項羽と劉邦 訳。 高等学校古典B/漢文/鴻門之会

韓信 劉邦に天下を取らせた国士無双の大将軍

項羽と劉邦 訳

項王の最期(項王自刎) (現代語訳・解説あり)項羽本紀第七 史記 漢文 項王の最期 -項羽本紀第七より- I think; therefore I am! 本文(白文・書き下し文) 於是項王乃欲東渡烏江。 烏江亭長、檥船待。 謂項王曰、 「江東雖小、地方千里、 衆数十万人、亦足王也。 願大王急渡。 今独臣有船。 漢軍至、無以渡。 」 項王笑曰、 「天之亡我、我何渡為。 且籍与江東子弟八千人、渡江而西。 今無一人還。 縦江東父兄憐而王我、 我何面目見之。 縦彼不言、籍独不愧於心乎。 」 乃謂亭長曰、 「吾知公長者。 吾騎此馬五歳、所当無敵。 嘗一日行千里。 不忍殺之。 以賜公。 」 乃令騎皆下馬歩行、持短兵接戦。 独籍所殺漢軍数百人。 項王身亦被十余創。 顧見漢騎司馬呂馬童。 曰、 「若非吾故人乎。 」 馬童面之、指王翳曰、 「此項王也。 」 項王乃曰、 「吾聞漢購我頭千金・邑万戸。 吾為若徳。 」 乃自刎而死。 是に於いて項王乃ち東のかた烏江を渡らんと欲す。 烏江の亭長、船を檥して待つ。 項王に謂ひて曰はく、 「江東小なりと雖も、地は方千里、 衆は数十万人、亦た王たるに足るなり。 願はくは大王急ぎ渡れ。 今独り臣のみ船有り。 漢軍至るも、以て渡る無し。 項王笑ひて曰はく、 「天の我を亡ぼすに、我何ぞ渡ることを為さん。 且つ籍江東の子弟八千人と、江を渡りて西す。 今一人の還るもの無し。 縦ひ江東の父兄憐れみて我を王とすとも、 我何の面目ありて之に見えん。 縦ひ彼言はずとも、籍独り心に愧ぢざらんや。 乃ち亭長に謂ひて曰はく、 「吾公の長者たるを知る。 吾此の馬に騎すること五歳、当たる所敵無し。 嘗て一日に行くこと千里なり。 之を殺すに忍びず。 以て公に賜はん。 乃ち騎をして皆馬を下りて歩行せしめ、短兵を持して接戦す。 独り籍の殺す所の漢軍、数百人なり。 項王の身も亦十余創を被る。 顧みるに漢の騎司馬呂馬童を見たり。 曰はく、 「若は吾が故人に非ずや。 馬童之に面し、王翳に指して曰はく、 「此れ項王なり。 項王乃ち曰はく、 「吾聞く、漢我が頭を千金・邑万戸に購ふ、と。 吾若の為に徳せしめん。 乃ち自刎して死す。 烏江の亭長は、船を出す用意をして待っていた。 項王にこう言った、 「江東は小さくはありますが、地は千里四方、人口は数十万人、 王となるには十分の大きさです。 大王は急いで渡られてください。 今はわたくし一人だけが船を持っています。 漢軍は、ここに至っても、渡ることができません。 」 項王は笑ってこう言った、 「天が私を滅ぼそうとしているのに、どうして渡河しようか、いやしまい。 しかも、私は江東の子弟8千人と渡河して西進し、 今一人の帰る者も無い。 たとえ江東の父兄が私を憐れんで王にしたとしても、 私は何の面目があって彼らに会えようか、いや、全く面目なく、会えない。 たとえ彼らが何も言わなかったとしても、 私が心に恥じないことがあろうか、いや恥じる。 」 そして、亭長にこう言った、 「私はあなたが高徳の人であることを知っている。 私はこの馬に5年間乗ってきたが、当たる所敵無しであった。 かつて、一日に千里走ったこともあった。 とても殺すには忍びない。 あなたに与えよう。 」 そして、配下の騎兵を下馬させ、白兵戦を挑んだ。 項王は一人で数百人の漢兵を殺した。 項王の身も十余創の傷を受けた。 項王が振り返ると、そこには漢の騎司馬呂馬童がいた。 項王は言った、 「お前は私の旧友ではないか。 」 呂馬童は顔を背け、王翳に指し示して言った、 「項王はここにいるぞ。 」 項王は言った、 「私は聞いている、漢は私の首に千金・一万個の邑を掛けていると。 私はお前に恩恵を施してやろう。 」 そうして、項王は自ら首をはねて死んだ。 烏江亭長、檥船待。 ここにおいてかうわうすなはちひがしのかたうかうをわたらんとほつす。 うかうのていちやう、ふねをぎしてまつ。 項羽は""の垓下から漢軍の包囲を突破して南方へ逃げてきていた。 「亭」は"宿場"であり、秦代には警備の役も担った。 「檥」は"船を出す用意をする"。 かうわうにいひていはく、「かうとうせうなりといへども、ちははうせんり、しゆうはすうじふまんにん、またわうたるにたるなり。 「江東」は江南に同じ。 今独臣有船。 漢軍至、無以渡。 」 ねがはくはだいわういそぎわたれ。 いまひとりしんのみふねあり。 かんぐんいたるも、もつてわたるなし。 「独」は「のみ」と呼応する。 且籍与江東子弟八千人、渡江而西。 今無一人還。 かうわうわらひていはく、「てんのわれをほろぼすに、われなんぞわたることをなさん。 かつせきかうとうのしていはつせんにんと、かうをわたりてにしす。 いまひとりのかへるものなし。 「且」は"そのうえ・また"。 縦彼不言、籍独不愧於心乎。 」 たとひかうとうのふけいあはれみてわれをわうとすとも、われなんのめんぼくありてこれにまみえん。 たとひかれいはずとも、せきひとりこころにはぢざらんや。 「縦 たと-ヒ 」は"たとえ〜であっても"。 「見 まみ-ユ 」は"会う・お目にかかる"。 ここにおける「独」は反語を表す。 「愧」は"恥じる"。 「籍」は項羽の名前である。 「羽」は字。 吾騎此馬五歳、所当無敵。 すなはちていちやうにいひていはく、「われこうのちやうしやたるをしる。 われこのうまにきすることごさい、あたるところてきなし。 「公」は尊敬をこめた呼びかけの語で"あなた"のような意味。 「長者 ちょうしゃ 」は"徳の高い人"。 「歳」は「年」に通じる。 不忍殺之。 以賜公。 」 かつていちにちにゆくことせんりなり。 これをころすにしのびず。 もつてこうにたまはん。 「不忍」は"耐えられない・我慢できない・見逃せない"。 「賜」は"お与えになる"、尊敬表現である。 従ってここは、自尊表現になっている。 独籍所殺漢軍数百人。 項王身亦被十余創。 すなはちきをしてみなうまをくだりてほかうせしめ、たいぺいをじしてせつせんす。 ひとりせきのころすところのかんぐん、すうひやくにんなり。 かうわうのみもまたじふよさうをかうむる。 「令」は使役。 「兵」は戦争関連の事柄を表すが、ここでは"武器"の意である。 「創」は傷を表す。 曰、「若非吾故人乎。 」馬童面之、指王翳曰、「此項王也。 」 かへりみるにかんのきしばりよばどうをみたり。 いはく、「なんぢはわがこじんにあらずや。 ばどうこれにめんし、わうえいにしめしていはく、「これかうわうなり。 「騎司馬」は"騎兵隊長"。 「若 なんぢ 」は"おまえ"。 「故人」は"旧友"、死んだ人ではない。 「非〜」は"〜でない"。 「面」は"顔を背ける"。 吾為若徳。 」乃自刎而死。 かうわうすなはちいはく、「われきく、かんわがかうべをせんきん・いふばんこにあがなふ、と。 われなんぢのためにとくせしめん。 乃ち自刎して死す。 「購」は"懸賞を掛けて求める"。 「邑」は城壁で囲まれた町を表す。 中国古代の町はほとんどこれだった。 ちなみに城壁の外を「郊」という。 「徳」は"恩恵を施す・手柄を立てさせてやる"。 「自刎」は"自殺"。 総括 から漢の大群を少数精鋭で破りながら烏江まで逃げてきた項羽だったが、 やはり故郷に至り、ともに出発した8千人が皆死んでしまったことに思うところがあったのだろう。 ここで項羽は逃亡をあきらめた。 もともと項羽は敗れたことがなかった。 劉邦が何度も敗れ、逃亡してはまた復活を繰り返したのとは対照的である。

次の

歴史物語の最高傑作『史記』!その魅力と作者・司馬遷の生きざま

項羽と劉邦 訳

これまでの あらすじ [ ] 秦(しん)の始皇帝の死後、中国の反乱が起きた。 さまざまな者が、次の皇帝の座を狙って、反乱を起こし、反乱軍を指揮した。 皇帝の座を狙う者たちの中に、項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)がいた。 さて、反乱軍は秦軍と戦い、反乱軍は各地で勝利をおさめ、反乱軍の占領地は広まっていき、そして反乱軍はとうとう秦の都の咸陽(かんよう)に迫った。 反乱軍の暫定的なリーダーだった、楚の懐王は、関中を先に占領した者を、関中の王としよう、と決めた。 なので、各地の反乱軍が、関中を目指した。 項羽は北側から関中に向かい、劉邦は南側から関中に向かった。 反乱軍の中で、咸陽(かんよう)を先に占領したのは、劉邦(りゅうほう)の軍だった。 劉邦もまた、天下取りを狙っている。 いっぽう、項羽たちは函谷関(かんこくかん)に到着したが、劉邦の軍が守備しており、項羽たちは、その先の関中(かんちゅう)に進めない。 項羽は怒って、関所ごと、劉邦の軍を攻撃した。 そして項羽軍は、これから本格的に、劉邦軍に攻め込もうとした。 この時点では、劉邦の軍勢よりも、項羽の軍勢のほうが強大であり、そのため、もし項羽軍によって劉邦軍がこれから本格的に攻めこまれたら、劉邦軍に勝ち目は無い。 項羽の親戚の項伯(こうはく)は、劉邦軍の張良と親しい付き合いがあったので、項伯は、この項羽軍の劉邦軍への侵攻計画を伝えた。 この緊急の知らせを聞いた劉邦は、さっそく、和睦(わぼく)の申し入れを、項伯に伝えた。 そして、項伯は、その劉邦からの和睦の申し出を項羽に伝えた。 その後、劉邦が停戦のため、項羽に面会を申し込み、そして鴻門(こうもん)にて、ある日の朝、項羽と劉邦との面会が始まった。 予備知識 [ ] 「沛公」(はいこう) = 「劉邦」(りゅうほう) である。 この「鴻門の会」の時点で、項羽と劉邦が面会中。 これから、項王の参謀である范増(はんぞう)は、劉邦が将来の項王の天下取りでライバルになり邪魔になるだろうと考え、項羽の部下に命じて、劉邦を殺そうとする。 范増は、項羽に、目配せで劉邦の暗殺計画を伝えたが、項羽はこの暗殺計画を採用しなかった。 范増は、項羽の手下の項荘(こうそう)に、劉邦の暗殺を命令する。 劉邦が面会中なので、項荘は、項荘が武器を持った状態で劉邦に近づくために、「もてなしをしたいが、戦場なので武器しかないので、剣(つるぎ)の舞い(まい)をしたい」などのような事をいって、剣舞を装う(よそおう)。 しかし、項伯(こうはく)は、劉邦を守るために、項伯も舞いに参加する。 項伯は項羽の親戚だが、劉邦の参謀の張良(ちょうりょう)に恩があるので、なので、項伯は劉邦を助けようとしているわけである。 これまでの人物を整理すると• 劉邦を殺したい人 范増、項荘• 劉邦を守りたい人 張良、項伯• その他 項羽(劉邦の殺害計画に興味ない)、劉邦(狙われてる本人) 原文 [ ] 沛公旦日從百餘騎來見項王,至鴻門。 謝曰:「臣與將軍戮力而攻秦,將軍戰河北,臣戰河南,然不自意能先入關破秦,得復見將軍於此。 今者有小人之言,令將軍與臣有郤。 」項王曰:「此沛公左司馬曹無傷言之。 不然,籍何以至此?」 項王即日因留沛公與飲。 范增數目項王,舉所佩玉玦以示之者三,項王默然不應。 范增起,出,召項莊,謂曰:「君王為人不忍,若入前為壽;壽畢,請以劍舞,因擊沛公於坐,殺之。 不者,若屬皆且為所虜!」莊則入為壽。 壽畢,曰:「君王與沛公飲,軍中無以為樂,請以劍舞。 」項王曰:「諾。 」項莊拔劍起舞。 項伯亦拔劍起舞,常以身翼蔽沛公。 莊不得擊。 於是張良至軍門見樊噲。 樊噲曰:「今日之事何如?」良曰:「甚急!今者項莊拔劍舞,其意常在沛公也。 」噲曰:「此迫矣!臣請入,與之同命。 」噲即帶劍擁盾入軍門。 交戟之衛士欲止不內。 樊噲側其盾以撞,衛士仆地。 噲遂入,披帷西嚮立,瞋目視項王,頭髮上指,目眦盡裂。 項王按劍而跽曰:「客何為者!」張良曰:「沛公之參乘樊噲者也。 噲拜謝,起,立而飲之。 項王曰:「賜之彘肩!」則與一生彘肩。 樊噲覆其盾於地,加彘肩上,拔劍切而啗之。 項王曰:「壯士!能復飲乎?」樊噲曰:「臣死且不避,卮酒安足辭!夫秦王有虎狼之心,殺人如不能舉,刑人如恐不勝,天下皆叛之。 懷王與諸將約曰:『先破秦入咸陽者王之。 』今沛公先破秦入咸陽,毫毛不敢有所近,封閉宮室,還軍霸上,以待大王來。 故遣將守關者,備他盜出入與非常也。 勞苦而功高如此,未有封侯之賞,而聽細說,欲誅有功之人,此亡秦之續耳。 竊為大王不取也!」項王未有以應,曰:「坐。 」樊噲從良坐。 坐須臾,沛公起如廁,因招樊噲出。 沛公已出,項王使都尉陳平召沛公。 沛公曰:「今者出,未辭也,為之柰何?」樊噲曰:「大行不顧細謹,大禮不辭小讓。 如今人方為刀俎,我為魚肉,何辭為?」於是遂去。 乃令張良留謝。 良問曰:「大王來何操?」曰:「我持白璧一雙,欲獻項王;玉斗一雙,欲與亞父。 會其怒,不敢獻。 公為我獻之。 」張良曰:「謹諾。 」 當是時,項王軍在鴻門下,沛公軍在霸上,相去四十里。 沛公則置車騎,脫身獨騎,與樊噲、夏侯嬰、靳彊、紀信等四人持劍盾步走,從酈山下,道芷陽間行。 沛公謂張良曰:「從此道至吾軍,不過二十里耳。 度我至軍中,公乃入。 」 沛公已去,間至軍中,張良入謝,曰:「沛公不勝桮杓,不能辭。 謹使臣良奉白一雙,再拜獻大王足下;玉斗一雙,再拜奉大將軍足下。 」項王曰:「沛公安在?」良曰︰「聞大王有意督過之,脫身獨去,已至軍矣。 」項王則受璧,置之坐上。 亞父受玉斗,置之地,拔劍撞而破之,曰:「唉!豎子不足與謀!奪項王天下者,必沛公也。 吾屬今為之虜矣!」沛公至軍,立誅殺曹無傷。 一 [ ] 現代語訳 [ ] 沛公(はいこう)は翌朝、百余騎(ひゃくよき)を従え、やってきて項王(こうおう)に面会しようとし、鴻門(こうもん)に到着した。 (沛公が項王に)謝罪して言うには、「私は将軍と協力して秦を攻撃しました。 将軍は黄河(こうが)の北方(ほっぽう)で戦い、私は黄河の南方(なんぽう)で戦いました。 しかしながら、自分でも予想してなかったことに、(私が)先に関中に入って秦を倒すことに成功して、再び将軍(=項羽)に、この地でお会いできるとは。 今、つまらぬ人間が告げ口をして、将軍と私を仲違いさせようとしています。 」と(言った)。 項王が言うには、「そのことは沛公の左司馬(さしば)の曹無傷(そうむしょう)から、それ(=天下取りにて、沛公が項羽を出し抜こうとしている)を聞いたのだ。 そうでなければ、どうして私がこういう事(=沛公軍に攻撃)をするに至るでしょうか。 (いや、攻撃するはずがない。 )」 書き下し文 [ ] 沛公(はいこう)旦日(たんじつ)百余騎(ひゃくよき)を従へ(したがえ)、来たり(きたり)て項王(こうおう)に見えん(まみえん)とし、鴻門(こうもん)に至る(いたる)。 謝(しゃ)して曰はく(いわく)「臣(しん)将軍(しょうぐん)と力(ちから)を戮せて(あわせて)秦(しん)を攻む(せむ)。 将軍は河北(かほく)に戦ひ(たたかい)、臣(しん)は河南(かなん)に戦ふ。 然れども(しかれども)自ら(みづから)意はざりき(おもわざりき)、能く(よく)先(さき)に関(せき)に入りて秦(しん)を破り(やぶり)、復た(また)将軍に此(ここ)に見ゆる(まみゆる)を得ん(えん)とは。 今者(いま)、小人(しょうにん)の言(げん)有り。 将軍をして臣と郤(げき)有らしむ(あらしむ)。 項王(こうおう)曰はく、「此れ(これ)沛公の左司馬(さしば)曹無傷(そうむしょう)之(これ)を言ふ(いふ)。 然らずんば(しからずんば)、籍(せき)何(なに)を以て(もって)此(ここ)に至らん(いたらん)。 語彙・読解 [ ]• 復た(まタ) - 再び(ふたたび)。 復た(また)将軍に此(ここ)に見ゆる(まみゆる)を得ん(えん) この文での「此」(ここ)とは鴻門(こうもん)のこと。 ここでの「得」とは、機会に恵まれるということ。 項王と面会できた、という機会について。 一方、能力があって「〜できる」という場合は「能」を用いる。 不然(しかラずンバ) - そうでなければ。 ここでの「そう」とは、曹無傷が言ったということ。 何以至此(なにヲもッテここニいたラン)-どうして、こんなことをしようか、いや、しない。 「何以〜」は理由や手段を問う疑問であるが、ここでは 反語の意味。 語句 [ ]• 見項王(こうおうニまみエン) ここでは、項王に敬意を表すため、「まみエン」と訓読する。 謝 (しゃシテ)- 謝罪して。 沛公が函谷関を封鎖して項羽を怒らせたことなどを謝罪している。 臣(しん) - 私。 へりくだっていう場合の一人称。 然(しかレドモ) - 接続詞。 ここでは逆接。 不自意(みずからおもハざりキ) - 自分で思わなかったことで• 今者(いま) - 今。 「者」は、ここでは 時(とき)を表すときに添える接尾語。 小人(しょうじん) - 取るにたらない者。 つまらぬ者。 令(しム)-使役を表す。 「令将軍与私臣有郤」で、「将軍と私を仲違いさせようとしている」の意味。 語釈 [ ] 沛公(はいこう) - 劉邦(りゅうほう)。 のちに項羽を倒し、中国を統一し、漢王朝の始祖になる。 秦への反乱の祭、沛(はい)で旗上げしたので沛公と呼ばれた。 三十九歳のときに挙兵。 沛は今の江蘇省(こうそしょう)沛(はい)県。 旦日(たんじつ) - 朝。 項王(こうおう) - 項羽(こうう)。 名は籍(せき)。 「羽」は字(あざな)。 つまり項籍(こうせき)が本名。 二十四歳のときに挙兵。 鴻門(こうもん) - 地名か。 将軍(しょうぐん) - 項羽のこと。 この時点では、項羽はまだ楚王ではない。 戮力(ちからヲあわせテ) - 力を合わせて。 協力して。 河北(かほく) - 黄河(こうが)の北方(ほっぽう)の地域。 籍(せき) - ここでは「関中」の地のこと。 今でいう陝西省(せんせいしょう)南部。 郤(げき) - 仲違い。 左司馬(さしば) - 役職名。 武官の官名である。 二 [ ] 現代語訳 [ ] 項王はその日、沛公を引きとどめて、(酒宴をひらき)一緒に酒をくみかわした。 項王と項伯は(西側の席に座って)東を向いて座り、亜父(あほ)は(北側の席に座り)南を向いて座った。 亜父(あほ)とは范増(はんぞう)のことである。 沛公は(南側の席に座って)北を向いて座り、張良(ちょうりょう)は西を向いて(沛公のそばに)控えている。 范増はたびたび項王に目配せをして、腰につけていた玉飾りを挙げて、項王に(沛公を殺すべきだと)三度も示した。 (しかし)項王は黙ったまま応じなかった。 范増は立ち上がり(宴席の)外に出て、項荘を呼び寄せて言うには「わが君(=項羽)は、人柄から、(沛公をだまし討ちで殺すような)むごいことができない。 (だから代わりに、おまえが、沛公を殺せ。 その手順は、まず、)おまえが(宴席に)入り、(沛公の)前に進んで長寿を祝え。 祝いが終わったら、剣で舞うことを願い出て、舞いをして、その機会に沛公を宴席で斬り殺してしまえ。 そうしないと、(将来、)(今のところは軍勢が優勢である項羽の身内である)お前の身内も皆、(近い将来、勢力を伸ばした沛公の軍勢に攻めこまれ、お前たち項一族は)今にも捕虜(ほりょ)になってしまうだろう。 項荘はすぐにも宴席に入って長寿を祝った。 長寿を祝い終わって(項荘が)言うには、「わが君が沛公と飲んでおられます。 どうか剣で舞わせてください。 項王は「よろしい。 (=舞い始めた。 ) (意図に気づいた)項伯もまた(沛公を守ろうとして)剣を抜いて立ち上がって舞い、常に身をもって、(まるで)親鳥が子を翼でかばうように、沛公をかばった。 (そのため)項荘は沛公を討つことができなかった。 書き下し文 [ ] 項王(こうおう)即日(そくじつ)因りて(よりて)沛公(はいこう)を留めて(とどめて)与に(ともに)飲(いん)す。 項王・項伯(こうはく)は東嚮(とうきょう)して坐し(ざし)、亜父(あほ)は南嚮(なんきょう)して坐す(ざす)。 亜父(あほ)とは范増(はんぞう)なり。 沛公は北嚮(ほっきょう)して坐(ざ)し、張良は西嚮(せいきょう)して侍す(じす)。 范増数(しばしば)項王に目(もく)し、佩ぶる(おぶる)所の玉玦(ぎょくけつ)を挙げて、以つてこれに示すこと三たびす。 項王黙然として応ぜず。 范増起ち(たち)、出でて(いでて)項荘を召し(めし)、請ひて(いいて)曰はく「君王(くんおう)人(ひと)と為り(なり)忍びず(しのびず)。 若(なんぢ)入り(いり)、前みて(すすみて)寿(じゅ)を為せ(なせ)。 寿(じゅ)畢はらば(おわらば)請ひて(いいて)剣(けん)を以 も つて舞はんことを請い、因りて(よりて)沛公(はいこう)を坐(ざ)に撃ちて(うちて)之(これ)を殺せ(ころせ)。 不者ずんば(しからずんば)、若(なんぢ)が属(ぞく)皆(みな)且に(まさに)虜(とりこ)とするところと為らん(ならん)とす。 荘(そう)則ち(すなわち)入りて(いりて)寿(じゅ)を為す(なす)。 寿(じゅ)畢はりて(おわりて)曰はく(いわく)「君王(くんおう)沛公(はいこう)と飲す(いんす)。 軍中(ぐんちゅう)以つて(もって)楽しみ(たのしみ)を為す(なす)無し(なし)。 請ふ(こう)剣(けん)を以つて(もって)舞はん(まわん)。 項王(こうおう)曰はく(いわく)、「諾。 」(だく)と。 項荘(こうそう)剣(けん)を抜き(ぬき)起ちて(たちて)舞ふ(まう)。 項伯(こうはく)も亦(また)剣(けん)を抜き(ぬき)起ちて(たちて)舞ひ(まい)、常に(つねに)身(み)を以つて(もって)沛公(はいこう)を翼蔽(よくへい)す。 荘(そう)撃つ(うつ)を得ず(えず)。 語彙・読解 [ ]• 即日(そくじつ) - その日。 因りて(よりて) - 「その機会に」。 「そのために」。 沛公が項羽を訪ねてきた機会なので、というような意味。 与飲(ともにのむ、ともにいんす) - 一緒に飲んだ。 「与」は「一緒に」という意味。 数(しばしば) - 何度も。 范増数(しばしば)項王に目(もく)し、 范増は項王に目配せをした。 ここでの目配せの意図は、沛公を殺す許可を、項羽に求めている。 若(なんじ) - おまえ。 二人称。 「若」(ごとし)と同じ字。 不者(しからずんば) - そうでなければ。 ここでは「沛公を殺さなければ」の意味。 且為所捕虜(まさにとりことするところならん) - 今にも捕虜になってしまうだろう。 「且〜」(まさに)で、「いまにも 〜 になるだろう」の意味。 請以剣舞(けんをもってまわんことをこい) - 剣舞を舞うことを願う。 「請A」で「Aを要望する」。 「請」は願望(がんぼう)を表す。 諾(だく) - 承諾(しょうだく)する、という意味。 「よかろう」「よろしい」。 不得撃(うつことをえず) - 討つことができない。 「不得〜」で、機会が無くて「〜できない」の意味。 語釈 [ ] 亜父(あほ) - 父に次いで、尊敬される者。 「亜」とは「〜に次いで」とかの意味。 范増(はんぞう) - 項羽の参謀。 東嚮(とうきょう) - 宴会の席で、西に座って東を向いている。 当時の宴会では、西が最上座。 つまり東嚮が最上座。 張良(ちょうりょう) - 劉邦の参謀。 項伯(こうはく) - 項羽の叔父(おじ)。 目 - 目くばせする。 玉玦(ぎょくけつ) - 輪の形をした、玉飾りの一種。 「玦」が「決」に通じ、決断を意味する。 項荘(こうそう) - 項羽のいとこ。 属(ぞく) - 一族。 身うち。 前みて(すすみて) - 進んで 畢わらば(おわらば) - 終わったら。 翼蔽(よくへい) - 親鳥がひなを翼でかばうように守る。 三 [ ] 現代語訳 [ ] そこで張良は軍営の門に来て、樊噲(はんかい)を会った。 樊噲は「今日の様子は、どうか」と言った。 張良は言った。 「非常に切迫している。 今、項荘が剣を抜いて舞いをしている。 そのねらいは、常に沛公にある。 (=沛公を殺そうと狙っている。 )」と言った。 樊噲は「これは緊急だ。 お願いです、私は(宴席の中に)入って沛公と生死をともにしたい。 」と言った。 樊噲はただちに剣を身につけ盾を抱えて、軍営の門に向かった。 ) (しかし)戟(げき)を交差させている番兵が止めて入れないようにしようとした。 樊噲は盾を傾けて、それで番兵をついて地面に倒した。 樊噲はとうとう(軍営に)入り、(宴席会場の)幕を開きあげて、西を向いて立ち、目を見開いて項王を見た。 (樊噲の)頭髪は逆立ち、まなじりはことごとく裂けていた。 (=目を見開いている) 項王は、刀のつかに手をかけ膝(ひざ)をついて身構えて言うには、「おまえは何者か」と。 張良が答えるには、「沛公の車で護衛の添え乗りをしている、樊噲(はんかい)という者です。 項王が言うには、「勇敢な男だ。 これに大杯(たいはい)の酒を与えよ。 そこで一斗(「いっと」、当時は約二リットル)の酒を与えた。 樊噲は、礼を言って立ち上がり、立ったままでこれ(=酒)を飲んだ。 項王が言うには「彼に豚の肩の肉を振る舞え。 そこで、ひと塊(かたまり)の生の豚の肩の肉を与えた。 樊噲は、その(持ってきた)盾を地にふせて、豚の肩の肉をその上に置いて、剣を抜いて(豚肉を)切って、これ(=豚肉)を食べた。 書き下し文 [ ] 是(ここ)に於いて(おいて)張良(ちょうりょう)軍門(ぐんもん)に至り(いたり)て、樊噲(はんかい)を見る。 樊噲曰はく、「今日(こんにち)の事(こと)何如(いかん)。 良(りょう)曰はく、「甚だ(はなはだ)急(きゅう)なり。 今者(いま)、項荘(こうそう)剣(けん)を抜きて(ぬきて)舞ふ(まう)。 其の(その)意(い)常に(つねに)沛公に在るなり。 噲(かい)曰はく(いわく)、「此れ(これ)迫れり(せまれり)。 臣(しん)請ふ(こう)、入りて(いりて)之(これ)と命(めい)を同じく(おなじく)せん。 噲(かい)即ち(すなわち)剣(けん)を帯び(おび)盾(たて)を擁して(ようして)軍門(ぐんもん)に入る(いる)。 交戟(こうげき)の衛士(えいし)止めて(とどめて)入れざらん(いれざらん)と欲す(ほっす)。 樊噲(はんかい)其の(その)盾(たて)を側だてて(そばだてて)、以て(もって)衛士(えいし)を撞きて(つきて)地にたおす。 噲(かい)遂に(ついに)入り(いり)、帷(い)を披きて(ひらきて)西嚮(せいきょう)して立ち、目を瞋らして(いからせて)項王(こうおう)を視る(みる)。 頭髪(とうはつ)上指(じょうし)し、目眥(もくし)尽く(ことごとく)裂く(さく)項王(こうおう)剣(けん)を按じて(あんじて)、跽(き)して曰はく、「客(かく)何為る(なんする)者(もの)ぞ。 張良(ちょうりょう)曰はく(いわく)、「沛公(はいこう)の参乗(さんじょう)樊噲(はんかい)という者(もの)なり。 項王曰はく、「壮士(そうし)なり。 之(これ)に卮酒(ししゅ)を賜へ(たまえ)。 則ち(すなわち)斗卮酒(とししゅ)を与ふ。 噲(かい)、拝謝(はいしゃ)して起ち(たち)、立ちながら(たちながら)にして之(これ)を飲む(のむ)。 項王曰はく、「之に(これに)彘肩(ていけん)賜へ(たまえ)。 則ち(すなわち)一(いつ)の生彘肩(せいていけん)を与ふ(あたう)。 樊噲(はんかい)其の(その)盾(たて)を地(ち)に覆せ(ふせ)、彘肩(ていけん)を上(うえ)に加へ(くわえ)、剣(けん)を抜き(ぬき)、切りて(きりて)之(これ)を啗らふ(くらふ)。 語彙・読解 [ ]• 於是(ここにおいて) - 「そこで」「こうして」「それで」。 接続詞的な意味の熟語。 何如(いかん) - いかがですか。 疑問を表す。 甚(はなはだ)急(きゅう) - 「甚」とは「非常に」「とても」の意味。 「甚大」(じんだい)の「甚」の字と同じ。 「急」は、「緊急」の急の字と同じ。 急は、文脈から、切迫(せっぱく)、急迫(きゅうはく)の意味。 此迫矣(これせまれり) - 「矣」は 断定を表す助字であり、訓読しない。 語釈 [ ] 目眥(もくし) - 目尻。 まなじり。 参乗(さんじょう) - 護衛のため馬車に同乗する兵士。 護衛のための添え乗り。 斗(と) - 当時の一斗は約二リットル。 彘肩(ていけん) - 豚の肩の肉。 四 [ ] 現代語訳 [ ] 項王は言う、「勇士である。 まだ酒を飲めるか。 樊噲が言うには、「私は死ですら避けようとしません。 (まして)酒を、どうして断る必要があるのでしょうか。 (樊噲が言うには、)「そもそも秦王は、虎や狼のような(残忍な)心を持っていました。 人を殺すことは、数えきれないほどで(=多くて)、人を処刑することは、しきれないことを恐れるほどでした。 (秦の王は、そういう事をしていたので、)天下の人々は皆(みな)、秦に背き(そむき)ました。 (楚の)懐王が将軍たちと約束して言うには、『先に秦を撃破して咸陽(かんよう)に入場した者は、その地(=関中)の王としよう。 今、沛公は先に秦を破って咸陽(かんよう)に入場しましたが、ほんの少しの物(=宝物など?)も、けっして近づけようとしません。 (= 自分のものにしませんでした。 )宮殿を封鎖し、引き返して、覇水のほとりに駐屯し、大王の来られるのをお待ちしていたのです。 わざわざ将兵を派遣して函谷関(かんこくかん)を守らせたのは、他の盗賊の出入りと、非常事態に備えたからです。 (沛公は)苦労して功績の高いことは以上の通りですが、いまだに諸侯に封ずる(= 沛公に領地を与えて、沛公を諸侯のうちの一人として扱う・・・というような意味)という恩賞がありません。 それどころか、つまらない人のたわごとを聞いて、功績ある人(= 沛公)を罪を責めて殺そうとしています。 これでは、滅んだ秦の、二の舞いになるだけです。 失礼ながら(私は言いますが)、大王のためには得策ではありません。 項王は、いまだに答えることが、できなかった。 項王が言うには、「まあ、座れ。 樊噲は張良のそばに座った。 座ってから、しばらくして、沛公は立ち上がり便所に行き、そのついでに樊噲を招いて(一緒に)出た。 書き下し文 [ ] 項王曰く、「壮士 そうし なり。 能く よく 復た また 飲むか。 樊噲 はんかい 曰く、「臣 しん 死すら且つ かつ 避けず。 卮酒 ししゅ 安んぞ いずくんぞ 辞する じする に足らんや。 夫れ それ 秦王虎狼 ころう の心有り。 人を殺すこと挙ぐる あぐる 能は あたは ざるが如く ごとく 、人を刑すること勝へ たへ ざるを恐るるが如し ごとし。 天下皆之 これ に叛く そむく。 懐王 かいおう 諸将 しょしょう と約して曰く、『先ず まず 秦 しん を破りて咸陽 かんよう に入る者は、これに王たらしめん。 と』今、沛公 はいこう 先ず秦を破りて咸陽(かんよう)に入り。 豪毛 ごうもう も敢へて あへて 近づくる所有らずして、宮室 きゅうしつ を封閉 ふうへい し、還りて かえりて 覇上 はじょう に軍して、以て もって 大王の来たるを待てり。 故ら ことさわら に将を遣はし関を守らしめし者は、他盗の出入と非常とに備へしなり。 労 ろう 苦だ はなはだ しくして功 こう 高きこと此く かく の如し。 未だ まだ 封侯 ふうこう の賞有らず。 而る しかる に細説 さいせつ を聴きて、有功 ゆうこう の人を誅せんと ちうせんと 欲す ほっす。 此れ これ 亡秦の続 ぞく 耳 のみ。 窃か ひそか に大王の為に取らざるなり。 項王未だ まだ 以て応ふること有らず。 曰く、「坐せよ。 樊噲 はんかい 良に従ひて坐す。 坐するところ須 しゆ 臾 ゆ にして、沛公起ちて廁 かわや に如き ゆき 因り いんり て樊噲を招きて出ず いず。 語彙・読解 [ ]• 能復飲乎(よくまたのむか) - 飲めるか。 「能A」は「Aが可能」の意味。 「乎」(か)は疑問の意味。 死且不避。 巵酒安足辞。 - 死ですら避けようとしない。 どうして大杯の酒を辞退するか。 いや、大杯の酒を辞退しない。 「A 且 B。 安 C。 」で、「AですらBである。 どうしてCであろうか。 いやCではない。 」の意味。 抑揚(よくよう)の意味。 不敢有所近(あえてちかづくるところあらず) - 「不敢〜」で「すすんで〜しようとはしない」の意味。 故(ことさらニ) - 「故意に」「わざと」の意味。 ここでは文脈から「わざわざ」と解釈する。 誅(ちゅう) - 罪を責めて殺す。 耳(のみ) - 強い断定や限定。 「亡秦之続耳」(ぼうしんのぞくのみ)は「滅んだ秦の二の舞いである」のような意味。 語釈 [ ] 豪毛(ごうもう) - ほんのわずか。 豪は獣の細い毛。 窃か(ひそか) - はばかりながら。 へりくだって言う言葉。 須臾(しゅゆ) - しばらくして。 - 五 [ ] 現代語訳 [ ] 沛公はすでに(宴席から)脱出した。 項王は、都尉(とい)の陳平(ちんぺい)に沛公を呼びに行かせた。 沛公が言うには、「いま出てきたときに、まだ別れのあいさつをしていない。 これは、そうするべきだろうか。 樊噲が言うには、「大きな事業を行うには、小さな慎み(つつしみ)にはこだわらず、大きな礼節のためには小さな礼節を無視する必要も有ります。 いま、相手はちょうど、包丁(ほうちょう)とまな板であり、私達は(料理されかねない)魚肉です。 なんで、あいさつなどに、こだわっている場合でしょうか。 (あいさつの必要はありません。 速く逃げないと危険です。 )」 そこで、とうとう沛公は去った。 それで張良を留まらせて(項王に)謝罪させた。 張良が沛公に質問して言ったのは、「大王(=沛公)が来たとき、(土産として)何を持ってきましたか。 (沛公が)言うには、「私は白璧の一対を持ってきて、項王に献上しようと思い、玉斗の一対を亜父どのに与えようと思っていたが、その(=項王らの)怒りを買っていたので、進んで献上しようとはしなかった。 あなたが私のために、これを献上してくれ。 」と言った。 張良が言うには「謹んで承知しました。 書き下し文 [ ] 沛公(はいこう)已に(すでに)出づ(いづ)。 項王(こうおう)都尉(とい)陳平(ちんぺい)をして沛公を召さしむ。 沛公曰はく(いわく)、「今者(いま)、出づる(いづる)に未だ(いまだ)辞(じ)せざるなり。 之を為すこと奈何(いかん)。 樊噲(はんかい)曰はく、「大行(たいこう)は細謹(さいきん)を顧みず(かえりみず)、大礼(たいれい)は細譲(しょうじょう)を辞せず。 如今(じょこん)、人(ひと)は方に(まさに)刀俎(とうそ)たり、我(われ)は魚肉(ぎょにく)たり。 何ぞ(なんぞ)辞(じ)するを為さん(なさん)。 是(ここ)に於いて(おいて)遂に(ついに)去る(さる)。 乃ち(すなわち)張良(ちょうりょう)をして留まり(とどまり)謝(しゃ)せしむ。 良(りょう)問ひて(といて)曰はく、「大王(だいおう)来たる(きたる)とき、何(なに)をか操れる(とれる)。 曰はく、「我(われ)白璧(はくへき)一双(いっそう)を持(ぢ)し、項王(こうおう)に献(けん)ぜんと欲し(ほっし)、玉斗(ぎょくと)一双(いっそう)をば、亜父(あほ)に与へん(あたえん)と欲し(ほっし)も、其の(その)怒り(いかり)に会ひて(あいて)、敢へて(あえて)献(けん)ぜず。 公(こう)我が(わが)為に(ために)之(これ)を献ぜよ(けんぜよ)。 張良(ちょうりょう)曰はく(いわく)、「謹みて(つつしみて)諾(だく)す。 語彙・読解 [ ] 已出(すでにいず) - すでに出た。 使 - 使役。 奈何(いかん) - どうしようか。 疑問を表す。 手段・方法を問う。 「如何」「若何」と同じ意味・用法。 如今(いま) - ちょうどうど今。 方(まさに) - ちょうど今。 まさに。 何辞為(なんぞじすることなさん) - どうして別れのあいさつをすることがあろうか、いや、することはない。 (反語) 不敢献 - 「不敢A」で「すすんでAしようとしない」。 語釈 [ ] 都尉(とい) — 軍事をつかさどる官名。 辞(じ) - 別れのあいさつ。 刀俎(とうそ) - 包丁とまな板 操 - 土産として持ってくる。 白璧(はくへき) - 白い、環状の宝石。 玉斗(ぎょくと) - 玉で作ったひしゃく。 六 [ ] 現代語訳 [ ] このとき、項王の軍は鴻門に駐屯しており、沛公の軍は覇水のあたりに駐屯していた。 おたがいの(駐屯地の)距離は四十里(約十六キロメートル)であった。 沛公は、よって、(持ってきた)車と(連れてきた)兵を(鴻門に)残し、身一人で脱出して騎馬に乗り、樊噲・夏侯嬰(かこうえい)・靳彊(きんきょう)・紀信(きしん)たちの四人と、剣と盾を持って徒歩で走り、驪山(りざん)のもとから、芷陽(しよう)への道を、抜け道を通って行った。 (沛公と張良の別れ際に、)沛公が張良に言っていたことは、「この道で自軍に到着するまでが、たったの二十里に過ぎない。 私が自軍に到着した頃合いを見計らって、そなたはそこで宴席に入れ。 書き下し文 [ ] 是の(この)時(とき)に当たり(あたり)、項王の軍(ぐん)は鴻門(こうもん)の下に在り(あり)、沛公(はいこう)の軍(ぐん)は覇上(はじょう)に在り(あり)相去る(あいさる)こと四十里(しじゅうり)なり。 沛公則ち(すなわち)車騎(しゃき)を置き(おき)、身を脱(だっ)して独り(ひとり)騎(き)し、樊噲・夏侯嬰(かこうえい)・靳彊(きんきょう)・紀信(きしん)ら四人(よにん)の剣盾(けんじゅん)を持(ぢ)して歩走(ほそう)するものと、驪山(りざん)の下(もと)より、芷陽(しよう)に道(みち)して、間行(かんこう)す。 語彙・読解 [ ] 語釈 [ ] 四十里(しじゅうり) - 当時の一里は約四百メートル。 間行(かんこう) - 抜け道を行く。 度(はかリ)- 見積もる(みつもる)。 推し量る(おしはかる)。 七 [ ] 現代語訳 [ ] 沛公はすでに(鴻門を)去り、しばらくして(自軍の)軍中に到着した。 張良は(宴席に)入って陳謝して言うには、 「沛公は、これ以上は酒が飲めず(深く酔っていて)、別れのあいさつもできません。 (そこで沛公は)謹んで臣下である私・張良に白璧の一対を預け、(沛公が私に命令して言うには、)再拝して大王(=項王)の足元に献上し、玉斗の一対を、再拝して大将軍(=范増)の足元に差し上げよ、とのことです。 」 項王が言うには、「沛公はどこにいるのか。 張良が(答えて)言うには、「大王が沛公の過失(かしつ)をとがめると聞き、単身(たんしん)で脱出しました。 すでに自軍に到着しているでしょう。 項王はそこで白璧を受け取り、これを座席のそばに置いた。 亜父は玉斗を受け取ると、これを地面に置き、剣を抜いて、突いて破壊して、言うには、「ああ、小僧め、ともに謀略をするに値(あたい)しない。 項王の天下を奪う(うばう)者は、必ず沛公だ。 われらの一族は、今に沛公の捕虜になるだろう。 沛公は自軍に到着し、曹無傷の罪を責めて、ただちに処刑した。 書き下し文 [ ] 沛公(はいこう)已に(すでに)去り(さり)、間く(しばらく)して軍中(ぐんちゅう)に至る(いたる)。 張良(ちょうりょう)入り(いり)、謝して(しゃして)曰はく(いわく)、「沛公桮杓(はいしゃく)に勝へず(たえず)、辞(じ)するに能はず(あたわず)。 謹みて臣良(しんりょう)をして白璧(はくへき)一双(いっそう)をば、再拝(さいはい)して大将軍(だいしょうぐん)の足下(そくか)に奉ぜしむ(ほうぜしむ)。 項王曰はく、「沛公安くにか(いずくにか)在る(ある)。 良(りょう)曰はく、「大王(だいおう)之(これ)を督過(とくか)するに意(い)有り(あり)と聞き(きき)、身(み)を脱(だっ)して独り(ひとり)去れり(されり)。 已に(すでに)軍(ぐん)に至らん(いたらん)。 項王則ち(すなわち)璧(へき)を受け(うけ)、之(これ)を坐上(ざじょう)に置く(おく)。 亜父(あほ)は玉斗(ぎょくと)を受け(うけ)、之(これ)を地(ち)に置き(おき)、剣を抜き撞きて(つきて)之(これ)を破りて(やぶりて)曰はく、「唉(ああ)、豎子(じゅし)与に謀る(はかる)に足らず(たらず)。 項王の天下(てんか)を奪ふ(うばう)者(もの)は、必ず(かならず)沛公ならん。 吾が(わが)属(ぞく)今に(いまに)之(これ)が虜(とりこ)と為らん。 沛公(はいこう)軍(ぐん)に至り(いたり)立ちどころ(たちどころ)に曹無傷(そうむしょう)を誅殺(ちゅうさつ)す。 語彙・読解 [ ] 安在(いづくニカあル) - どこにいるのか。 なお、「安」を「いづくンゾ」と訓読すれば理由を問う表現になる。 語釈 [ ] 督過(とくか) — 過失をとがめる。 再拝(さいはい) - 再度のお辞儀。 丁寧なお辞儀。 深い敬意を表すしぐさ。 足下(そっか) - 足元に差し出すことで、敬意を表している、と思われる。 豎子(じゅし) - 小僧(こぞう)。 青二才(あおにさい)。 立(たちどころに) - すぐに。 ただちに。 たちどころに。 すぐさま。 項羽の性格など [ ]• 『鴻門之会』での項羽の性格 ・項羽は、沛公(はいこう)を殺す決断ができず、決断力の無い人物として、描かれている。 ・感情的で短気である一方で、人情味があり義理堅い人物として書かれている。 検定教科書などに紹介される項羽の逸話では、項羽は感情的で短気である一方で、人情味があり義理堅い人物として書かれている。 たとえば『鴻門之会』では、函谷関などを封鎖した沛公に怒り、関所を攻撃するものの、自分に謝罪しにきた沛公(はいこう)を許し、その沛公を助けにきた樊噲(はんかい)を高く評価したかのように記述されており、項羽は人情味がある人物として書かれている。 『鴻門之会』で書かれた范増(はんぞう)による評価でも、項羽を、そのような、謝罪に来た沛公の殺害をためらうような、義理堅い人物として、范増は項羽を評価しているので、范増は項荘(こうそう)に沛公の殺害を命じたのであった。 実際の性格 だが、『史記』の教科書では紹介されていない部分での項羽の実際の行動や、歴史上の実際での行動では、この『鴻門之会』で描かれたような人物像とは、やや異なる。 『鴻門之会』のあと、項羽は、反秦の盟主である懐王(かいおう)を殺したりしており、あまり義理堅いとは思えない人物だし、人情味も無いと思われる。 そもそも、この懐王の殺害によって、のちに沛公(劉邦)が項羽が滅ぼす大義名分の原因の一つになったのである。 『鴻門之会』の記述だけを信用するにしろ、それ以外の『史記』の記述も信用するにしろ、どちらにせよ、項羽の行動の方針は一貫しておらず、項羽は感情的である。 人物像の対比 項羽以外の他の人物の性格は、『鴻門之会』では、項羽とは対比的に描かれている。 たとえば范増(はんぞう)や項荘は、沛公(はいこう)の殺害をすすめるなど、目的のためには冷酷な選択でも、ためらわない。 たとえば沛公は、部下の張良(ちょうりょう)の進言をよく受け入れる人物として、描かれている。 この点が、范増の進言を受け入れなかった項羽とは異なる。 また、沛公の野心を項羽に伝えた曹無傷を、沛公は処刑するように、沛公は人を殺す人物として描かれている。 この点、沛公の殺害をためらった項羽とは異なる。 しかも、沛公の野心を曹無傷から聞いたという話を、項羽は、うっかりと、沛公に喋ってしまうのである。

次の

范増「こ、項羽ちゃん!劉邦を甘く見ないで!」項羽「うるさいですね…」

項羽と劉邦 訳

三国志とは? まずはキングダムで有名な秦! 秦の始皇帝って聞いた事ありませんか?教科書でもよく聞く秦の始皇帝は、現在映画や漫画で有名になった「キングダム」のです。 秦の始皇帝が亡くなった後 2代目皇帝「」が後を継ぎます!しかし、政治が全く分からず、国は困窮し、臣下 教育係 の趙高の傀儡となってしまいます。 いわゆる、傀儡政権 かいらいせいけん です。 実際に操られて政治を行う事です。 その後、「」は酒や女に溺れ、自殺に追い込まれます。 阿房宮は攻め込んできた項羽軍 敵 によって焼き払われ、その火は3ヶ月間鎮火することが無かったと言います。 このような人々の怨嗟の元となり、国が疲弊していく原因ともなった阿房宮が転じて、愚かなさま、行動を「 阿呆」と言うようになりました。 また、権力者が自身の権威を盾に、「鹿」を「馬」と言わせるような矛盾を無理やり押し通すことを、転じて道理・常識からはずれていることを「 馬鹿」と言うようになりました。 (と趙高のやりとりで生まれました) このように、秦の国が衰退していくのを見かねた者達が、秦を滅ぼそうと旗揚げをしていきます。 それが 項羽と 劉邦です。 まだ、三国志には突入しません。 秦を滅ぼし建国するぞ!!! 衰退し疲弊していく、国は国民に対して全く恩恵を施しません>< そのため、秦の治世はひどく、民は困窮します。 今の時代のように全てが法で裁かれたりしない上に、民主主義では無いため、国の偉い方に逆らう事が出来ませんでした。 そのため、皆が秦という国を潰そうと名乗りを上げていきます。 しかし、王になりたい方は、どこにでも沢山いる。 その中でも項羽と劉邦の戦いが主になっていきます。 項羽 武芸に秀でて、戦は負け知らずで名家の家柄でかなりのハイスペックの持ち主です。 更に、兵も勇猛果敢で強い項羽に憧れている者も多かったと思います。 しかし、弱点として傲慢な性格だったようです。 自分にあまりに自信があり過ぎて、人が言った事を素直に聞けない方だったみたいです。 優秀な軍師(范増)すら、上手く使えずに傲慢な戦を繰り返し、圧倒的に勝っていたにも関わらず最終的に負けてしまいます。 項羽さんが敗北する時のことが「四面楚歌」の由来になっています。 「四面楚歌」になった故事(昔の出来事)は、中国の「楚(そ)項羽軍」と「漢(かん)劉邦軍」が戦争をしたときのことを伝えています。 当時、劣勢であった「楚」の国の王「項羽(こうう)」は「漢」の兵士に包囲されます。 そして「漢」の兵士たちが「楚」の国の国家を歌っている声を聴きました。 この歌声を聞いた「項羽」は、自分の国である「楚」の兵士たちが「漢」の国に寝返ったのだと認識し絶望したといいます。 これが「四面楚歌」の由来です。 自分の周囲(四面)を楚の国の歌が取り囲んでいて、孤立した状態をそのまま言葉にしています。 「孤立している」「逃げ場がない」という意味を持ちます。 劉邦 <漢>を作った偉大な皇帝! だが、身分が高い訳でも無く、どちらかと言えばその日暮らしで、チンピラのような男でした。 しかし、人柄が良く、なぜか?人に好かれる人物でした。 それ故に、優秀な人材を使いこなし、見事に項羽を撃破し、統一を果たしました。 劉邦は 「貴公らは一を知って二を知らない。 わしは 張良のように策を帷幕の中に巡らし、勝ちを千里の外に決することは出来ない。 わしは 蕭何のように民を慰撫して補給を途絶えさせず、民を安心させることは出来ない。 わしは 韓信のように軍を率いて戦いに勝つことは出来ない。 だが、わしはこの張良、蕭何、韓信という3人の英傑を見事に使いこなすことが出来た。 反対に項羽は 范増1人すら使いこなすことが出来なかった。 劉邦の死 まーしかしこの劉邦が名君だったのは、少しの間だけでした。 それでも、劉邦は 人を見抜く洞察力 人に戦を任せる度量 一歩間違えば全て失う 人に愛される魅力 など、名君であることに間違いはありません。 確かに、戦で逃げ出して、荷馬車のスピード上げるために、子供を何度も投げ捨てて、軽くしようとしたりしますがw 「漢」を建国した後、劉邦は、変わってしまいます、、、 何が変わったかと言うと、、、 「人を疑うようになった」「猜疑心を抱くようになった」 最も偉い立場になると、自分の地位を脅かす可能性の者がいれば、怖いものです。 実際、若い内は資産が無いため、失う物が無いから借金してでも、企業して失敗したら自己破産なんて考える方もいます。 劉邦自体も(持たざる者)だったからこそ、人を信頼できたのだろうと思います。 いざ、自分が(地位)(名声)(財産)などを手に入れてしまった時、その現状を守りたくなるのが普通です。 劉邦は自分の家臣の中でも、軍事に優れた人材を何人も粛清してしまいます。 そのため、次は自分の番かも!と思う、家臣が反乱を起こしたりと何かと問題が起こっていきます。 劉邦を信頼していた幼馴染も疑われ、逃げざるえない状況になったりする始末でした、、、 そして、劉邦が死ぬ間際に残した言葉は 「劉のつく姓以外は王にするな」と言い残します。 劉邦亡き後の漢 その後、劉邦が死去し、更に自体は悪化します。 劉邦の妻「呂智」がとんでもないのです。 中国3(4)大悪女に名を連ねる者なのです。 まず 自分の子供の立場を絶対的にするために、劉邦親族の粛清、迫害を行う 自分の呂一族から帝を出そうと画策する 特に劉邦に気に入られていた愛人の手足を切断し、人豚と言わせて便所に投げ捨てた。 三国志はここから! 項羽と劉邦が好きすぎて、長々話しましたが、ここからが三国志です。 実質、三国時代は有力な皇帝が並び立つまで全然三国志ではありませんw 漢は400年続きましたが、前漢・後漢に分かれます。 三国志は、漢が滅んで行く過程を指します。 要はまた傀儡政権状態になります。 更に董卓には「呂布」という義理の息子がいます。 この「呂布」は三国志では最強と言われています。 三国志は正史と演義で違いがありますが、どちらの記述でも呂布の強さは間違いないようです。 呂布がいるため、中々皆手が出せないため、「反董卓連合軍」を結成します。 この連合軍に参加した者達が、後の三国志に大きく影響を及ぼします。 特に後から(劉備)(孫堅)(曹操)は大活躍なので覚えて下さいw この連合軍は一時的に勝利を収めましたが、連合軍自体は、抜け駆けや物資の補給をしないなどバラバラで空中分解を起こしますw 董卓は戦況が不利になったため、洛陽の都を焼き払い、長安へ移る! 日本で例えると東京が危機的状態だから、首都を大阪に移そうみたいな感じです。 しかし、「反董卓連合軍」は正史と演義では全く違います>< 董卓側の猛将「華雄」を打ち取ったのは「孫堅」(正史) 董卓側の猛将「華雄」を打ち取ったのは「関羽」(演義) 呂布と「劉備」「関羽」「張飛」の3対1での決闘 演義のみ そもそも、正史では「劉備」「関羽」「張飛」の3兄弟は参加していない! でも正史が正しいとは限りませんので楽しいですよね^^ ちなみに、長安に移った後も董卓は暴政の限りを尽くします。 そこで董卓の事を憎んでいた、朝廷 帝 に仕えていた「王允」が董卓の義理の息子「呂布」を丸め込み暗殺を行います。 見事暗殺に成功しましたが、董卓の後を狙う李傕・郭汜らに引き継がれた。 李傕・郭汜らは王允・呂布を破り、帝を手中に収め、後漢政府の事実上の統率者となったが、暴政を布いた。 曹操の父は徐州の者に殺されたため、弔い合戦を口実に徐州攻めを開始した、、、その隙をつき、呂布が を奪おうと挙兵、しかし、曹操の有能な部下は守り抜く!呂布はその後、徐州に逃げて、その時、陶謙に徐州を任せられていた劉備に身を寄せる!しかし、恩を仇で返す呂布!劉備を攻撃して裏切る!劉備は曹操の元に逃げる。 その後、曹操は帝を保護します。 李傕・郭汜は内乱で滅びます 保護した後は許都 曹操の本拠地 で過ごさせます。 呂布も曹操と劉備の連合軍で滅ぼします。

次の