日中戦争 なんj。 支那事変とは (シナジヘンとは) [単語記事]

日清戦争、日露戦争、WW1(青島戦)、日中戦争、太平洋戦争 ←全部日本の宣戦布告なしの奇襲で開戦

日中戦争 なんj

支那事変とは、12年(7年)〜16年(11年)の期間、溝事件に端を発するとにおけるである。 「 日中戦争」と表現すると11年以後も含み、までしたことになる。 概要 支那事変は12年に溝を発端に北支()へとが拡大。 勃発後は、中支(中)、さらには全土へと広がっていった。 なぜ支那事変という呼称が用いられたかについてだが、当初は両ともをなわなかったためである。 (とはをした上でなわれるであるのに対し、事変はがないまこなわれるである。 ) がされなかった理由であるが、の場合、になると第三に中立の義務が生じ、外のがなくなり困難になると考えられたためで、の場合は際的孤立を避けるためであった。 16年(11年)の日開戦の後、はをない、支那事変はへとなった。 (の一部ということになった。 ) の仲である率いると率いるが手を組み、連合のの元8年にも渡る長い戦いが始まった。 の受諾に伴う降伏後、日中戦争は終結。 そしてとの協関係は終わり、共内戦という第二の戦いが再開されることになる・・・ 中国革命 20世紀、義絶頂期、・列強は・のを推し進めていた。 はを含む列強各によって租界と呼ばれる居留地が数に存在していた。 その状況を憂いたはを起こし、を滅亡させると「列強に負けない強い」をし統一を推し進めた。 しかし、内部は分裂し、各軍閥が統一をした。 所謂、軍閥割拠時代である。 後、、、などの消滅により全でが展開。 各でもが盛んとなった。 租界地でも活動が活発になり列強各は警備の為に軍隊をする。 も相次ぐ破壊活動(現地邦人が殺、商店の襲撃)により軍隊をする。 閥同士の争いも活発になった。 11年、が結成される。 の後継者、は反共義者であり、がをしているとして員を多数処刑している。 () これにより()とによる共内戦()が始まる。 同年、はの北伐(内の軍閥を潰しをすこと)に刺を受け、山東省に出兵を決定。 第山東出兵まで行った。 それによりの感情が、反らに転換した。 現地では小規模な衝突が起こり軍による人の射殺事件も起こり、世論も、になった。 0年、が起こりが誕生する。 これにより、及びでの権益独占を狙っていたが反発。 は際非難(にを持っている欧)を浴びを脱退する。 3年、共内戦は軍がを壊滅寸前まで追いつめていた。 軍は長征(撤退)を行う。 はとの関係補修を図るが、活動が活発になりの襲撃が止まず両の溝は深まるだけだった。 そんな中、西安事件が発生し、軟禁されたはやむを得ずとのを中断し、との戦いに向かう。 盧溝橋事件(北支事変) 7年、当時北支に居留民保護の為、駐在していた陸軍部隊の中に実弾が二発発され溝事件が勃発する。 (かどちらが撃ったかは)事件は沈静化するも、とは兵を決定。 は兵しながらも不拡大方針を明、現地解決を閣議決定した。 しかし、は対日を呼びかけると、もやむを得ない場合は全面対決すると明した。 は、に配慮して事件の沈静化を狙う停戦協定を申し出るも、再び軍(正規軍)による攻撃が始り、同年に軍はに対し武行使を行うと正式に決まった。 郎坊事件と広安門事件 軍は速、及びの電線切断を展開。 に訪れたを襲撃する事件、郎坊事件が発生した。 はした電線で援軍を要請。 翌日には、による軍地を襲して地を占領。 は、事情の説明をめるも軍より回答はなかった。 また、居留民保護の為、出動していたに軍が発する広安門事件が発生。 さらに在留人がされるが起こると内世論は昂し「暴戻膺懲」を唱えて もはや全面も辞さない構えとなった。 これにより不拡大方針から拡大方針へ支持が集まるようになった。 上海事変 第二次 では、溝事件前からと軍との間では険悪なが漂っていた。 6年にはに駐在していた事顧問団ハウゼンはに対日開戦を進言、6年末には停戦協定を破って、の非武装地帯に地構築を行っていた。 軍は精鋭部隊を配備。 特に教導総隊などは、前記した事顧問団から訓練を受け、製のを装備しており、最精鋭部隊と評価されていた。 また一部の部隊はを装備していた。 7年、北支事変が起こると緊は一気に高まり一触即発の様相を呈していた。 そんな中、軍人撃事件(軍事件)、兵事件が発生。 衝突は時間の問題となった。 、軍約3万が内の際共同租界の地区を包囲。 対するは、軍陸4千だけだった。 側は撤退を要するも、聞き入れられず、陸軍に増援を要請した。 13日には側の撃により開始。 陸は応戦する積極的な攻撃を行わず、もっぱら防戦一方であった。 軍機がを行っても対を行わなかった。 しかし撃も始まり、15日にはも不拡大方針を撤回。 軍隊による初の渡洋を敢行。 また各地の特別陸をに、軍の攻撃が続く中、各拠点を死守した。 、軍(陸軍2個師団)が上陸。 攻勢に出るも、強固なに阻まれ思うように進撃が出来なかった。 、軍はゼークを攻撃し突破。 これはの戦いを経験しないが初めて経験した突破だった。 は本軍が制圧した。 しかし、一部の地は突破できずにいた。 、第10軍()がに上陸すると、軍は退路を断たれる危険から一斉に退却を開始。 退却中はに物資を使用させないようにと共施設かまで全て破壊した。 軍は第10軍と共に追撃に出るが、退却のが速く捕捉出来なかった。 南京攻略戦 で軍が敗退すると、期にを終わらせようと現地軍()は追撃戦に移行した。 大本営(7年設置)は範囲からすると停止命を打診する。 しかし、期解決の判断から追撃を容認、南戦のを出した。 、は南へ攻撃を開始する。 率いる首部及び役人は南総を残して出し、状態となり、内の整備が全て止まってしまった。 による降伏勧告も視され、総攻撃が始まった。 南は「各自脱出して集結せよ」と命を残して脱出。 しかし、後方には督が逃亡する味方将兵に攻撃を行っていた。 は南内に突入。 残党を排除する。 その過程でが発生する。 殺人数や方法、動機や命の有などを巡りが絶えず、でも事件の詳細は不明なままである。 内では南陥落を祝い提など祝賀会が開けれた。 しかし、既にはを南からへ移し、の構えを見せていた。 のは南陥落の報を受けて祝杯を上げて、大喜びした。 徐州攻略~武漢作戦まで 南を陥落ものの、軍の殲滅にはさらに追撃を開始した。 徐州にが集まっているとのを受けては徐州へ向かう。 ここでも素い退却により軍は殲滅を免れる。 またこの時に機がへ、ビラ撒いている。 は軍の敗退は内部にが居る為だと疑い、少しでもの事を喋っている者を多数処刑している。 また、の進撃を遅らせる為に河の防を破壊するが開始した。 結果の進撃は止まったものの、自民数十万人を犠牲にした。 はの仕業として非難した。 はの要衝であるを占領してに圧を掛けようとした。 行われたはで行われた中最大規模であり、あの以上であった。 は成功するが結局殲滅には至らなかった。 支那事変から大東亜戦争へ 11年には正式にに。 は対英を含め「」と呼称することを決めた。 関連項目•

次の

【世界大戦】米中戦争、開戦へ…なんJ民さん、WW3で盛り上がる😄

日中戦争 なんj

日中戦争にはいつからいつまでという時期区分に関していくつもの解釈がありますが、日本関東軍の目的は蒋介石(しょうかいせき)の国民党軍を倒して大陸進出を図ることだったのは確かでしょう。 1931年に日本関東軍が満州事変を起こし、国際連盟から脱退。 そして万里の長城を境に中国での領地を拡大し、満州国の建国を果たします。 一方、中国では共産党と国民党の内戦が続いていましたが、各地で相次ぐ反日的な暴動や運動を見かね、国民党側の張学良(ちょうがくりょう)の提案で西安にいた蒋介石が毛沢東との国共合作に同意し、中国は抗日路線へと進んでいくのです。 日清戦争以来、日本は欧米列強にならって中国大陸への野心を露骨に抱いていましたが、1937年の盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)を境に日本関東軍と中国国民党軍は全面戦争へと突入。 現在、日本では一般的にこの時から日中戦争が始まったというように理解されています。 日本は北京・天津を制圧し続いて南京も制圧、後に国民党のナンバー2である汪兆銘(おうちょうめい)を首相とした蒋介石と同じ国民党を名目とする傀儡政権を南京に樹立しました。 以後、日本は南京を拠点に中国各地へ進出、その勢力はアジアの中でも抜きん出た存在になります。 しかしこれを警戒したアメリカやイギリスは日本を強く批判し経済制裁を加えます。 こうして日本は日独伊三国同盟を根拠にアメリカやイギリスなどの連合国との決裂・抗戦を決定し、日中戦争と同時に太平洋戦争が始まるのです。 アメリカは蒋介石率いる国民党軍を支援し、日本は成都や洛陽などの重要拠点を徐々に奪還されてしまいます。 そして日本がポツダム宣言を受諾した1945年8月15日からおよそ1ヶ月後の9月9日、南京にて連合国主催の講話調停に同意。 こうして明治以来の日本の軍事進出の野心はついに完全に潰え第二次世界大戦は終わりました。 大日本帝国は日清・日露戦争で獲得した朝鮮半島を足がかりに、現地駐留の関東軍の中で大陸進出を計画していました。 そこで関東軍の一部を主導に1931年に満州事変を起こし、清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を傀儡として満州国を建国。 これは関東軍の独走であり、政府は正確にこの事件を把握していなかったと言われていますが、真相は定かではありません。 大日本帝国と中国国民党は、元々中華民国の孫文が日本と良好な関係を築いていたことから、当初はその後継者を自負する国民党の蒋介石も孫文の遺言を遵守して日本の支援を受け、南京にて政権を樹立し毛沢東率いる共産党と戦っていました。 満州事変の後も蒋介石は日本との関係を大事にしていました。 しかし蒋介石側の国民革命軍のリーダー・張学良は父・張作霖(ちょうさくりん)を関東軍に爆殺されたことから日本をよく思っておらず、当時西安に逃げていた蒋介石を説き伏せます。 こうして蒋介石は突如方針転換し、共産党と手を結んで日本に対抗することが決まったのです(第二次国共合作)。 ここに至るまでに日本と中国の間ではそれぞれの国民が殺される事件・暴動が頻発しており、特に日本軍部が中国に対して態度を硬化させてしまったのです。 1936年の盧溝橋事件は、こうした状況下で発生しました。 日本軍の演習中に中国軍が発砲したことから小競り合いが始まったと言われていますが、真偽は定かではありません。 盧溝橋事件自体は数日で停戦協定が結ばれて終わりますが、これを口実に日本軍部が満州の維持のためにも華北の資源を狙って進出しようとしていたのです。 当時、ソ連にアメリカ、イギリスといった列強が内部の混乱や欧米諸国内での紛争によって、アジアに手を出す余裕がなかったこともそれを助長しました。 そしてついに日本軍は華北で総挙兵。 この時点ではまだ蒋介石も日本と和平する道を模索していましたが、同時期に上海の日本租界にて居留民が中国側の襲撃によって殺害される事件が発生します。 これに対して日本軍は上海に派兵を決定、これを警戒した中国はアメリカ・イギリスが提案した停戦協定を拒否して日本基地やフランス租界に爆撃を実行、日本としても黙っていられない状況になりました。 こうして日本と中国は長年の同盟を切り、全面戦争へと突き進んでいくのです。 日本軍はまず北支と称していた河北、山西地域を制圧。 一方で上海方面の海軍・空軍も徐々に戦線を押し上げ、ついに1937年11月に上海地域を完全に手中に収め、蒋介石は期待していたソ連の支援が延長されたことを受け、南京を放棄し成都に亡命します。 かくして国民党政権の首都・南京を手に入れた日本軍はそこに維新政府を樹立。 まもなく、日本国内では国家総動員法が施行され国民全員が戦争のために生活を制限されてしまいます。 その後、河北軍は江蘇省の徐州を、南京軍は湖北省の漢口を攻め、ついに蒋介石のいる成都にまで戦線を伸ばします。 成都に程近い重慶では日本軍によって爆撃が行われ、外国人含む4000人近い犠牲者が出ました。 それからまもなく重慶から逃れていた国民党No. 2の汪兆銘が南京に帰還、日本維新政府はこれを受け入れて彼を傀儡に新たな国民党政権を打ち立てました。 そして太平洋戦争へ 日本はこの時期に日独伊三国同盟を締結、アジアでの覇権を狙うために次の段階へと進もうとしていました。 アメリカ、イギリスはこの日本の傍若無人とも取れる態度に対して快く思わず、両国は蒋介石の国民党政権を支援し日本に対して停戦を要求しますが、日本はこれを受け入れません。 特にイギリスはミャンマーからの中国支援に大きく貢献しており(援蒋ルート)、日本にとっては重慶攻略の大きな障害となっていました。 そこで日本はアメリカに中国攻略を支援するように交渉を始めます。 しかしこの時にアメリカがあげた条件を日本は南京政府解散、満州国解散、中国からの無条件撤退。 日本はこれまでの努力と犠牲を否定されたと解釈したためこれを反故にし、仏領インドシナへと進駐を開始します。 とうとう連合国にまで戦争を仕掛けた日本に対し、英米両国は資金援助を凍結。 アメリカはさらに日本に対して貿易に大きく制限をかけました。 そして米国務長官ハルの作成した妥協案(ハル・ノート)が日本に提示されます。 日本にとってはこれが中国侵略を図る上で極めて不都合な内容であったためにアメリカからの最後通告であると判断、日本は連合国との全面戦争に踏み切り太平洋戦争へと突き進んでいくのです。 一方で中国、そして東南アジアでの戦争も継続していました。 結果として日本はポツダム宣言受諾の1ヶ月後に停戦協定を結ぶまで中国との戦争をやめることはできず、逆に日中戦争の終結によって大日本帝国は終わりを告げることとなったのです。 日中戦争必須の知識を詰め込んだ、専門書 概説・入門という側面を強く持った岩波文庫のシリーズの名に恥じず、本書も著者の主観を極力排除した非常に客観的な記述が特徴です。 一般的に、当時の日本が軍事派と経済派に分かれており軍部の独走が戦争の原因だという認識がありますが、実際は内閣としても戦争を通じて国益に回そうとしていたことがわかり、戦争は当時の不況に対する一貫した政治問題の一つであったことがわかります。 本書は満州事変に関してリットン調査団の資料に多くページを割いており、そこから連合国側が満州国を必ずしも日本の悪行で片付けようとしなかったこと、英米が日本に対して最後通告を突きつけたのは、日中戦争終盤で権益を犯したからであり、それまではどうにか良好な関係を築こうとしていたことなど、見落としがちな点についても書いています。 客観性が強い反面、著者独自の観点に乏しい印象を受けますが、史実に忠実な一冊として幾度も読み返す価値は非常に高いでしょう。 陸軍は皆一致団結、戦争へ向かってまっしぐらという説は、戦後の反戦ムードの中で築かれた一面的なものといっていいでしょう。 しかし常に第一線に居続け敵をよく知っている軍人が戦争を最善の選択だと盲信していたというのはどこまで信じていいものなのでしょうか。 著者が注目したのは、満州事変の立役者である石原莞爾と、武藤章や東条英機といった統制派の軍内部の政治構造です。 その上開戦に至った武藤の判断が政権奪取のためにひねり出された策略であり、当時の政権には大局的に物事を判断できる人間が一人もいなかったと主張しています。 蒋介石の戦力をみくびって長期戦に持ち込んでしまった責任も、目先の利益にばかり走っていたことからきていたものでしょう。 戦地からは見えてこない政権内部や軍の内輪揉めといった歪んだ構造について知るには、本書は最適な一冊です。 我々日本人は、アジアの一員としてもっと中国との関係について深く知るべきでしょう。 日中戦争は過去のものかもしれませんが、中国との緊迫した関係は今でも続いています。 現在も続く高度な政治問題、そしてそこから導き出される我々一般人の生活の変化にどのように対処していくのか。 それを学んでいくためには日中戦争を論じる以上の書は一読の価値ありです。

次の

5分でわかる日中戦争!勝敗、目的、流れなどをわかりやすく解説!

日中戦争 なんj

似たようなタイトルの本をしばしば見かける。 あの戦争になぜ日本は突入したのか? 本書『なぜ必敗の戦争を始めたのか』 文春新書 もその一冊だ。 しかし数多の類書よりも一歩踏み込んでいる。 タイトルに「必敗の」という文言が付いているからだ。 しかも本書は後世の研究者によるものではない。 「陸軍エリート将校反省会議」という副題からも明らかなように、戦争に深く関わった「陸軍エリート将校」たちが戦後に行った「反省会議録」をもとにしている。 本文を読むと、当事者たちの痛恨が随所にうかがえて複雑な思いを禁じ得ない。 中堅参謀だった14人が語る 本書は陸軍将校たちのOB組織「偕行社」が発行する雑誌「偕行」の昭和51(1976)年12月号~昭和53(1978)年3月号に、15回にわたって掲載された「大東亜戦争開戦の経緯」を改めてまとめたものだ。 一般書としては初めての刊行だという。 座談形式で議論が進んでいる。 出席者は対英米戦争開戦時に、陸軍中央部(陸軍省と参謀本部)の中堅参謀だった14人。 当時の肩書は大本営参謀、関東軍参謀、ロシア課長、戦史課長、作戦班班長などなど。 最終階級は大佐や中佐が多い。 おおむねトップレベルの戦争責任者たちに直接会えて、報告書を書いたり、起案を具申したりする立場だった人だ。 本書の編著者は現代史研究者の半藤一利さん。 「偕行」に連載された全15回のうち3回まではカット、残りの12回についてもダブるところを圧縮して読みやすく再構成している。 「このごろの官僚のやるように改竄や隠蔽や書き改めなどのとかく悪質なことはいっさいしておりません」とことわっている。 かなり専門的な話が多いので、半藤さんが随所に「解説」を入れている。 先の戦争については、1931年の満州事変、そして37年からの日中戦争の延長戦上に太平洋戦争を位置づける見方が一般的だ。 ゆえに「15年戦争」とも言われる。 満州事変、日中戦争を主導したのが陸軍ということもあって、「陸軍が悪玉」と言われることが多い。 半藤さんもあるときまで「海軍善玉論」にくみするところがあったという。 しかしながら「やはり歴史はできる限り広く公正に史料をみて検討しなければ学んだことにならない」ということで、偕行社の許可のもとに本書を刊行したという。 「本書を読むことで『陸軍悪玉論』のこれまでの見方がいっぺんに変わる、といったような驚天動地の陸海逆転が起きるとは思いませんが、公正な歴史解釈には少しは近づけるのではないか」と説明している。 大半の参謀が戦争反対だった 本書の特徴は、元エリート軍人たちが仲間内という気安さもあり、「虚心坦懐に当時の記憶や思い出を語り合った」ところにある。 生々しく正直な肉声が目立つ。 それゆえに、評者のような門外漢が読み始めると、思わずアンダーラインを引きたくなる箇所だらけだ。 それらの細部をここで紹介しても分かりにくいので、いくつかの「驚き」を記すに留めたい。 まず戦争開始について。 出席者の一人が、参謀本部の作戦課の幕僚たちの中で、反対した人は誰もいなかったのかと質問する。 当事者の一人が答える。 「当初は、作戦課も大部分、反対なんです・・・若手参謀は大体、反対しておったんです。 反対という意味は、戦争しても、勝つ見込みは少ないんじゃないかという観点からなんですよ」「非常な推進力になったのは、辻政信参謀と服部卓四郎作戦課長と、田中作戦部長なんです。 この三人が、非常な勢いで主戦論者なんです・・・ほかの大部分は、慎重論だったんです」 これが昭和16年7月の南部仏印進駐より前の作戦課の空気だったという。 服部と辻は昭和14(1939)年、モンゴルと満州国境で日本軍がソ連軍と衝突して惨敗したノモンハン事件の責任者コンビ。 いったん閑職に飛ばされたが、すぐに復活していた。 半藤さんは「解説」の中で、作戦課でのこんなやりとりを紹介している。 服部作戦課長が「好機南進」(チャンスを見て南進する)とブツ。 若い参謀が反論する。 「好機南進はかならず米英との戦争となる。 独ソ戦の見通しもつかないうちに、日本が新たに米英を相手に戦うなど、戦理背反そのものではないか」。 辻参謀が、とたんに大喝した。 「課長に対して失礼なことをいうな・・・南方地域の資源は無尽蔵だ。 この地域を制すれば、日本は不敗の態勢を確立しうる。 米英恐るるに足りない」。 若い参謀がなお粘る。 「米英を相手に戦って、勝算があるのですか」。 辻参謀が断固として語る。 「戦争というのは勝ち目があるからやる、ないから止めるというものではない。 今や油が絶対だ。 油をとり不敗の態勢を布(し)くためには、勝敗を度外視してでも開戦にふみきらねばならぬ。 いや、勝利を信じて開戦を決断するのみだ」。 「経済断交」を考えていなかった ここで議論になっている「南進=南部仏印進駐」について、本書ではこってり論考されている。 南部仏印進駐によって、米国による経済断交、開戦への道を突き進むことになったからだ。 参加者の一人が質している。 「私の伺いたいのは、経済断交が予見されたならば、南部仏印進駐をやらなかったのか」。 関係者の一人が答える。 「それは、よう、決意しきらなかった」。 早晩、経済断交を受けるかもしれないということは考えていたが、「この時期において、(仏印に)出たならば経済断交を受けるとは判断しなかった」。 別の人物が再び問いかける。 「海軍とか外務省とかいうところで、経済断交を予期するような意見はありませんでしたか?」。 一人が答える。 「聞かなかったね」。 そしてこう付け加えている。 「予見しておれば、それで止めたかというと、実際は、もう、止められない状況だったと思うな」。 半藤さんの「解説」によれば、陸海軍とも、最終目標は東南アジア諸国が算出する石油や鉄鉱石の資源獲得だった。 その道筋として陸軍はイギリスのアジア支配の牙城シンガポールからオランダ領東インド(蘭印)を攻略。 海軍はフィリピンから蘭印を経て時計回りにシンガポールに進撃することを描いていた。 陸軍と海軍の作戦は対立していたが、ここで「書かれていないこと」に気が付いた。 今も根強く言われる「大東亜戦争はアジアの民族解放の聖戦だった」という主張である。 本書に登場する元エリート軍人は、誰一人、そんな「大義」を口にしていない。 資源政策や軍事戦略上の重要性を語るのみだ。 陸軍省の燃料課長が昭和16年6月、東条陸相に直訴した話も紹介されている。 今の石油使用量だと、2年とは言わず1年ちょっとで作戦不能になると。 つまり戦線の拡大は無理ということを説明したのだが、東条の答えは「泥棒をせい、ということだな」。 東南アジアの石油を狙うほかはない、ということを「泥棒」という物騒な言葉で言っているのだな、と燃料課長は判断し、黙らざるを得なくなったというのだ。 「軍需景気」に浮かれていた 「解説」の中では次の指摘も腑に落ちた。 戦前の日本は不況で農村は特に困窮していたと言われるが、そうとは言えないというのだ。 昭和6(1931)年の満州事変のころから景気が良くなり、日本は1929年の世界恐慌からいち早く脱却。 昭和12(1937)年までの経済成長率は平均7%。 特に昭和12年は23. 7%という驚異の数字を記録していた。 満州事変、満州国、日中戦争による「軍需景気」が続いていたのだ。 昭和ヒトケタの時代に旧制高校や大学でかなり大規模な日中戦争反対の動きがあったことはよく知られている。 歴史学者・岩井忠熊さんの(新日本出版社)によれば、満州事変勃発の1931年から33年までの間、毎年1万人以上が治安維持法違反で検挙されている。 そうした運動は、治安当局だけの力ではなく、おそらく「戦争景気」によっても抑え込まれたのだろうと推測できた。 景気が良ければ戦争反対など吹っ飛んでしまう。 ただしこの好景気は昭和13年がピーク。 そこから下り坂になり、日米開戦の昭和16年には25%も国力(生産指数)が落ちていた。 「そのことを十分に検討したら、長期戦なんかとてもやっていられないですよ」と当時の兵站部参謀が振り返っている。 彼はよく参謀次長に呼びつけられ、「あんまり悲観的なことを言うなよ」と諭されたという。 結局、鉄の生産量なども水増し。 生産力拡充計画ができても、「陸海軍が取っちゃうから、拡充されていない」。 作戦会議に引っ張り出されることもあったが、エライ人がずらーっと並んでいるから、「たった一人で『鉄がない』とか言えないですよ。 当時の雰囲気は、本当に言えないんだ」と振り返っている。 実際、昭和16年8月、アメリカ出張から帰国した軍事課長が「駄目だ、これは・・・行ってみてびっくりこいだ。 こんなことでは出来っこない」と口走ったら、直ちに前線に飛ばされた。 数字の隠蔽、改竄に下支えされながら戦争が始まったことがわかる。 海軍も一枚岩ではなかった さて、本書のもう一つの主題である「海軍」について。 ここでも半藤さんの「解説」がわかりやすい。 すでに知られた話だが、「真珠湾奇襲」についてこう説明している。 山本五十六司令長官による奇襲案について、昭和16年9月いっぱいまで、海軍全体の作戦・指揮を統括する軍令部は猛反対していた。 「危険きわまりない」「大バクチだ」。 これらの罵声や怒号に、呉から上京してきた連合艦隊先任参謀黒島亀人大佐が顔を真っ赤にして言い切った。 「軍令部は総がかりでハワイ作戦を放棄せよというのですか。 それなら山本長官は辞職するといっておられる。 われわれ連合艦隊幕僚も全員辞職します」。 最終的に軍令部総長の永野修身大将が「山本にそんなに自信があるというなら、希望どおりやらせてやろうじゃないか」。 まさに鶴の一声だった。 半藤さんは「国家の命運を賭する重要な攻撃作戦が、こうして、いわば情にからんだような経緯で、正式に決定したのです」と強調している。 実際、戦後になって半藤さんの取材に応じた軍令部参謀の何人かは、真珠湾攻撃を認めようとせず、山本が余計なことをやったために、と悔しがっていたという。 一般に海軍は理詰めで統率が取れて一枚岩と言われるが、必ずしもそうではなかったことがわかる。 そういえば、山本五十六の側近だった黒島大佐の名は(光人社NF文庫)にも登場する。 水中で待ち構えて敵船に特攻する「伏龍」。 戦争末期に生み出された最も非情な兵器として知られる。 著者の門奈鷹一郎さんは、発案者として「黒島」の名を挙げている。 「主戦論」が「慎重論」を圧しがち 本書は7章仕立てになっている。 「三国同盟」から始まって、「北部仏印進駐」「南部仏印進駐」「独ソ開戦」「御前会議」「東条内閣の成立」と続き、最終章は「対米開戦」。 戦争に突入していく後半では、発言のオクターブがいちだんとアップする。 南方での局地戦がなぜ米英蘭戦争に質的に転換してしまったのか。 「この戦争の質の転換を、誰がやったかというと、山本五十六がやったんです」。 海軍への恨み節が噴出する。 本書を読んだ感想をくり返すと、第一に、陸軍と海軍の意思疎通の悪さ、トータルな国家意思形成のずさんさ。 さらには既述のように、「NO」といえない空気と、実際に「NO」と言った人たちが抑え込まれたこと。 開戦に向けて、「勝利」や「長期戦で停戦」のプランはあったが、「敗戦」のシミュレーションがなかった、「鉄生産」の数字に象徴されるような改竄、隠蔽。 アメリカの過小評価とナチスドイツへの過大評価。 そして開戦前の日米交渉で大きな桎梏となった「中国からの撤兵」の淵源である中国侵略についての反省がないこと、何よりも国家としてあの戦争の総括ができていないことなどだ。 また、いったん戦争の機運が盛り上がると、「主戦論」が「慎重論」を圧しがちだということにも注意しておきたいと思った。 陸軍も海軍もそうだった。 冷静な「慎重論」は臆病だとみなされる。 これは(岩波書店)にも書かれている。 改竄、隠蔽は(幻冬舎新書)が詳細だ。 本書はアマゾンの日中・太平洋戦争関連書籍ではトップ。 図書館では順番待ちのところが多い。 手元に置いて、味読されることをすすめたい。 昭和がとっくに終わり、平成も終わったが、昭和の残した苦い歴史が令和になっても未解決であることを教えてくれる。 本書が伝える当時の混乱ぶりは、もちろん今日の政治家や官僚、企業人にとっても教訓になる。 なお、海軍が早くからアメリカを仮想敵としていたことは加藤陽子さんの(新潮社)にも出てくる。 また、開戦後に海軍が早期の戦争終結に反対して戦線を拡大したことについてはNHKスペシャル取材班の(NHK出版)に詳しい。 より上級の軍人の戦争責任については保阪正康さんの(筑摩書房)がある。

次の