば(環境に配慮したもの)で、来場者への配布用に制作するジェット風船以外の物の使用は禁止とされている。 尚、高木氏の退任後も、年間の数試合を「昇竜デー」と銘打ち、当該試合を中心とした10試合前後でジェット風船を飛ばす日を設けている。 デザイン [ ] 球団旗の変遷 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月) 名古屋軍時代 [ ]• 創立(1936年) 白地にえび茶色の円が入っており、その中に白抜きで鯱鉾で「N」の字をあしらい「B」と「L」の字を入れたマークが描かれていた。 1937年 - 1940年• えび茶色地に先述のマークが入ったものが使われた(「L」の字が省かれたマークのものも使用)。 「N」は名古屋(Nagoya)の、「B」はベースボール(Baseball)のそれぞれ頭文字だが、「L」に関しては、が著書『プロ野球ユニフォーム物語』で、「名古屋軍主導で大日本野球連盟というリーグ(League)を独自に立ち上げていたこと(結局は頓挫し、系列会社傘下の大東京軍とともに日本職業野球連盟に合流)と関係しているのではないのか」という旨で推測している。 1940年秋 - 1943年• 紺色地に、「名」の字をあしらったマーク(赤に白縁取り)が入ったデザイン。 「名」マークは、当時の球団理事(代表)がを参考にデザインしたとされる。 中部日本ドラゴンズ - 名古屋ドラゴンズ時代 [ ]• 1947年 - 1948年• オレンジ地に、中央に大きく黒の中日新聞社(中日マーク)。 1949年 白地に、左上に赤の中日マーク、右寄りに大きく西洋風のドラゴンの絵(黒基調)が入る。 1950年 バックが山吹色になる。 1951年 - 1953年• 上が白・下がえび茶色のセパレート型。 上の左よりにドラゴンの顔をデフォルメした絵(黒)が、下に白く「DRAGONS」の文字が入る。 第2次中日ドラゴンズ(現在の中日ドラゴンズ)時代 [ ]• 1954年 - 1964年• 1949年に使われたデザインからドラゴンの絵に代わり、えんじ色で筆記体の「Dragons」ロゴが入ったもの(中日マークはそのまま)。 1965年 - 1967年• ここから、中日新聞社(上が赤・下が紺のセパレート型。 赤の左寄り部分に中日マークが、紺の右寄り部分に「中日」の文字がそれぞれ白文字で入る)をアレンジしたものが使われる(ただし、赤のスペースがやや狭く、紺のスペースがやや広くなっている)。 真中に大きく白文字で「D」が入り、その左(赤色部分)に白色で「中日」の文字が入る。 1966年ごろ - 赤・紺それぞれ5分5分のデザインとなる。 上には大きく筆記体の「Dragons」、すなわち次項(ロゴマーク、以下同)でいうロゴ1となり、下には大きく「中日」が入る(どちらも白文字)。 1966年のオールスターゲームのポスターで上記球団旗のイラストが見られる。 1967年よりユニフォームの筆記体「Dragons」がロゴ2となったが、球団旗は1985年ころまで引き続きロゴ1が使われたとの著作(綱島理友『プロ野球ユニフォーム物語』)がある。 ただし球場掲揚や入団会見などの写真、出典などは明らかにされず、むしろロゴ2や3が使用されたと推測される資料も多い。 1968年の春季キャンプと思われる全メンバー記念写真では、ロゴ2を使用した球団旗がメンバーに保持されている。 ユニフォームもロゴ2。 1977年のイヤーブック表紙の田尾安志のバックに、ロゴ2を使用した球団旗のイラストが配されている。 ユニフォームはロゴ3。 1982年のシーズンおよび日本シリーズの写真では、多くのファンがロゴ2を使用したミニ球団旗で応援している。 ユニフォームはロゴ3。 1983年オフの山本昌らの入団発表記者会見のバックにはロゴ2を使用した球団旗が掲出されている。 ユニフォームはロゴ3。 1985年の春季キャンプの全メンバー記念写真では、ロゴ3を使用した球団旗がメンバーに保持されている。 ユニフォームもロゴ3。 このように、ユニフォームのロゴが1から3の間で変化する中で、数年以上遅れて球団旗のロゴが修正されていることが推定され、その時期も厳密ではない。 またロゴ4は球団旗に使用されたことはない。 2019年現在はユニフォーム、球団旗ともにロゴ2である。 後半ころまで、『』のプロ野球選手名鑑号におけるドラゴンズの名鑑最初のページでは、ロゴ1の球団旗が掲載されていたとしている(綱島理友 同著)。 1990年代後半ころからそれぞれのロゴが小さいものを併用する(印刷物には、それ以前から小さい方のデザインが掲載される傾向にある )。 ロゴマーク [ ] 近年のユニフォームにみる「Dragons」ロゴを分類すると以下のとおりである。 1950年から66年まで、および2014年から16年まで使用された、うねりが大きく文字が密着した、ヒゲがsからすぐ左へ短く伸びる(gにかからない)もの。 1948年の「Doragons」というスペルミスのロゴが原型。 1967年から68年、1987年から2003年、および2012年から13年、17年以降に使用される、うねりが小さく文字がはっきり分かれ、ヒゲがsから一旦右に流れた後に反転し左へ長く伸びてgにかかるいわゆる「」タイプのもの。 67年の初登場時はDの文字が若干小ぶりだがここに分類される。 また96年から2003年はヒゲが極めて長い。 1969年から86年まで使用された、1のタイプのヒゲが長くなった(gにかかる)もの。 2004年から11年まで使用された、大文字ブロック体の「CDRAGONS」。 商標としては、ロゴ3をに出願し、に登録された。 登録番号:第1843922号。 ロゴ2は1987年から96年の帽子に使用した同じ書体の「D」マークとともに、に出願し、に登録された。 登録番号:第2543391号。 ロゴ2単体でもに出願し、に登録された。 登録番号:2618847号。 - に使われたドラ坊や(に登場したマスコットキャラクター)も1993年出願し、登録された。 登録番号:4065874号。 ロゴ4は出願、登録。 登録番号:第4786013号。 ロゴ1は商標登録されていない。 また、「ドラ坊や」登場前は「東洋龍」に中日新聞マークを添えたものをペットマークに使用。 当時のジャンパーやユニフォームの袖にワッペンが縫い付けられていた(少年用のレプリカキャップには玉を口にくわえたもの、手に持ったものなど派生版が見られた)。 ユニフォームの変遷 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月) 名古屋軍・産業軍時代 [ ]• 1936年 帽子…白に黒の「N」マーク。 シャツ…立ち襟付きのスタイル。 アンダーシャツ…白。 ストッキング…白を基調としながら、上部にえんじ色と黒の線が2本入っていた。 胸マーク…黒に白縁取りのブロック体で「NAGOYA」(2004年以降の胸マークに近い書体)のロゴがアーチ状に入る。 左袖には、黒の長方形に金色の「NBL」マーク(参照)が入ったマークが付けられた。 ベルト…茶。 帽子ツバにえんじ色。 シャツ・パンツ…白。 シャツ・パンツ…グレー。 1937年 - 1938年• 帽子…黒に金糸で「N」・銀糸で「B」を重ねたマーク(球団旗の節参照)。 シャツ…立ち襟付きのスタイル。 アンダーシャツ…黒。 ストッキング…上部に赤・下寄りに白を配し、赤部分には黒を黄色で挟んだ線が入る。 背番号…赤。 左袖…を模したが入る(赤に黄色縁取り)。 シャツ・パンツ…白。 線(前立てラケット線・袖・パンツサイド)…赤。 左胸マーク…ボールを模した赤円(縫い目・輪郭に黄色)に「NB」マーク(帽子と概ね同じ。 ただし「N」黄色・「B」はブルーグレー)が描かれたものが入り、赤円の下に同じく赤で「NAGOYA」の文字が入る。 当時、選手が実使用していたもの(シャツ)がに保管されている。 帽子天ボタン・ツバに赤。 シャツ・パンツ…グレーを基調に赤の縦じま入る。 胸マーク…赤に黄色縁取りで「NAGOYA」。 1938年 - 1939年• 概ね1937年からのデザインに近いものを使用。 線は無く、左胸に「N」の飾り文字(1939年は「n」)が入っていた。 右袖に新愛知社章。 1939年 - 1940年• '40年の満州遠征終了時まで使用 帽子…白に赤く「N」マーク(飾り文字)・赤ツバ。 シャツ・パンツ…白。 アンダーシャツ…白。 線(前立て2本・袖口2本・パンツサイド1本)…赤。 左胸マーク…黒で「N」マーク。 背番号…黒。 左袖…黄色に黒縁取りで新愛知社章。 ベルト…黒。 ストッキング…'37年 - '38年のものに近いが、線は黒が2本入ったのみ。 パンツ右尻部分にポケット無し。 1940年の満州遠征終了後(日本野球連盟による、球団名などの日本語化以降)使用 「N」マークが「名」マーク(球団旗の節参照)に変更(胸・帽子ともに、黒色)。 1939年シーズン途中、が監督就任した頃より使用 創立時に近いデザイン。 帽子…従前と同じ。 アンダーシャツ・ベルト・ストッキング…創立時と同じ。 胸マーク…創立時とほぼ同じ(配色は、黒に白・赤縁取り)。 背番号…黒。 左袖…赤に黒縁取りで新愛知社章。 シャツ・パンツ…白。 シャツ・パンツ…グレー。 1940年 - 1942年 帽子…黒に金糸で「名」マーク。 シャツ・パンツ…グレー。 アンダーシャツ…黒。 左胸マーク…赤に黒縁取りで「名」マーク。 背番号…赤に黒縁取り。 左袖…赤に黒縁取りで新愛知社章。 ベルト…茶。 ストッキング…上部黒・下寄りに白。 1943年 - 1944年 帽子(軍帽型)・シャツ・パンツ…国防色(オリーブグリーン系)。 アンダーシャツ…黒。 ベルト…黒。 ストッキング…黒。 1943年 帽子マーク…金糸・黒ぶちで桜のマーク。 背番号…黒。 1944年(産業軍時代) 左胸…白円に黒線で独特の囲み方をしたマーク。 背番号廃止。 が白のアンダーシャツを着た写真がに残っている。 中部日本軍 - 中日ドラゴンズ(1954年 - 1959年)時代 [ ]• 1946年 - 1947年• 帽子…白にえび茶色のツバ(えび茶色の「C」マークが付いたものもあり)。 シャツ(立ち襟付き)・パンツ…白。 アンダーシャツ…白ないしは、えび茶色のものを使用。 線(前立て2本・袖・パンツサイド)…えび茶色。 胸マーク…2段組みで上に「CHUBU」下に「NIPPON」のロゴが入る(上はアーチ状。 1946年は物資不足のため、ペンキで描かれていた)。 背番号…えび茶色。 ベルト…茶。 ストッキング…グレーを基調とし、上部にえび茶・白・えび茶の線が入る。 1947年帽子…黒に白の「C」マーク。 シャツ・パンツ…ダークグレー(シャツ前立て部分…白)。 袖線…白・赤縁取り。 前立て線…赤。 ベルトループ・パンツサイド線…白。 ポケット線…白。 ベルト…茶。 ストッキング…上・中部がグレー(上寄り部分に白・赤縁線が2本入る)。 下部が白。 胸にアーチ状で白・赤縁の「CHUNICHI」ロゴが入る。 背番号…白・赤縁。 左袖…シーズン途中より、金糸で西洋風ドラゴンのマーク(1949年から1950年の球団旗にも黒を基調に描かれる)が入る。 「Doragons」と書かれた1948年のユニフォームを着用した• 1948年帽子…白に紺ツバ。 紺・赤縁の「C」マークが入る。 シャツ(立ち襟付き)・パンツ…白。 アンダーシャツ…紺。 線(袖・立ち襟・前立て・ベルトループ・パンツサイド)…紺。 胸マーク…紺の筆記体で「Doragons」(ロゴ1の原型にあたり、本来はローマ字で「Doragonzu」にしようとしたとみられるが、物資不足のため、スペルミスのまま使われた )。 腰番号(パンツ左部分に存在)・背番号…紺。 ベルト…茶。 ストッキング…白に太めの紺線2本。 前年のものをマイナーチェンジ。 帽子マークは「D」に変更。 前立て部分もダークグレーとなり。 そこに白と赤の線が入る。 パンツ線も白と赤の線になる。 アンダーシャツ…白のほかに、あずき色のものも使用。 ストッキング…白に、太めの紺線3本追加。 1949年 - 1950年• 帽子…濃紺に赤・白縁の「C」マーク(1950年より、金糸の「C」と白の「N」を重ねたマークを使用)。 シャツ・パンツ…グレー。 アンダーシャツ…濃紺。 ベルト…茶。 帽子…先述のほかに、グレーに濃紺ツバ、赤・白縁の「C」マークが入ったものも使用。 線(袖口2本・前立て2本・ベルトループ部分2本・パンツ2本・ポケット部分)…濃紺。 左胸…赤・白縁の飾り文字で「D」マーク。 ストッキング…白地に太めの濃紺線2本入る。 線(袖 - 脇 - パンツサイド・前立て2本・ポケット)…赤。 左胸…赤・青縁の「C」と「N」を重ねたマーク。 左袖…赤・青縁の中日新聞社社章(以下、中日マーク)入る。 腰番号(パンツ右部分に存在)・背番号…赤。 ストッキング…上部濃紺、下部白。 胸マーク…1949年に前年のスペルミスしたものから「Dragons」と英語で正しく表記される。 1950年 - 1951年• 帽子…濃紺に、金糸「C」と白「D」を重ねたマークの入ったもの。 シャツ・パンツ…白。 アンダーシャツ…黒。 線(袖2本・前立て2本・脇〜パンツサイド・ポケット)…青。 胸マーク・腰番号(パンツ左部分に存在)・背番号…濃紺。 左袖…青の中日マーク。 ベルト…茶。 ストッキング…濃紺を基調としたデザイン(太めの白線〔黄色の縁取り・真中にも黄色の線が入ったもの〕が入ったものと、太めの黄色線が2本入ったものの2種類を使用)。 1950年 - 1953年• 帽子…濃紺に、白く「N」マーク。 シャツ・パンツ…濃紺の縦じまが入ったスタイル。 胸マーク・腰番号(パンツ右部分)・背番号…濃紺(腰番号以外は白縁取り入り)。 ベルト…茶。 ストッキング…濃紺と黄色を基調としたスタイル(上中部に濃紺と黄色線1本、下部に黄色のデザインと、太めの黄色線2本入ったものの2種類を使用)。 ホーム用(1952年のフランチャイズ制導入時より正式に) - シャツ・パンツ…白。 胸に筆記体で「Dragons」(ロゴ1)。 ビジター用(1951年まで) シャツ・パンツ…グレー。 胸に花文字で「NAGOYA」。 1951年サマーユニフォーム 帽子…白に赤ツバ、赤「N」マーク。 シャツ・パンツ…白。 アンダーシャツ…赤。 線(袖・前立て・パンツサイド)…赤。 胸マーク(若干アレンジされた筆記体で「Dragons」(ロゴ1~4に属さない))・背番号…赤。 ベルト…茶。 ストッキング…赤を基調に、上寄り、紺に白で挟んだ線が3本入る。 1952年 - 1959年• 帽子…濃紺に白のマーク( - 1953年…「N」、1954年 - …「C」)。 アンダーシャツ…濃紺。 胸マーク・背番号…濃紺。 ストッキング…濃紺。 左袖…1954年以降濃紺で中日マーク入る。 ホーム用 シャツ・パンツ…白。 胸に筆記体で「Dragons」(ロゴ1)。 ビジター用 シャツ・パンツ…グレー。 胸マーク(アーチ状)…'55年までは「NAGOYA」、その後は「CHUNICHI」。 '54年には、胸に「Dragons」が、左袖にアーチ状で「NAGOYA」(背番号も含め、それぞれ濃紺に白縁取り)が入ったものも使用。 中日ドラゴンズ(1960年 - 現在)時代 [ ] 1960年 - 1968年 [ ]• 1960年 - 1961年• 帽子…えび茶色に、銀糸の「C」と金糸の「D」を組み合わせたマークが入る。 アンダーシャツ…えび茶色。 線(袖2本・首周り・ベルトループ・パンツサイド2本)…えび茶色。 胸マーク・左袖マーク・胸番号・背番号…えび茶色。 ホーム用 シャツ・パンツ…白。 左袖マーク…えび茶色で中日マーク。 胸に筆記体で「Dragons」(ロゴ1)。 ビジター用 シャツ・パンツ…グレー。 左袖マーク…上に中日マーク、下に「NAGOYA」マーク(いずれもえび茶色)。 胸にアーチ状で「CHUNICHI」。 1962年• 帽子…濃紺に、金糸の「C」と銀糸の「D」を組み合わせたマーク(書体変更)が入る。 アンダーシャツ…濃紺。 線(首周り・袖・パンツサイド)…山吹色を濃紺で挟んだ。 胸マーク・胸番号・背番号…山吹色を濃紺で挟んだ。 左袖マーク…金糸・濃紺縁の中日マーク。 ストッキング…濃紺。 ホーム用 シャツ・パンツ…白。 胸に筆記体で「Dragons」(ロゴ1)。 ビジター用 シャツ・パンツ…グレー。 胸にアーチ状で「CHUNICHI」。 1963年 - 1964年• 帽子…青に、銀糸の「C」と金糸の「D」を組み合わせたマークが入る。 アンダーシャツ…青。 線(首周り・袖2本・パンツサイド2本)…青。 ベルト…青。 ストッキング…青。 ホーム用 シャツ・パンツ…白。 胸に筆記体で「Dragons」(ロゴ1)。 ビジター用 シャツ・パンツ…グレー。 胸にアーチ状で「CHUNICHI」。 1965年 - 1968年• シーズン途中(5月前半頃) 帽子・アンダーシャツ…1962年と同じ(書体は従前と同じ)。 線(首周り・袖・パンツサイド)…濃紺を赤で挟んだ。 胸マーク・胸番号・背番号…濃紺・赤縁。 左袖マーク…濃紺・白縁のワッペンが入る(ワッペン内には、金糸の龍マークが、右上端には赤の中日マークがそれぞれ入る)。 ストッキング…濃紺。 ホーム用 シャツ・パンツ…白。 胸に筆記体で「Dragons」(ロゴ1、67-68年はロゴ2)。 ビジター用 シャツ・パンツ…グレー。 胸にアーチ状で「CHUNICHI」。 1969年春季キャンプにも、上記のデザインを練習用として再び使用。 1968年シーズン途中(5月16日) - 終了 スカーレット(以下、赤)と青を基調としたスタイル。 帽子…青に赤の天ボタン・ツバ、金の龍のマークと赤の中日マークが入る。 シャツ・パンツはニット製、また、シャツはノースリーブスタイル(どちらも日本プロ野球史上初。 製作は)。 アンダーシャツ…赤。 線(首周り・ベルトループ・パンツサイド)…赤。 胸マーク・胸番号・背番号…赤・青縁。 ベルト…青。 ストッキング…赤に、太めの青ラインが1本入る。 ホーム用 シャツ・パンツ…白。 左胸…飾り文字で「D」マーク。 胸番号は右の方に入る。 ビジター用 シャツ・パンツ…ライトグレー。 胸マーク…筆記体で「Chunichi」。 スカイブルー基調ユニフォーム使用時代(1969年 - 1986年) [ ]• 1969年 - 1973年• 概ね1963年から1964年のものに近い(概ね、青はスカイブルーになっている)。 帽子…スカイブルーに白の天ボタン・空気穴。 白のブロック体で「CD」マークが入る。 左袖…黄金の龍と中日マークのワッペン(スカイブルーの縁取り。 中日マークは右上にあり、1972年まで赤、1973年は金色だった)。 パンツのベルトループ部分にスカイブルーのラインが囲われている。 パンツサイドの線は、細線を2本重ねて太く見せている。 ベルト…黒。 ホーム用 シャツ・パンツ…白。 胸マーク(筆記体で「Dragons」。 ロゴ3)・胸番号・背番号…スカイブルーに赤縁取り。 ビジター用 シャツ・パンツ…水色(ライトブルー)。 胸マーク(アーチ状にゴシック体風書体で「CHUNICHI」)・胸番号・背番号…スカイブルーに白縁取り。 詳細は「」、「」、および「」を参照• 1974年 - 1986年• 帽子…1984年までは従前と同じ。 1985年以降は空気穴もスカイブルーになる。 シャツ…1980年までボタン型。 1981年から1983年はヘンリーネック式(前ボタン2つのみ)のプルオーバー型(球団史上初のプルオーバー)。 1984年以降はVネック式のプルオーバー型。 アンダーシャツ…スカイブルー。 ストッキング…スカイブルー。 スパイクはホーム用、ビジター用共に1975年から1986年までは青地に白ライン、1986年ホーム用のみ白地に青ライン。 ホーム用 シャツ・パンツ…白。 線(袖口)…赤・スカイブルー。 線(首周り・肩・脇 - パンツサイド)…スカイブルー。 胸マーク・胸番号・背ネーム(1977年 - )・背番号…赤・スカイブルー縁。 ベルト…スカイブルー。 胸マーク(筆記体で「Dragons」。 ロゴ3)• ビジター用 シャツ・パンツ…ライトブルー。 線の配色はホーム用と逆。 胸マーク・胸番号・背ネーム(1977年 - )・背番号…赤・白縁。 ベルト…赤。 胸マーク(アーチ状にゴシック体風書体で「CHUNICHI」)• ベルトのバックル部分が通常のベルトのものとは異なり「D」の形をしていた。 詳細は「」および「」を参照 ドジャース型ユニフォーム使用時代(1987年 - 2003年) [ ]• 1987年 - 2003年• 1987年に監督就任したが、親友のが監督を務めるに承諾を得たうえで、ドジャースのユニフォームに忠実なデザインを採用。 帽子…青に白く「D」マーク(1996年までは筆記体、1987年から1995年は天ボタンが青、1996年のみ天ボタンが白。 1997年以降は斜体のブロック体、天ボタンは白)。 アンダーシャツ…青。 胸マーク…青の筆記体(「Dragons」(ロゴ2、ただし67-68年より大きめ))。 さらに1996年以降は髭と「Dragons」ロゴとの間の間隔が広げられた上で、髭が「D」の先端にかかる程度まで長めにアレンジされ、ドジャースにより忠実な書体になっている。 胸番号…赤。 背ネーム…青(1995年までゴシック体、1996年以降はドジャースと同じブロック体)。 背番号…青(1995年まで従来通りの高校野球型書体、1996年以降ドジャースと同じブロック体)。 左袖…1996年は創立60周年記念マーク。 1997年 - 2001年はの入ったマーク。 2002年以降はキャッチフレーズの入ったマーク。 右袖…1999年以降「CHUNICHI」。 ベルト…青。 ストッキング(後半ごろ〜ソックス)…青。 詳細は「」を参照• ホーム用 シャツ・パンツ…白。 1987年 - 2001年• 2001年 ビジター用 シャツ・パンツ…グレー。 2002年 ビジター用 シャツ…青。 パンツ…グレー。 胸マーク・背番号…銀色・青縁取りに白のシャドゥ。 背ネーム…銀色。 公式戦用としては、球団史上初のツートンカラー(シャツとパンツの基本色が違う)ユニフォーム(練習着としては、第二次星野仙一監督時代〔1996年 - 2001年頃〕にドジャースの練習着と同様のデザインを使用)。 2003年 ビジター用 シャツ・パンツ…グレー。 線(袖・前立て・パンツサイド)…青。 胸マーク・胸番号・背ネーム・背番号…従来のものに白縁取り付き(当時のドジャースのロード用ユニフォームと同様の様式)。 2009年ビジター用(写真は)• 従来の青色・フォント(番号・背ネーム)を残しながらも、ドジャース型になる前(1974年 - 1986年)のスタイルとの融合が見られる。 また、1948年以来(1949年を除く)、長らく愛称「ドラゴンズ」のロゴが筆記体の小文字(「Dragons」 「D」の字のみは大文字)だったが、監督に就任した落合博満の強い希望によりブロック体の大文字(「DRAGONS」 「D」の字のみは「CD」マークにアレンジ、ロゴ4)に変更され(ユニフォーム以外では、一部を除き、従来の「Dragons」ロゴが使用される)、1974年から胸番号などで使われてきた赤い文字も、縁起を担ぐ落合の「赤字を連想させる」という意向で排除された。 書体は、名古屋軍創立時の胸ロゴに近い。 帽子…青に、白の「CD」マーク(1986年までとやや違う)。 ベルト…青。 ソックス…青。 製作は。 ホーム用 シャツ・パンツ…白。 ライン(肩・脇腹・パンツサイド〔ベルトループにはかからない〕)…青。 胸マーク・胸番号・背番号…青。 胸に「CDRAGONS」。 左袖マーク…白地に青で「CHUNICHI」ロゴ入りマーク。 2006年より、左袖は白地に青色ゴシック体で「中日新聞」のロゴ入りマークが入る。 よりがスポンサーとなり、ホームゲーム用ヘルメットのみ「」のロゴが入る。 ビジター用 シャツ…青。 パンツ…白。 線(肩・脇腹)…白。 胸マーク・胸番号・背番号…白。 左袖…白・青縁で「CDRAGONS」ロゴ。 復刻ユニフォーム 2010年8月に開催された「」で1954年当時のユニフォームが復刻された。 復刻ユニフォームは中日球団としては初。 なお通常ホーム用の左袖「中日新聞」広告は、当時も使われた中日マークに置き換えて掲示された。 なおパンツはラインなしの白色ということで通常ビジター用を履いていた。 第2次髙木監督時代(2012年 - 2013年) [ ] 2012年10月15日、ナゴヤドームでのクライマックスシリーズでトニ・ブランコにゲキを飛ばす打撃コーチの井上一樹。 球団初の日本一を達成した当時のユニフォームを基本デザインとしているが、ホーム・ビジターともに基本色に球団旗の鉄紺・赤・白を使い、ラグランラインにはパイピングを加えている。 ホーム用に使用される胸のロゴマークは2003年以前まで使用された筆記体の「Dragons」が8季ぶりに復活(ロゴ2、色調は前述の通り変更)。 帽子は濃紺をベースにCDマークは丸文字(1962年から1968年にかけて使用されたマークに近い)になり、文字の色は赤。 胸番号・背番号・背ネームの書体には明朝体が採用され、背ネームは同姓の選手は名前の頭文字(堂上兄弟は剛裕が「T. DONOUE」、直倫が「N. DONOUE」、高橋周平は「S. TAKAHASHI」、高橋聡文は「A. TAKAHASHI」など)が入るようになった。 2012年シーズンより新たにアシックス社と提携し、ローリングスブランドを展開している(同年秋からはアシックスのオリジナルブランドに変更)。 また、2012年からセントラル・リーグが前年度優勝チームに対して「」を授与したため、2012年度のユニフォームの右袖にはチャンピオン・エンブレムが縫い付けられている (公式戦のみ装着し、キャンプやオープン戦では装着せず)。 帽子: 濃紺に赤の「CD」マーク(白縁取り)。 ヘルメット: 濃紺(つや消し)に赤の「CD」マーク(白縁取り)。 ヘルメットには引き続き「EIDEN」のロゴが入っていたが、2012年シーズン途中から「EDION」のロゴに変更されている。 ベルト: 濃紺• スパイク: 濃紺地に赤ライン• ホーム用: シャツ・パンツ…白。 アンダーシャツ…濃紺。 ライン(肩・パンツサイド)…濃紺。 胸番号…赤。 胸マーク…濃紺(筆記体で「Dragons」)。 背ネーム・背番号…濃紺。 左袖マーク…セ・リーグの『チャンピオン・エンブレム』。 右袖マーク…「中日新聞」(濃紺・ゴシック体)。 ビジター用: シャツ…濃紺。 パンツ…白。 アンダーシャツ…濃紺。 ライン…白(肩・袖)、濃紺(パンツサイド)。 胸番号…赤に白縁取り。 胸マーク…白(ブロック体で「CHUNICHI」、前モデルと異なりアーチ状に文字が配置されている)。 背ネーム・背番号…白。 左袖マーク…セ・リーグの「チャンピオン・エンブレム」(2012年、2013年からはワッペンは外されている)。 右袖マーク…「Dragons」(白・筆記体)。 復刻ユニフォーム 2012年8月から9月にセ・リーグ主催で行われた「」において1974年にV9巨人の10連覇を阻止し優勝した当時のユニフォーム(ホーム用)を復刻。 から集客力アップを目的とした試みで、サードユニフォーム(通称・燃竜〈もえドラ〉)を公式戦7試合で着用する。 デザインは赤を基調とし、胸のロゴマーク・背番号・背ネームは濃紺、肩から脇にかけてのラインが白、袖に「中日新聞」の広告。 帽子とパンツは通常のものを着用する。 谷繁監督時代(2014年 - 2016年) [ ]• GMとして中日に復帰した落合博満の「最も強かった時のものを」という提案により、初めて日本一となった1954年当時のユニフォームを再現。 前年まで使用された第2次高木監督時のユニフォームも1954年のものをベースとしているが、このユニフォームではより当時のものに近付けた形になっている。 ユニホームや帽子などのベースの色は限りなく黒に近い紺色(鉄紺)を使用。 なおホーム用・サード用の左袖「中日新聞」の広告ロゴは、このモデルよりブロック体から中日新聞の題字に使用されているフォントのものに変更された。 帽子:濃紺ベース、「CDマーク」は2004年から2011年のもので白色。 ヘルメット: 濃紺に白の「CD」マーク。 ヘルメット左側に「EDION」の広告が入る。 ホーム用:シャツ・パンツ…白。 アンダーシャツ…濃紺。 胸番号…濃紺。 胸マーク…濃紺(筆記体で「Dragons」、ロゴ1)。 背ネーム・背番号…濃紺。 左袖マーク……「中日新聞」(濃紺)。 胸ロゴの「Dragons」は、1954年当時の書体(Sの部分の下のひげが短いもの、ロゴ1)をベースに、文字を太くし全体的に横長に広げるなどアレンジを加えたもの。 特にDの右下部の角度がシンプルな、登場当時の少しひしゃげた形としてレトロ感を出している。 ビジター用:シャツ・パンツ…グレー。 アンダーシャツ…濃紺。 胸番号…濃紺。 胸マーク…濃紺(ブロック体で「CHUNICHI」)。 背ネーム・背番号…濃紺。 左袖マーク…「Dragons」(白・筆記体、ただしホーム用のロゴではなくドジャース型のロゴ2を使用)。 ビジターは、2003年以来となるグレー地を採用。 サードユニフォーム:シャツ…ブルー。 パンツ…白。 アンダーシャツ…濃紺。 胸番号…白。 胸マーク…白(筆記体で「Dragons」、ホーム用に同じ)。 背ネーム・背番号…白。 左袖マーク……「中日新聞」(白)。 サードユニフォームは、落合監督時代に採用されていたブルーに白抜きで「Dragons」のロゴを使用。 胸番号・背番号には、1995年までの第一次ドジャース風ユニフォームで採用されていた、いわゆる「高校野球型」フォントを復活。 ただし当時とは異なり、太目のフォントになっている。 2014年7月(25日以降)と8月の夏休み期間中には、ナゴヤドーム主催試合において「サマーキャップ」と題し、白を基調に球団ロゴマーク「CD」とつばを濃紺とする帽子を着帽した(サードユニフォーム着用試合は除く)。 2015年も7月28日から8月いっぱいのナゴヤドーム主催試合にて着用(前年同様、サードユニホーム着用試合は除く)。 2015年より、とオフィシャル・パートナー契約を締結したことにより、ホームユニホームとサードユニホームのズボンに、スズキのロゴが掲出されることとなった。 ズボンへのスポンサーロゴ掲出は球団史上初の取り組みとなる。 また、サードユニフォームの名称が過去2年間の「燃竜」から「昇竜」に改められ、ホームゲームの4試合で着用する。 ドラゴンズブルーとホームユニホームの白地を組み合わせたデザイン。 「昇竜」ユニフォーム:ロゴ、番号、ネーム…鉄紺、シャツ…前面に白、背面にドラゴンズブルー、肩口から袖の部分に鉄紺。 アンダーシャツ…濃紺。 左袖マーク……「中日新聞」(白)。 なお、帽子・ヘルメットやズボンなどは、従来のものを使用。 2016年は球団創設80周年記念エンブレムを右袖に装着する。 またキャプテンマークが初めて採用されることとなり、の左胸に「C」が入る。 昇竜ユニホームは、1974年優勝当時のドラゴンズブルーをベースに金色の文字・ラケットラインを使用し、CDマークが左胸に装着される。 帽子のつば部分は鉄紺。 胸番号はなし。 2014年・2015年に使用されたサマーキャップに引き続いてサマーユニホームも採用されることとなり、ドラゴンズブルーを縁取りに入れた鉄紺色のラケットライン・CDマークが胸に入る。 胸番号はなし。 森監督時代(2017年 - 2018年) [ ]• 2016年8月に実施した「中日ドラゴンズ歴代ユニホーム総選挙」の結果 を受けて、1位となった落合監督時代の色彩・デザインをモチーフとした新ユニフォームが発表され 、ドラゴンズブルーが6年振りに復活することとなった。 ホーム用の上着は、白を基調に青(ドラゴンズブルー)のラインが襟ぐりから肩を通り袖先にかけてと袖口に入る。 肩ラインはほぼ同じ太さだが、袖口ラインは肩ラインと交わるところから徐々に細くなるデザイン。 背番号、ネーム、胸番号も青色で、フォントは谷繁監督時代のものと同じ太めの高校野球型となった。 胸には筆記体(ロゴ2、1987-1995年の第一次ドジャース型ユニフォームと同じ書体が復活)の「Dragons」が入り、左袖の「中日新聞」ロゴ(白文字)は袖口ラインに埋め込まれる形で入る。 中日ドラゴンズのユニフォーム• ビジター用の上着は、ホーム用の色を反転させ、地の部分が青、ラインやロゴ、マークなどが白となる。 胸には第二次高木政権モデルから踏襲される「CHUNICHI」ロゴと左袖口ラインの中に「Dragons」ロゴを配する。 帽子とヘルメットも青となり、白のCDマークは継承され、アンダーシャツも青になった。 ズボンはホーム・ビジターとも白一色となった。 また、ナゴヤドームでの公式戦6試合で使用される第3のユニホーム(通称:昇竜ユニホーム)は、ドラゴンズブルーを基調とし、球団初の試みとなるグラデーションを使用。 青色のグラデーションに前面、背面ともに竜のシルエットが入ったデザイン。 2017年シーズンにおいて、ファンクラブ会員向けイベント「FCスペシャルゲーム」が月1回のペースで開催されるのに伴い、当該試合において、ファンクラブ会員への入会特典の一つである「FCユニホーム」のプロモデルを着用する(初戦の4月9日(対横浜DeNA戦)は除く)。 上着は青一色のベースにラケットラインと袖周り・首周りに赤を配置、ロゴは白一色のロゴ2。 これと合わせて鍔部分を赤色とした専用の帽子・ヘルメットを着用する。 2018年シーズン以降も「FCスペシャルゲーム」開催に伴い、引き続き使用されている(後述の通り、2018年シーズンからはミズノ製に変更)。 2018年よりとオフィシャル・パートナー契約を締結したことにより、同社からユニホームが提供される。 デザインは変更されない が、背番号・胸番号のフォントが1995年までのもののように若干細目にマイナーチェンジされている(1桁の番号は数字の幅が明確に広くなっている)。 同年よりともオフィシャル・パートナー契約を締結し、帽子左側に同社が運営するクルマ・ポータルサイト「」ロゴが掲出される。 帽子へのロゴ掲出は球団史上初の取り組みとなる。 「昇竜」ユニホームはスカイブルーに近い鮮やかな青を基調とし、もう一つのチームカラーである赤で昇竜をイメージしたデザインとなった。 また昇竜ユニホームとしては初めて、専用の帽子とヘルメットが用意された(前年までの昇竜ユニホームでは、帽子とヘルメットはホーム用ユニホームのものをそのまま使用していた)。 与田監督時代(2019年 - ) [ ]• 2018年11月17日にナゴヤドームにて開催された「ファンフェスタ2018」にて、2019年シーズンから使用されるユニホームが発表された。 ホーム用シャツは白基調に、前モデルを踏襲した青(ドラゴンズブルー)のドジャース型筆記体による「Dragons」のロゴ2が入り、肩から袖の太いラインがなくなった代わりに細めのラケットラインが入れられた。 胸番号、ネーム、背番号のフォントは前モデルと同様。 左袖には「中日新聞」ロゴが青文字で入れられている。 ビジター用シャツはホーム用を反転させたデザイン。 胸には引き続き「CHUNICHI」ロゴが、左袖にはホームの「Dragons」ロゴが白文字で入れられている。 帽子は前モデルと同様に青基調に白の「CDマーク」が入ったデザインであるが、ホーム用のみツバ部分のサイドに白いラインが追加され、天ボタンと穴かがりも白色に変更された。 また、2018年より掲出されていた「グーネット」ロゴの大きさが若干縮小された。 ズボンはホーム、ビジターともに白基調で、新たにサイドに細い青のラインが入れられた。 「昇竜」ユニホームは「昇竜復活!WITH BLUE」をイメージし、ドラゴンズブルーを基調にスカイブルーで竜を描いたデザインとなった。 左胸にCDマーク、右腹部に番号が入り、ラケットラインとともに金色で縁取りされている。 なおこのユニホームでは球団史上初めて、ロゴが昇華プリント方式となった。 FCユニホームは変更なし。 2020年シーズンの「昇竜」ユニホームは、1990年代のユニホームをイメージし、1990-2020の30年の時をデジタルで描写。 ドラゴンズブルーの濃淡の中に、表面と背面の2頭の竜が同じ方向へ新たな30年へ昇っていくグラフィックを載せ、『昇竜=舞い上がる竜、燃え上がる竜』を表現した。 90年代のユニホームをイメージしたのは与田監督からのリクエストでもあり、当時のものと同様に胸番号を赤色とし、帽子も筆記体のDマークを採用した。 1936年 :• 1937年 : (第1次)• 1938年 - 1939年 :• 1939年 - 1941年 :• 1941年 - 1942年 :• 1942年 - 1943年 : 桝嘉一 (第2次)• 1944年 :• 1946年 :• 1946年 - 1948年 : (第1次)• 1949年 - 1951年 : (第1次)•

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