昭和 天皇 戦争 責任。 繰り返すな戦争-天皇制と戦争- 第2回 戦争責任は昭和天皇にある 最高指揮権を握り軍隊に命令

なぜ日本人は昭和天皇を裁けなかったのか(赤坂 真理)

昭和 天皇 戦争 責任

昭和天皇は「私は全責任を負います」と発言したとされている、一種の美談がある。 しかしこれは本当なのか。 読売新聞一九五五年九月一四日には以下の記述がある。 昭和天皇が「 私は全責任を負います」と語り、これに対して「私(マッカーサー)はこれを聞いて興奮の余り陛下にキスしようとしたくらいです。 ……この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念はその後ますます高まるばかりだった」とされている。 しかし、結果だけを述べれば以下である。 東条英機をはじめとするA級戦犯7名が殺された。 天皇は生き延び、天皇制は維持された。 この矛盾の意味するところは?• 「私の全責任」の原典はマッカーサーの自伝 件の発言の元となるのは、マッカーサーと天皇の第一回会見における自伝である。 以下詳細。 私は、天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴え始めるのではないか、という不安を感じた。 連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろと言う声がかなり強くあがっていた。 現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、天皇が筆頭に記されていたのだ。 (中略)しかし、この私の不安は根拠のないものだった。 天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。 「 私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する、全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした。 」私は、大きい感動にゆすぶられた。 死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする。 この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。 私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても、日本の最上の紳士である事を感じ取ったのである。 (『マッカーサー回想記』下巻P142) ちなみにこの記述には誤りがある。 戦犯リストには天皇の名前はない。 ソ連も英国も天皇をリストに加えておらず、加えたのはオーストラリアである、と豊下楢彦は指摘している。 この回想記は、その他にも事実と異なる記述が多いことで有名だ。 当時、マッカーサーはすでに80歳を越えていた。 耄碌していたという見方が強い。 第一回会見は、マッカーサーと昭和天皇の他、ボナー・フェラーズ代将、通訳フォービン・バワーズ少佐、通訳奥村勝蔵の5名で行われた。 記録などは行われておらず、会見の内容は極秘だった。 「マッカーサー司令官と、はっきり、これはどこにも言わないと、約束を交わしたことですから。 男子の一言の如きは、守らなければならない」と昭和天皇は述べている。 (ちなみに通訳の奥村は、1941年日米開戦の時、ワシントンの日本大使館で日本政府の宣戦布告をアメリカ政府に渡すのが遅れた大失態に関与していた人物である) さて天皇・マッカーサー第1回会見での「朕が全責任を負う」発言のエビデンスについては、以下のまとめがよく整理されている。 1 マッカーサー回想録に(記録が)ある。 2 2002年10月17日外務省公開の公式記録にはない。 3 2002年8月5日朝日新聞が公表した「松井明手記」によると、奥村勝蔵が削除したと、松井は奥村から直接聞いたという(奥村、松井は外務省高官。 奥村はこの会見の通訳、松井は奥村の後任の通訳)。 4 しかし、松井の言うように奥村が削除したかどうか、研究者の間でも定説がない。 「朕が全責任を負う」発言自体なかったのか? () ちなみにこの奥村の「削除」は、なんらかの文言が削除されたと伝えたのみでその内容は知らされていない。 「天皇の責任」関係ではなく、「東条の責任」という説もあるのだが、後に述べることを考慮すると、後者の方が整合性がある。 これに加えて、次の事実がある。 1975年の「文芸春秋」で作家の児島襄が「奥村勝蔵が手記した会見記録」を公表していたが、そこには「全責任発言」はなかった。 つまり戦争を避けたかったものの、結局は戦争が起きてしまい、残念なことである、といった程度の意味である。 この児玉の発表は学者たちを震撼させたが、マスコミにはほとんどとりあげられなかったと歴史学者の松尾尊兌は記述している(「考証 昭和天皇・マッカーサー元帥第一回会見」)。 そんなわけで、「全責任は私にある」の信憑性はけっこう怪しい。 無論、ないとも言い切れないけど。 つぎに、天皇自体の態度から発言の信憑性を考察したい。 昭和天皇の「全て東条のせいにしてしまえ」という基本路線 少なくとも諸外国においては、「ヒロヒト」はヒトラー並の極悪人として認識されており(第二次世界大戦はプロパガンダ戦争でもあった)、ふつうに考えれば真っ先に戦争責任を問われる存在だった。 そんなわけで天ちゃんは積極的に外国に言い訳をしていた。 アメリカへの言い訳 終戦直後のアメリカの議会や世論では、真珠湾への「奇襲」が激しく批判されていた。 そこでまず、クルックホーンとの会見が実施された。 彼は政治家でもなく軍人でもない。 ニューヨークタイムスの記者である。 彼が事実上、大戦勃発以降最初に天皇に謁見する米国人となったのである。 しかし会見は五分で終わった。 なぜかというと、あらかじめ「日本の将来に対する天皇の見通しと希望、及び米英両国に対する宣戦の詔書の煥発経緯につき質問書が提出」されていたのである。 会見は事実上、単なる文書回答に過ぎなかった。 「昭和天皇実録」によれば、昭和天皇はクルックホーンにこう回答したとされる。 「東条英機が使用した如く宣戦の詔書が使用されるとは予期せられざりし旨を記す」。 つまり、真珠湾への攻撃は東条が勝手にやったことで、昭和天皇のあずかり知らぬところであった、と述べているのである(名指しで)。 この回答については、外務省加瀬俊一、近衛文麿の秘書の細川護貞、松平康昌、吉田茂、石橋荘太郎官相、幣原喜重郎らが案文を作ったと言われている。 ところがこれがアメリカで公表されたときに、昭和天皇およびその関係者はたまげた。 「 ヒロヒト、インタビューで奇襲の責任を東条におしつける」との大見出しをつけたからである。 この内容は日本にも二日後公表される予定だったのだが、内務省は「日本国民に悪影響をもたらす」とのことで差し押さえてしまった(のちにGHQにより差し押さえは解除)。 事実上、昭和天皇は「東条のせい」だと回答したことになるが、内務省は「天皇が個人を名指しで批判することはない」として、国内向けには「参謀本部によって決定され、天皇は一般に諮問に預からない」というように置き換わった。 つまり天皇は悪くないよ、と民衆にアピールしたのである。 イギリスへの言い訳 イギリスに対しても「東条が悪い」アピールがなされた。 1946年1月28日に、来日中の英国特命全権大使であるジョージ・ベイリー・サンソムを通じて英国王にメッセージを伝える試みがなされたのであるが、その内容は以下のようなものだった。 「私は当時の首相の東条大将に、英国での楽しかった日々の記憶を思い出しながら、強い遺憾と不本意の気持ちを抱きつつ、余儀なく(署名)するのだ、と繰り返し告げながら、胸のはりさける悲痛な思いで開戦の詔書に署名をしました」(高橋紘「昭和天皇発言録」) これについては、サンソムは王室に伝えるべきか困惑したとされる。 サンソムの英国外務省高官、L. フォールズは以下のように「覚え書き」をしている。 「私は天皇も同じ非難を受けてしかるべきだと考える。 天皇は、自ら言われたように、胸のはりさける悲痛な思いで開戦の詔書に署名をされたかもしれないが、しかし、署名をしたのである。 」 ようは、「東条は悪い、しかし、私は悪くない」というメッセージを自国の国王に伝えるべきか、彼は煩悶していたわけだ。 結局のところ、昭和天皇のメッセージはサンソムに託されてからおよそ一ヶ月半かかってジョージ六世に届けられた。 責任取る気はなさそう 以上見た限り、なさそう。 だから「ぼくに全責任がある」なんてことも言ってないんじゃない。 「東条ガー」 だもの。 アメリカ「真珠湾奇襲の経緯を教えて欲しい」 天ちゃん「東条が勝手にやったことだ。 私は知らない」 アメリカ「号外! ヒロヒトが東条に責任おしつけた!」 天ちゃん「タンマ! 差し押さえします」 天ちゃん「東条を責めてるわけじゃありません!」 アメリカ「……」 天ちゃん「イギリスさんイギリスさん」 イギリス「なにかな」 天ちゃん「イギリスはぼくの第二の祖国。 敵に回したくなかったんだ」 イギリス「はあ」 天ちゃん「でも東条が宣戦布告したんです! ぼくは署名したくなかった!」 イギリス「そう……(これ国王に伝えたもんかなあ……)」 まあかいつまんでいえばこんな感じ。 ところでこういうように戯画化して書くと、天皇が自ら保身に走っているように思われるかもしれないが、天皇に戦争責任を負わせたくなかったのはだれよりもマッカーサーであった。 マッカーサーは天皇の権威を統治に利用したかったし、昭和天皇は生き延びて、天皇制の権威を維持したかった。 実にアメリカ代表としてのマッカーサー、日本代表としての昭和天皇の両輪によって戦後日本は形づくられたのである。 結論:天皇は「全責任発言」をしていない可能性が高い。 個人的な結論としては、 天皇は「全責任発言」をしていない可能性が高い。 細かく言うと、「責任を認めた」可能性はある(そもそも、責任は確実に存在するのだから)。 しかし、「すべて私の責任だ」と言ったとは考えにくい。 事実天皇の責任は限られていた。 軍部が天皇の言うことを聞かなかったのは事実だし、当時の日本のパワーバランスは複雑だっただろう。 いずれにせよ、全責任発言の「原典」とされるマッカーサーの記述は信頼性が低く、史料として使い物にならない。 にもかかわらずろくに考証もなく「 エコーチャンバー化」しているのが問題だろう。 ひとつ感慨深かったこと。 勝者によって歴史はつくられる。 天皇は敗戦を経験したが、結果的にはうまく立ち回って「勝った」、負けの中の勝ちを掴んだのではないかなあ、と思う。 東条はどうしたか ところで「敗けた」東条はどうしたか。 一九四七年十二月三一日、率直な弁明なのか、あるいは天皇の自身への扱いにうんざりしたのかはわからないが、以下の発言をしている。 「 日本国の臣民が、陛下の御意志に反してかれこれするということはあり得ぬことであります」。 これに慌てた東京裁判首席検察官のキーナンやその周囲が必死の工作を行った。 翌年一月六日に東条は、「戦争を決意」したのは自らの内閣であり、天皇は「しぶしぶ御同意になった」と「真意」を説明した。 実にこの東条の発言によって、昭和天皇は戦争責任を問われることを免れたのである。 東条「ぶっちゃけ、あの当時天皇の指示に逆らう奴なんていなかったよ」 アメリカ「はいストップ! ちょっと待って!」 アメリカ「ごにょごにょ……」 東条「……」 東条「ええと、ぼくらが勝手にしたことです。 天皇は嫌がってました」 東条の頭をはたいたこの男は大川周明。 梅毒により一時的に発狂していたとされる。 なんだかなあ。。 おまんじゅうが食べたくなってきたなあ……。 確実な史料により「戦後レジーム」の正体と、現在にまで及ぶその影響の根源が実によく分かる。 今後、いかなる戦後史の著者も本書を無視することはできないであろう。 とレビューにあるが、それだけの価値のある本である。 mikuriyan.

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「東条にだまされた。しかし…」という天皇の論理

昭和 天皇 戦争 責任

昭和天皇は「私は全責任を負います」と発言したとされている、一種の美談がある。 しかしこれは本当なのか。 読売新聞一九五五年九月一四日には以下の記述がある。 昭和天皇が「 私は全責任を負います」と語り、これに対して「私(マッカーサー)はこれを聞いて興奮の余り陛下にキスしようとしたくらいです。 ……この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念はその後ますます高まるばかりだった」とされている。 しかし、結果だけを述べれば以下である。 東条英機をはじめとするA級戦犯7名が殺された。 天皇は生き延び、天皇制は維持された。 この矛盾の意味するところは?• 「私の全責任」の原典はマッカーサーの自伝 件の発言の元となるのは、マッカーサーと天皇の第一回会見における自伝である。 以下詳細。 私は、天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴え始めるのではないか、という不安を感じた。 連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろと言う声がかなり強くあがっていた。 現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、天皇が筆頭に記されていたのだ。 (中略)しかし、この私の不安は根拠のないものだった。 天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。 「 私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する、全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした。 」私は、大きい感動にゆすぶられた。 死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする。 この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。 私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても、日本の最上の紳士である事を感じ取ったのである。 (『マッカーサー回想記』下巻P142) ちなみにこの記述には誤りがある。 戦犯リストには天皇の名前はない。 ソ連も英国も天皇をリストに加えておらず、加えたのはオーストラリアである、と豊下楢彦は指摘している。 この回想記は、その他にも事実と異なる記述が多いことで有名だ。 当時、マッカーサーはすでに80歳を越えていた。 耄碌していたという見方が強い。 第一回会見は、マッカーサーと昭和天皇の他、ボナー・フェラーズ代将、通訳フォービン・バワーズ少佐、通訳奥村勝蔵の5名で行われた。 記録などは行われておらず、会見の内容は極秘だった。 「マッカーサー司令官と、はっきり、これはどこにも言わないと、約束を交わしたことですから。 男子の一言の如きは、守らなければならない」と昭和天皇は述べている。 (ちなみに通訳の奥村は、1941年日米開戦の時、ワシントンの日本大使館で日本政府の宣戦布告をアメリカ政府に渡すのが遅れた大失態に関与していた人物である) さて天皇・マッカーサー第1回会見での「朕が全責任を負う」発言のエビデンスについては、以下のまとめがよく整理されている。 1 マッカーサー回想録に(記録が)ある。 2 2002年10月17日外務省公開の公式記録にはない。 3 2002年8月5日朝日新聞が公表した「松井明手記」によると、奥村勝蔵が削除したと、松井は奥村から直接聞いたという(奥村、松井は外務省高官。 奥村はこの会見の通訳、松井は奥村の後任の通訳)。 4 しかし、松井の言うように奥村が削除したかどうか、研究者の間でも定説がない。 「朕が全責任を負う」発言自体なかったのか? () ちなみにこの奥村の「削除」は、なんらかの文言が削除されたと伝えたのみでその内容は知らされていない。 「天皇の責任」関係ではなく、「東条の責任」という説もあるのだが、後に述べることを考慮すると、後者の方が整合性がある。 これに加えて、次の事実がある。 1975年の「文芸春秋」で作家の児島襄が「奥村勝蔵が手記した会見記録」を公表していたが、そこには「全責任発言」はなかった。 つまり戦争を避けたかったものの、結局は戦争が起きてしまい、残念なことである、といった程度の意味である。 この児玉の発表は学者たちを震撼させたが、マスコミにはほとんどとりあげられなかったと歴史学者の松尾尊兌は記述している(「考証 昭和天皇・マッカーサー元帥第一回会見」)。 そんなわけで、「全責任は私にある」の信憑性はけっこう怪しい。 無論、ないとも言い切れないけど。 つぎに、天皇自体の態度から発言の信憑性を考察したい。 昭和天皇の「全て東条のせいにしてしまえ」という基本路線 少なくとも諸外国においては、「ヒロヒト」はヒトラー並の極悪人として認識されており(第二次世界大戦はプロパガンダ戦争でもあった)、ふつうに考えれば真っ先に戦争責任を問われる存在だった。 そんなわけで天ちゃんは積極的に外国に言い訳をしていた。 アメリカへの言い訳 終戦直後のアメリカの議会や世論では、真珠湾への「奇襲」が激しく批判されていた。 そこでまず、クルックホーンとの会見が実施された。 彼は政治家でもなく軍人でもない。 ニューヨークタイムスの記者である。 彼が事実上、大戦勃発以降最初に天皇に謁見する米国人となったのである。 しかし会見は五分で終わった。 なぜかというと、あらかじめ「日本の将来に対する天皇の見通しと希望、及び米英両国に対する宣戦の詔書の煥発経緯につき質問書が提出」されていたのである。 会見は事実上、単なる文書回答に過ぎなかった。 「昭和天皇実録」によれば、昭和天皇はクルックホーンにこう回答したとされる。 「東条英機が使用した如く宣戦の詔書が使用されるとは予期せられざりし旨を記す」。 つまり、真珠湾への攻撃は東条が勝手にやったことで、昭和天皇のあずかり知らぬところであった、と述べているのである(名指しで)。 この回答については、外務省加瀬俊一、近衛文麿の秘書の細川護貞、松平康昌、吉田茂、石橋荘太郎官相、幣原喜重郎らが案文を作ったと言われている。 ところがこれがアメリカで公表されたときに、昭和天皇およびその関係者はたまげた。 「 ヒロヒト、インタビューで奇襲の責任を東条におしつける」との大見出しをつけたからである。 この内容は日本にも二日後公表される予定だったのだが、内務省は「日本国民に悪影響をもたらす」とのことで差し押さえてしまった(のちにGHQにより差し押さえは解除)。 事実上、昭和天皇は「東条のせい」だと回答したことになるが、内務省は「天皇が個人を名指しで批判することはない」として、国内向けには「参謀本部によって決定され、天皇は一般に諮問に預からない」というように置き換わった。 つまり天皇は悪くないよ、と民衆にアピールしたのである。 イギリスへの言い訳 イギリスに対しても「東条が悪い」アピールがなされた。 1946年1月28日に、来日中の英国特命全権大使であるジョージ・ベイリー・サンソムを通じて英国王にメッセージを伝える試みがなされたのであるが、その内容は以下のようなものだった。 「私は当時の首相の東条大将に、英国での楽しかった日々の記憶を思い出しながら、強い遺憾と不本意の気持ちを抱きつつ、余儀なく(署名)するのだ、と繰り返し告げながら、胸のはりさける悲痛な思いで開戦の詔書に署名をしました」(高橋紘「昭和天皇発言録」) これについては、サンソムは王室に伝えるべきか困惑したとされる。 サンソムの英国外務省高官、L. フォールズは以下のように「覚え書き」をしている。 「私は天皇も同じ非難を受けてしかるべきだと考える。 天皇は、自ら言われたように、胸のはりさける悲痛な思いで開戦の詔書に署名をされたかもしれないが、しかし、署名をしたのである。 」 ようは、「東条は悪い、しかし、私は悪くない」というメッセージを自国の国王に伝えるべきか、彼は煩悶していたわけだ。 結局のところ、昭和天皇のメッセージはサンソムに託されてからおよそ一ヶ月半かかってジョージ六世に届けられた。 責任取る気はなさそう 以上見た限り、なさそう。 だから「ぼくに全責任がある」なんてことも言ってないんじゃない。 「東条ガー」 だもの。 アメリカ「真珠湾奇襲の経緯を教えて欲しい」 天ちゃん「東条が勝手にやったことだ。 私は知らない」 アメリカ「号外! ヒロヒトが東条に責任おしつけた!」 天ちゃん「タンマ! 差し押さえします」 天ちゃん「東条を責めてるわけじゃありません!」 アメリカ「……」 天ちゃん「イギリスさんイギリスさん」 イギリス「なにかな」 天ちゃん「イギリスはぼくの第二の祖国。 敵に回したくなかったんだ」 イギリス「はあ」 天ちゃん「でも東条が宣戦布告したんです! ぼくは署名したくなかった!」 イギリス「そう……(これ国王に伝えたもんかなあ……)」 まあかいつまんでいえばこんな感じ。 ところでこういうように戯画化して書くと、天皇が自ら保身に走っているように思われるかもしれないが、天皇に戦争責任を負わせたくなかったのはだれよりもマッカーサーであった。 マッカーサーは天皇の権威を統治に利用したかったし、昭和天皇は生き延びて、天皇制の権威を維持したかった。 実にアメリカ代表としてのマッカーサー、日本代表としての昭和天皇の両輪によって戦後日本は形づくられたのである。 結論:天皇は「全責任発言」をしていない可能性が高い。 個人的な結論としては、 天皇は「全責任発言」をしていない可能性が高い。 細かく言うと、「責任を認めた」可能性はある(そもそも、責任は確実に存在するのだから)。 しかし、「すべて私の責任だ」と言ったとは考えにくい。 事実天皇の責任は限られていた。 軍部が天皇の言うことを聞かなかったのは事実だし、当時の日本のパワーバランスは複雑だっただろう。 いずれにせよ、全責任発言の「原典」とされるマッカーサーの記述は信頼性が低く、史料として使い物にならない。 にもかかわらずろくに考証もなく「 エコーチャンバー化」しているのが問題だろう。 ひとつ感慨深かったこと。 勝者によって歴史はつくられる。 天皇は敗戦を経験したが、結果的にはうまく立ち回って「勝った」、負けの中の勝ちを掴んだのではないかなあ、と思う。 東条はどうしたか ところで「敗けた」東条はどうしたか。 一九四七年十二月三一日、率直な弁明なのか、あるいは天皇の自身への扱いにうんざりしたのかはわからないが、以下の発言をしている。 「 日本国の臣民が、陛下の御意志に反してかれこれするということはあり得ぬことであります」。 これに慌てた東京裁判首席検察官のキーナンやその周囲が必死の工作を行った。 翌年一月六日に東条は、「戦争を決意」したのは自らの内閣であり、天皇は「しぶしぶ御同意になった」と「真意」を説明した。 実にこの東条の発言によって、昭和天皇は戦争責任を問われることを免れたのである。 東条「ぶっちゃけ、あの当時天皇の指示に逆らう奴なんていなかったよ」 アメリカ「はいストップ! ちょっと待って!」 アメリカ「ごにょごにょ……」 東条「……」 東条「ええと、ぼくらが勝手にしたことです。 天皇は嫌がってました」 東条の頭をはたいたこの男は大川周明。 梅毒により一時的に発狂していたとされる。 なんだかなあ。。 おまんじゅうが食べたくなってきたなあ……。 確実な史料により「戦後レジーム」の正体と、現在にまで及ぶその影響の根源が実によく分かる。 今後、いかなる戦後史の著者も本書を無視することはできないであろう。 とレビューにあるが、それだけの価値のある本である。 mikuriyan.

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「富田メモ」が明らかにする昭和天皇の無責任と傲慢

昭和 天皇 戦争 責任

日中戦争や太平洋戦争を経験した昭和天皇が晩年まで戦争責任について気に掛けていた心情が改めて浮き彫りになった。 87年4月7日の欄に「昨夕のこと」と記されており、昭和天皇がこの前日、住まいの皇居・吹上御所で、当直だった小林氏に直接語った場面とみられる。 当時、宮内庁は昭和天皇の負担軽減策を検討していた。 この年の2月には弟の高松宮に先立たれた。 小林氏はその場で「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。 戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。 お気になさることはない」と励ました。 既に公表されている先輩侍従の故卜部亮吾氏の日記にも、同じ4月7日に「長生きするとろくなことはないとか 小林侍従がおとりなしした」とつづられている。 宮内庁長官だった故富田朝彦氏が残した「富田メモ」は「昨夜当直小林(忍)侍従に、弟を見送り戦争責任論が未だ尾を引き、そして負担軽減云々で長生きしすぎたかと洩らされた旨」と記す。 日記には昭和天皇がこの時期、具体的にいつ、誰から戦争責任を指摘されたのかについての記述はない。 直近では、86年3月の衆院予算委員会で共産党の衆院議員だった故正森成二氏が天皇の責任を追及、これを否定する中曽根康弘首相と激しい論争が交わされた。 88年12月には長崎市長だった故本島等氏が「天皇の戦争責任はあると思う」と発言し、波紋を呼ぶなど晩年まで度々論争の的になった。 小林氏は人事院出身。 昭和天皇の侍従になった74年4月から、側近として務めた香淳皇后が亡くなる2000年6月までの26年間、ほぼ毎日日記をつづった。 〔共同〕.

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