エレナ チャウシェスク。 独裁者を父に持った子どもたちの生涯

【悪妻・悪女】歴史に名を残した悪い女たち

エレナ チャウシェスク

そして彼は11歳の時に首都ブカレストにて働き始め、ここで 共産主義という思想に浸かり始めます。 この頃の共産主義といったらソ連がまだ共産主義革命によって誕生したばかり。 まだまだ共産主義政党が非合法な国もたくさんあり、 ルーマニアもそのうちの一つでありました。 しかし、彼は1932年にルーマニア共産党に入党。 何度も逮捕されて刑務所に入れられても共産主義の実現のため動き続け、1945年にルーマニアがソ連によって占領されるまで刑務所と潜伏活動を行ったりきたりしています。 そしてルーマニアがソ連に占領されるとソ連の傀儡として ルーマニア共産党政権が誕生。 チャウシェスクはその党のトップ2になり政治を動かしていくのでした。 ちなみにこの時に生涯の妻となり、彼よりも悪政を敷くことになる エレナ・チャウシェスクとは1943年に刑務所で出会いそのまま1946年に結婚。 この時からルーマニアの運命は決まっていたのでした。 ルーマニアのトップとして 時が経ち1965年、この時ルーマニア共産党の指導者であり、チャウシェスクの友人であった ゲオルゲ・デシが死去。 後継者としてチャウシェスクに白羽の矢が立ちました。 こうして彼はルーマニア共産党の第一書記に就任。 ルーマニアの指導者に成り上がったのです。 そんな彼であるが、最初の頃は悪政の連発はしておらず、ユーゴスラビアを習ってソ連の衛星国にあるにかかわらず、ソ連と距離を置いて西ドイツやアメリカなどの西側諸国との交流を取り援助を取り付けたり、国交を結ぶなど開放的な政策をとっていました。 ちなみに、日本にも来日して 昭和天皇とも会談しています。 特に酷かったのがルーマニアにおける 人工中絶の禁止でした。 実は妻は 大の子供好き。 最初の方は孤児院の設立や学校の設立など良い方向にいってたはずが、いつのまにか「 人が多いと国が発展する」と勘違いし始めて1966年に人工中絶の禁止や離婚の基本的な禁止、さらには子供を5人産んだ人に対して優遇措置を取るなど、まるで戦時中の日本の『 産めよ増やせよ』に本気で取り組んでいきました。 しかし、当時の経済的余裕がなかったルーマニアではうまくいかず、経済的な理由から育児放棄による捨て子が増発。 『 チャウシェスクの落とし子』とも言われるルーマニアのストリートチルドレンの増発を引き起こしてしまいました。 さらに中国や北朝鮮を公式訪問してからニコラエ・チャウシェスクの方も少しずつ方向性がズレていき、北朝鮮や中国のような 個人崇拝を取り入れ始め、有能な軍人や政治家などがこぞって亡命。 ルーマニアの有名な新体操選手である コマネチもルーマニア革命直前にアメリカに亡命しています。 実は上にも書いた通りルーマニアはこの頃、西側諸国と交流を行なっていたと書いていましたが、その時融資された130億ドルの大金が払えなくなっていき、これが原因で1970年代に入るとルーマニアの財政は破綻状態に追い込まれてしまいます。 困ったチャウシェスクは仕方なくお金を返済するために、ありったけのルーマニアの工業品や農作物を輸出して外貨を稼いでいきます。 しかし、そうなると国内での飢餓が蔓延。 今日食べるものも困る事態となり、さらに産めよ増やせよの精神もあってどんどん国内状況は悪化していきます。 しかし、チャウシェスクや妻はこんな状態は見て見ぬ振り。 それどころか首都ブカレストに「 アメリカ国防総省 ペンタゴン に次ぐでかい宮殿を建てよう!」と 国民の館を建設。 富を完全に独占して貧富の差がどんどん広がっていきました。 ルーマニア革命による処刑 こうした中、1985年に共産主義国の親玉であるソ連がを始めると、ルーマニアの情勢はより酷いものになっていきます。 もう、この頃になると西側諸国も東側諸国もルーマニアに愛想をつかしており、国際社会で完全に孤立していました。 しかし彼は権力を手放そうとせず、より個人崇拝を強化していきます。 流石に民衆たちにも我慢の限界がやってきて反発する意見が増えてきます。 さらに1989年にによって各地の共産党政権が倒されると、この動きは加速。 同年12月についにが勃発しました。 頼りのソ連にも見限られさらに、軍にも裏切られた ニコラエ・チャウシェスクは失脚。 12月25日のクリスマスの日に軍による略式裁判によって、 妻とともに公開処刑されました。 チャウシェスクの死後、ルーマニアでは自由選挙が開催。 民主主義が復活しましたが、彼が残した爪痕はひどく今でもルーマニアは経済停滞などさまざまな問題があります。 ちなみに彼が遺した最大の負の遺産である 国民の館は、今ではルーマニアでは一二を争う観光地となっており、良くも悪くもルーマニアを象徴する建物となりました。 関連記事: カテゴリー• 110• 358• 355• 1,412• 149• 807• 589• 169• 100• 177• 142• 134• 106• 561•

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ルーマニアのチャウシェスクさんの家系!!今世界史新聞でルーマ...

エレナ チャウシェスク

ヤーコフ・ジュガシヴァリ(スターリンの息子) 親父に冷たくあしらわれた出来の悪い息子 ソ連の独裁者スターリンは女好きで、3人の妻以外に何人も愛人を作りました。 しかしまともに面倒を見た人はおらず、多くが自殺に追い込まれたり、暗殺されたり、不審死したりしており、スターリンは家庭的意識のかけらもない男でした。 最初の妻エカテリーナ・スワニーゼとの間に生まれたのが、長男ヤーコフ・ジュガシヴァリです。 ヤーコフはカリスマ的な父に愛情と憧れをいだくも、スターリンはことのほかヤーコフに厳しく接したそうです。 ヤーコフもあまり出来がいいほうではなく、絶望したヤーコフは拳銃で自殺をしようとしますが見事に失敗。 それを聞いたスターリンは 「ヤツは拳銃すらまっすぐ撃つこともできない」と吐き捨てたそうです。 その後ヤーコフは大祖国戦争(独ソ戦)に参戦するもドイツ軍の捕虜になってしまい、息子の返還とドイツ兵捕虜の返還を申し出たドイツ軍元帥フリードリヒ・パウルスに対し、 「ドイツに寝返った息子などいない」と言って申し出を拒否してしまいました。 これに絶望したのか、ヤーコフは捕虜収容所で突如金網に突進し警備兵に撃たれ殺されたと言われています。 ニク・チャウシェスク(チャウシェスクの息子) 父親の威光を借りて贅沢三昧を楽しんだ男 ルーマニアの独裁者チャウシェスクは24年間の長きに渡りルーマニアの独裁者に君臨し、強権的な統治と経済失策でルーマニア国民を苦しめ、一方で自らは豪華絢爛な生活を送り一族郎党に重要ポストを占めさせるなどしたため、最後は1989年のルーマニア革命で失脚。 革命軍の手で公開処刑されました。 妻エレナもこの時一緒に処刑されるのですが、このエレナとの間に生まれた3人の子のうちの次男がニク・チャウシェスク。 ニクは長男が学者になったことで必然的に父の後継者候補となり、秘密警察の幹部の役職でした。 ニクは大変な浪費家で、華麗なる一族らしく、 毎晩パーティーやギャンブル三昧。 高級車や高級ワインを買いまくり、ただでさえ低迷する国庫から貴重なカネを浪費しまくりました。 革命が勃発した際は、愛人と共にクルマで逃げようとしたところを革命軍によって逮捕されました。 捕えられたニクは、人々に口々に罵られその模様は国営テレビにて全国民に向けて放映されました。 裁判で政治資金乱用や、デモ隊への発砲で多数の死傷者を出した罪で、20年の懲役刑を宣告されました。 1992年に肝硬変のため解放され、4年後にウィーンの病院で死去しました。 マルコ・ミロシェヴィッチ(ミロシェヴィッチの息子) Photo from 現在もロシアで亡命生活を送るミロシェビッチの息子 マルコ・ミロシェビッチの父は、セルビア共和国大統領で後にユーゴスラビア連邦(新ユーゴ)大統領のスロボダン・ミロシェヴィッチ。 セルビア時代を含めると13年もの間、秘密警察や情報機関を使って政敵や敵対勢力を容赦なく潰す恐怖政治を続けました。 コソボ紛争中のアルバニア系住民虐殺事件で「人道に対する罪」を問われ、国際戦犯法廷で裁かれた人物です。 マルコは父の時代に、香水ブランド、パン製造業、ナイトクラブなど、数多くの企業に携わっていましたが、彼のすべての企業は違法で、 化石燃料、薬品、たばこなどの密輸取引を行い莫大な富を上げていたと言われています。 加えて、マルコはプレイボーイで知られ、彼は「高価なクルマに美人の女の子を乗せるのを好み、音楽と銃を愛した」そうです。 父ミロシェビッチが2000年の選挙で不正を働き、怒った国民が起こした抗議運動「ブルドーザー革命」にて、父は大統領から失墜。 反ミロシェビッチの嵐が全土で吹き荒れる中、マルコは一気に権力を失うことになります。 慌ててセルビアから出国し、中国の銀行にある自分の資産を回収しようと偽のパスポートで中国に入国しようとしますが、バレてロシアに追放されました。 現在ロシア政府はマルコとマルコの家族の難民認定を認めていますが、セルビア政府によって国際手配がなされており、EUはEU圏内へのマルコの入国を拒否しています。 PR 4. テオドロ・ンゲマ・オビアン・マンゲ(ンゲマの息子) Photo from 贅沢ライフを満喫中の独裁者のドラ息子 アフリカ中部の小国・赤道ギニアは、大統領制の共和国家です。 現在の大統領テオドロ・オビアン・ンゲマは、1979年にクーデターで独立の英雄である叔父フランシスコ・マシアス・ンゲマを処刑して大統領に就任しました。 たびたびクーデターや大統領暗殺未遂事件が発生し政情不安が続き民生移管はならず、赤道ギニア民主党(PDGE)の一党独裁の元、事実上ンゲマによる独裁状態が30年以上続いています。 オビアン・ンゲマは大規模な汚職とマネーロンダリングを行っている疑惑があり、国際的に調査されており、息子のテオドロ・ンゲマ・オビアン・マンゲ(通称テオドリン)も、フランスでの汚職とマネーロンダリング事件に関係して、フランスの裁判官から国際逮捕状を発行され指名手配されています。 別の調査では、 テオドリンが農水相の立場を乱用してカネを流してマネーロンダリングした上で自分のポケットに入れ、そのカネでルノワールなどの巨匠の絵画4500万ドル相当を手に入れた疑惑もあります。 テオドリンの贅沢な所有物の中には、フェラーリ50万ドル、マリブの邸宅3000万ドル、グラマン・ガルフストリームジェット3850万ドルなどなど、ボーイズ・ドリームを絵に描いたような品物がズラリと並んでいます。 現在は夢のような暮らしを楽しんでいるテオドリンですが、これが生涯続くほど甘い世の中ではないでしょう。 毛岸青(毛沢東の息子) 子どもに全く関心がなかった父に放っておかれた人生 中華人民共和国建国の父・毛沢東は4人の妻と結婚しますが、2番目の妻・楊開慧(よう かいけい)との間に、長男・毛岸英(もう がんえい)、次男・ 毛岸青(もう がんせい)を儲けています。 しかし毛沢東はあまり子どもには関心がなく、毛岸青はめったに父親の顔を見ることがなかったそうです。 毛岸青は共産党の活動家だった母・楊開慧と過ごしますが、1930年に長沙にて国民革命軍によって捕えられ、銃殺されてしまいます。 毛沢東は楊開慧の死は嘆き悲しんだそうですが、子どもたちは引き取ろうとはせず、 共産党の組織に匿われていましたが全く自由はなく外に出ることも禁じられたので、1935年に兄弟は家出をしてしまい、上海で乞食のような生活を送っていたそうです。 その後連れ戻され、教育を受けた毛岸青はロシア語をマスターし、モスクワとパリで通訳として活動。 1947年に中国に戻りますが、帰国後のことはよく分かっておらず、一説によると1950年あたりで統合失調症を発病したそうです。 苦労を共にした毛岸英は、同じ時期の1950年に朝鮮戦争で死亡しています。 毛岸青は2007年に83歳で北京で死亡しました。 ちなみに彼の息子・毛新宇は、現在中国人民解放軍の「最年少少将」だそうで、エリート街道を進んでいるそうです。 エッダ・ムッソリーニ(ムッソリーニの娘) 愛のために父親と戦った娘 エッダ・ムッソリーニはイタリアの独裁者ムッソリーニの娘(写真中央の人物)。 20歳で軍人の息子のガレアッツォ・チャーノと結婚。 チャーノはムッソリーニが実権を握った後は、イタリアの外相に就任しています。 1943年、連合軍が南イタリアに侵入したことによって、ファシズム大評議会で糾弾されたムッソリーニは首相を解任されてしまいます。 義父の解任投票にチャーノは「賛成」の票を入れました。 解任されたムッソリーニはドイツに保護され、傀儡国家イタリア社会共和国の統領となります。 ヒトラーはチャーノの裏切りに怒り、処刑を命じますが、ムッソリーニは「しょうがなかったのだ、許してほしい」と助命懇願をし、チャーノは一命をとりとめたのでした。 しかしチャーノの逮捕は免れられず、娘エッダはチャーノと共に南米に渡ることをヒトラーとムッソリーニに懇願しますが受け入れられません。 そこでエッダはチャーノが極秘につけていた「日記」を武器にしてチャーノを取り返そうと画策しました。 この日記には1937年から42年までのドイツとイタリアの極秘情報が多く記述されたもので、エッダはこの日記の受け渡しと引き換えにチャーノの解放をするようドイツ側に取引を求めました。 しかし取引は実施されず、エッダは日記を腹に抱えてスイスに亡命。 改めて手紙で父親に「チャーノが解放されなければ日記を全世界に公開する」と脅すも、結局チャーノの死刑は実行されてしまう。 その後エッダはアメリカの新聞シカゴ・デイリー・ニュース紙を通じて日記を公開したのでした。 ウダイ・フセイン(フセインの息子) 最悪な性格でイラク国民に嫌われたフセインの息子 イラクの元独裁者サダム・フセインの息子ウダイ・フセインは、父親の威光を借りて若いころからやりたい放題の振る舞いをしており、イラク国民にめちゃくちゃ嫌われていました。 ロクに勉強せず毎晩クラブで飲み明かしていたにも関わらず大学を首席で卒業したり、イラン・イラク戦争では味方を誤爆する大失態を犯したにも関わらずメディアで英雄と称えられたり、などなど。 高級車を乗り回し、女をとっかえひっかえし、高額な服や食べ物を楽しむ贅沢三昧の日々。 それでもフセインはウダイを自分の後継者として育成しようとしますが、侍従長を殺害してしまったり、売春婦をめぐる争いで親族を銃撃して殺害したりなど傍若無人な振る舞いをして国内外でも悪名が轟くようになり、フセインはとうとう弟のクサイを後継者にすることを考え始めていました。 2003年にイラク戦争が起きると、ウダイは父サダムと別行動をとって弟クサイと共にイラク北部のモスルに逃亡し、ある邸宅に潜伏しました。 情報をキャッチした米軍は、7月22日に特殊部隊を送り銃撃戦の末にウダイとクサイを殺害。 ラムズフェルド国防長官は7月24日に、死んだ兄弟の写真を公開しました。

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【公開銃殺された大統領】ルーマニア チャウシェスク大統領

エレナ チャウシェスク

チャウシェスクとは まず始めにチャウシェスクって何?となると思うので簡単に説明しますね。 チャウシェスクとはルーマニアの大統領であったニコラエ・チャウシェスク一家のことです。 妻である エレナ・チャウシェスクと共に独裁国家を目指し、エレナ・チャウシェスクは国民から税金を搾取し たり宮殿を作る為に8万人もの市民を強制退去させるなどの行いをしたそうです。 国家政策として法律で子供を5人産むことを強制したことにより、食料不足もあって多くのストリートチルド レンが生まれました。 ルーマニアの国民が飢えに苦しんでいる中で自分は贅沢な暮らしをしていたようで国民の税金で1400億円ほ ど蓄えていたそうです。 ニコラエ、エレナチャウシェスクはルーマニア革命によって逮捕され罰せられました。 チャウシェスクによる誘拐って何? 画像引用: ナディアコマネチさんはエレナ・チャウシェスクの息子であるニク・チャウシェスクが 「恋人にしたい」と言 い出したことにより、エレナ・チャウシェスクに 誘拐、監禁されたそうです。 とても理不尽でわがままなことなんでしょうか。 今の日本ではこんなことまかり通らないですよね。 それでもこの当時のルーマニアにおいてチャウシェスク家が全てのようなものだったので仕方ないのでしょう。 ニク・チャウシェスクに夜の街に付き合わされたり、愛人になれと強要された説もあるそうです。 愛人強要に耐え切れなくなったナディアコマネチさんはボロボロになりながらもオーストラリア経由でアメリ カに亡命しました。 これがナディアコマネチさん誘拐の真相のようですが・・・。 ナディアコマネチの不倫騒動 次に ナディアコマネチさんの不倫騒動についてです。 ナディアコマネチさんが不倫騒動を騒がれたのはルーマニアからアメリカに亡命した直後の事らしく、アメリカ に到着した際に2人で住んでいて亡命を手助けした男性とのことをメディアに問われた時に 「秘密」と舌を出し ながら答えたそうで、手助けした男性は4人の子供がいる妻帯者だったことに 「だから何よ」と答えたことが不 倫騒動につながったそうです! 何か引っかかりますよね・・・。 ナディアコマネチさんは誘拐・監禁をされていたはずなのに、一緒に住んでいた男性と亡命。 一体どういうことなのでしょう? ナディアコマネチさんについて調べてみると情報が少なくその中でまとめていたのですが、なんか話しが噛み 合いませんね。 誘拐・監禁は一時的なもので、その後は亡命を手助けした男性と住んでいたということなら繋がりそうなんで すが実際はどうだったんでしょうか・・・。

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